【完結】夢島ナイン   作:たあたん

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悪夢

 

 長い、夢を見ていたような気がする。

 目を覚ました寿也が最初に覚えたのは、そんな漠然とした感覚だった。

 

 次いで、ここはどこだろうと考える。しみひとつない暖色の天井。祖父母と暮らす家のそれとは異なる、まだ築年数のさほど経過していない真新しい木目。

 ふと、過去の記憶が甦る。

 

(ここ……僕の、家だ)

 

 祖父母に引き取られる前、家族とともに住んでいた──まだ吾郎との約束を無邪気に信じていられた頃の、帰る場所。

 階下から、声が聞こえる。寿也は無意識のうちにベッドを降り、足を踏み出していた。

 

 

 懐かしい階段を下り、リビングの扉の前に立つ。陽光が日がな差し込むように設計されたはずの廊下は、昼間にもかかわらずどうしてか薄暗い。まるで長らく人の手が入っていないかのようにその空間はがらんとしていて、にもかかわらず声だけが室内から聞こえてくる。

 焦燥と、不安。──扉の奥にいるのは、本当に自分の家族なのか、どうか。

 

 実体のないそれは、果たして杞憂に終わった。

 

「──お兄ちゃん?」

「!!」

 

 扉は、向こう側から開かれた。

 

「美、穂……?」

「うん。おはよう、お兄ちゃん」

 

 そう言って微笑む少女はまぎれもない、成長した妹そのもので。

 

「美穂……っ」

 

 寿也は思わず、その身体を抱きしめていた。

 

「お、お兄ちゃん!?どうしたの……?」

「あ……ご、ごめん……なんでもないんだ。ちょっと、悪い夢をね……」

 

 「へんなお兄ちゃん」と、腕の中で美穂がくすくすと笑っている。気づけばその肩越しに、懐かしい両親の姿もあって。

 懐かしい?何を言っている──あれは全部夢だったのだ。祖父母とは離れて暮らしている代わりに、両親も妹もいて……吾郎たちと、野球だってやっている。憂うことも、恐れることもない。

 僕は今、幸せで──

 

(あ……そうだ、)

 

 今日は、試合があるじゃないか。吾郎たちと甲子園に行くための、大事な試合が。

 

「行かないと……」

 

 そう呟いて、美穂から離れようとする。しかしどういうわけか、彼女の身体はびくともしない。

 

「美穂……?」

「……行かせない」

「えっ……?」

 

 俯いていた美穂が、おもむろに顔を上げる。──その愛らしいと思っていた瞳は、昏く濁り果てていて。

 

「お兄ちゃんはずっと、ここにいるの」

「何言って……」

「だっておかしいじゃない。──お兄ちゃんだけ楽しく野球をやって、甲子園に行こうだなんて」

「……!」

 

 言葉を失う寿也に、妹は柔らかに微笑みかける。それは純粋で残酷で、悪辣な善意に満ちたものだった。

 

「お兄ちゃんだけ幸せになろうなんて許さない。お兄ちゃんは、私たちと一緒に不幸になるの……!」

「────、」

 

 声が出ない。苦しい。息が、できない。

 溺れた魚のように口をはくはく動かしているうちに、寿也の意識はふたたび闇へと堕ちていった。

 

 

 *

 

 

 

 うわぁああああ、と、悲鳴が溢れていたのだと思う。耳を劈くような喚声とともに、寿也は弾かれるがごとく飛び起きた。

 

「!?と、寿也どうした!!」

 

 そう言って駆け寄ってきたのは、この6年で慣れ親しんだ祖父その人で。鮮明な姿かたち、声が、これが現実なのだと思い知らせてくる──逆説的に、先ほど見たものが、昨夜の出来事が見せた悪夢なのだとも。

 

「お、じいちゃん……ここどこ……?」

「病院だ」

「病院……?」

「昨夜、学校で倒れたんだ。わしらも、先生から連絡があって……」そこでいったん言葉を切ったあと、「何があったか、覚えているか?」

「………」

 

 覚えていない……わけではない。日誌を出して帰ろうとしたら、教室に大河と和香の姿を見かけた。そこで和香が、自分は妹の美穂だと言い出して──

 

「っ、………」

 

 それから先のことは、靄がかかったように思い出せない。記憶を呼び起こそうとすると、ずきずきと頭が痛む。

 顔を歪める孫の肩に、祖父はそっと手を置いた。

 

「無理せんでいい。……こんなことになるなら、わしらからきちんと伝えておくべきだったな」

「えっ……おじいちゃん達、知ってたの?」

「ああ……美穂やおまえたちの母さんから、時折連絡は受けててな。いつおまえに切り出したもんか、ずっと考えてたんだが……」

 

 寿也の心の傷が癒えるまではと、そう思っていた。事ここに至ってはその配慮は正しかったともいえるし、そうでないともいえる。年の功を重ねても、こればかりはわからないと祖父──善三は思った。

 

「美穂は……?」

「……ここには来とらん、連絡もない。ばあさんが家で留守番はしてるから、何かあれば話もくるはずだ」

「そう……」

 

 記憶はないが……それだけのことを、自分は言ってしまったのかもしれない。後悔がよぎる。

 

「寿也。美穂は純粋に、おまえと一緒にいたかっただけなんだ。それだけは、わかってやってくれ」

「……うん」

「もう少し寝ていなさい。直接は会っとらんが……吾郎くんたちも心配していたそうだぞ」

「──!」

 

 そこでようやく、吾郎たちの……正確に言えば野球のことにまで思考が及んだ。そうだ、三回戦はとっくに始まっているんじゃないか。吾郎の球