夢島側観客席。1、2回戦に比べると観客の数は確実に増え、生徒らの姿も多くみえるようになっている。
その中に紛れるようにして、佐藤美穂の姿もあった。キャップを目深に被り、万が一にもチームの面々に看破されないようにして。
(マウンドに立ってるの、清水くん……?じゃあ、キャッチャーは……)
そのとき、ちょうど防具を付けた吾郎がキャッチャーズボックスに駆け込んできて。思わず美穂は目を瞠った。
(本田、先輩……)
あの吾郎が、捕手をしている。いちおう捕手経験のある国分ではなくなぜ彼が?そんな疑問は浮かんだものの、いずれにせよ急場凌ぎのポジション変更を彼らが強いられていることは明らかで。
罪の意識と兄に拒絶されたショックに押しつぶされそうになりながら、美穂はここにいる。
『──7番キャッチャー、北条政斗くん。背番号、2』
「しゃス!」
主将らしく力強い声を発しつつ、打席に入る。下位打線──しかし侮れない相手であることくらいは、吾郎も事前の調査で理解している。
(こいつまでは実質クリーンナップだと思っていいくらいだ。最悪歩かせても……あーでも送られると面倒だしな……)
どうしたものか──大河がほぼ素人な以上、考えるのは自分だ。とはいえ投手としての思考と、捕手としてのそれは質量ともに大きく異なる。吾郎はその自己主張や闘争心の強さに反してあまり首を振らない投手だった。本能的に"打たれる"と判断した場合を除き、細かいコースの指定などは捕手に任せるスタイルだったからだ。それがコース、さらには球種まで面倒をみてやらなければならない。
(寿也もリックも他の連中も、こんな苦労を毎回毎回してたってことか……)
この試合が終わったら、きちんと感謝の意を述べねばなるまい。──無論勝って終わらねば、それどころではなくなってしまうけれど。
逡巡した吾郎だったが、結局は当初の方針──歩かせてでも長打を打たせない──通りにサインを出した。初球……ストライク。
(ラッキー、入ったぜ……!)
吾郎が内心ガッツポーズをとる一方で、
(あのラインはストライク、ね。そうとわかりゃその通りにやるだけさ)
審判により判断に違いが生まれるのは、たとえそれが僅かなものであっても公平性が重視される競技において如何なものかと思う。一方で、生身の人間が視るのだから致し方ない、とも。いずれにせよ高校生の身で判定に抗議するなどとんでもないことであるからして、こちらが柔軟に振る舞うよりほかにないのだ、最初から。
(かなり低めに入れてきてる。ホームラン警戒か……複雑だね、下位だからって油断してくれるほうがありがたいんだけど)
(ま、評価されてるってことで……ご期待通りに打ってやるぜ!)
二球目──外角に入ってきたカーブに、ボール球の可能性を無視して政斗は手を出した。
──かあぁんっ!
「!!」
命中。走り出す政斗、振り向く大河。そしてマスクを外して立ち上がる吾郎。
(っ、ジャストミートかよ……!でもあの弾道なら、フェンスは越えねえ!)
吾郎の読みどおり、打球は壁面に弾かれてフィールドに転がった。すぐさま草野が駆け寄り、拾い上げて二塁に送る。二塁打を窺っていた政斗だったが、危ういと判断して一塁で足を止めた。
(ふー、何とか
ノーアウトから走者を出せたのは大きい。新米投手と不慣れな捕手という急造バッテリーには大きなプレッシャーになる。
問題があるとすれば、次だ。
『8番ピッチャー、北条義希くん。背番号、1』
先の打者とまったく同じ顔をした、鎌実のエース。その表情は、マウンドと変わらずぴくりとも動かない。バットを握る手にも力が入っていないようなありさまだ。
(やる気あんのか、こいつ?)
投球への影響を考えてバッティングでは何もしません、という投手もいるにはいるが、高校野球では主流ではないし、何より吾郎はそういう選手が嫌いだった。打者のひとりである以上、チームのために打って走って、があるべき姿ではないか。だいたい守るばかりで攻撃に参加しないなんて、野球の醍醐味を半分以上も潰しているようなものではないか。
しかし相手チームのことに口を出してもしかたない。今度は球速重視でとにかくストライクをとる方針でサインを出す。──初球。義希は早速バントの構えをとったのだが、
「あ……」
「!」
打ち上げた。唖然としつつも立ち上がり、捕球する吾郎。
「アウト!」
「………」
(おいおいしっかりしてくれよ義希ぃ……)
わが片割れが打撃にはとんと関心が薄いことはとっくの昔に理解している政斗だが、平凡な投手相手のバントくらいは成功させてほしいと切に思った。兄の心弟知らずと言うべきか、彼は眉ひとつ動かさぬままベンチへ戻っていく。
「……すみません、失敗しました」
「悪いと思ってないだろ、義希ぃ……」
「はい」
「即答かよ……」
監督筆頭に呆れるほかないが、何を言っても改まらない彼のスタイルなのだからここに至ってはもう仕方がない。その分のリソースをピッチングにつぎ込んでもらうことで、とうに話はついている。
続く9番右翼手・足立──まだ1年生で、6番左翼手の安達と並んでWアダチとあだ名されている──が今度こそ送りバントを決め、ツーアウト二塁。
打順はふたたび、先頭に還る。
(さっきは捉えられちまったが……今度は外野へ抜いてやる)
梶原の狙いは先ほどと同じ球種、コース。それ以外は多少のボール球なら構わず、徹底的にカットしていくつもりだった。
「ファール!」
「………」
(狙い球絞ってきてんな……。このまま粘っても大河が疲れちまう)
ツーアウト……いちかばちか、凡打の可能性に賭けるしかないか。一計を案じた吾郎は二塁にアイコンタクトを送った。頷いた国分が、さりげなく一塁寄りに移動する。
そして──梶原の望み通りの球を、吾郎は放らせた。
(来た──!)
鋭い流し打ちを放つ梶原。果たして強く弾かれた打球は、一塁付近を地面すれすれに駆け抜ける。
「──っ!」
来た。飛び出す国分──しかしあと一歩のところ、グラブの先が届かない。ボールはそのまま外野へと抜けていく。嬉々として走る梶原、北条政斗。
「っ、児玉急げ!バックホーム!!」
声を張り上げる吾郎。生還だけは防げる、そんな計算があった。児玉は(一応)控え投手なだけあって、肩はしっかりしているのだ。
だがここで、想定外の事態が発生した。壁面に叩きつけられたボールが大きく跳ね返され、捕球のために駆け寄っていた児玉の……大事な部分に直撃したのだ。
「お、おごぉ……っ!?」
たちまち悶絶し、股間を押さえながらその場に蹲る児玉。慌てて駆け寄った草野が代わりに送球するが、彼の肩では内野を中継しなければ本塁に届かない。
二つのタイムロスもあって、政斗は悠々とホームインを遂げた。中継点となった国分はやむなく二塁カバーに入った泉にボールを託す。尤もそのときにはもう、梶原も二塁に達していたが。
「児玉、だ、大丈夫か?」
「お、おぉ……」
珍しく皮肉めいた響きのない草野の呼びかけに対し、返事もまともにできない児玉。フィールド上にいるむくつけき男たちは皆、その苦痛を身をもって存じている。誰もが彼を慮り、暫くタイムが入ったのだった。
*
不幸中の幸い、児玉は数分ほどで回復し、どうにか怪我で退場という最悪の事態は避けられた。
再開されたゲーム。続く2番の比企は大河相手に鋭い当たりを飛ばすものの、落下点に駆け込んだ草野が半ば強引に飛球としてアウト。どうにか失点を1で抑え、ふたたびチェンジとなる。
「………」
(うわ……なんだアイツ、サダコ?)
悔しそうにひと睨みして去っていく比企にホラーチックなものを覚えつつ、ベンチに引き上げる夢島ナイン。皆で一年生投手に声をかけるのも忘れない。
「ナイピー、大河!」
「打順ひとまわりで1点に抑えたんだ、上出来だよ」
「最後までこの調子で行こうや!」
「……っす」
言葉少なに応じる大河。ここまでは皆のフォローもあってなんとか炎上せずに済んだ。しかしこの先がどうなるか──彼はあえて、それを考えないようにしていた。
*
しかし2回裏、寺門から始まる打線は結果を出せず三者凡退に終わってしまう。義希の変幻自在の投球を前に、いいように翻弄されてしまったというのが率直なところだった。
「くっそー……さっきのアレがなきゃ打ったっつーのによ……」
「……同情はするけど、いつものことじゃないか」
「何ィ!?」
「やってないで、守備つくぞ!」
グラブを手に、グラウンドへ駆け出していく夢島ナイン。防具を着けるのに手間取った吾郎が、珍しく最後になってしまった。
(2回終わっても出番ナシかよ……。ほんと、下位打線はやきもきさせられちまうぜ)
自分が一発でかいのを打てば流れを一気に引き寄せられる──生来の気質で、どうしてもそう考えてしまう。
国分の言った通りだった。吾郎は未だ、捕手の難しさを理解しきってはいなかったのだ。
*
3回表、先陣を切るクリーンナップ筆頭・三浦は相変わらず気取った様子で打席に入った。
尤もその内心は、どこまでも褪めたものだったが。
(やれやれ、走者を一掃するからクリーンナップっつーのにな)
だいたい、この程度の投手を相手に打者一巡プラスアルファで1点しかとれないとは、はっきり言って不甲斐ない。これでは甲子園出場という積年の目標達成も怪しいものだ。
だが先の心配などする前に、さっさとこの試合にケリをつけてしまいたい。
結果──三浦は鋭いセンター返しを飛ばし、揚々と出塁に成功した。
(ま、こんなもんだろ)
『4番ファースト、和田くん』
バットをブンブン振り回しながら、待ちきれないとばかりに打席へ飛んでくる4番打者。先ほど敬遠されたこともあり、逸っているのだろう。
(ノーアウト一塁か……本当ならランナーは溜めたくねえとこだけど……)
少し迷ったものの──吾郎は結局、立ち上がった。和田が「なあぁ!!?」と主審に注意されるすれすれの大声を発する。
「──ボール、フォア!」
「〜〜っ!」
一度ならず二度までも打たせてもらえなかった和田は、憤懣やるかたない様子で一塁へ走っていく。
「和田を連続フォアボール……。嫌がらせにかけては一級品だなあのピッチャーのキャッチャー……キャッチャーのピッチャー?」
「急造にしちゃよくやってる。でも……そろそろ小手先が通じないの、わからせてやんねーとな」
和田をつぶしても、クリーンナップ攻勢はまだ終わりではない。最後に控えるは、5番中堅手・八田。
(こいつを乗り越えりゃ……。二塁ランナーは進めてもいい、ゲッツーとるぞ)
頷く大河。初球、外角寄り低めのストレート。相手の狙いはわかっているとばかりに、八田は笑みを浮かべた。
(狙いは読めてる。──お前らの負けだ)
ボールがミットの寸前に迫った瞬間、すくい上げるようにバットを振るう八田。
──そして、ひときわ激しい打突音が響き渡った。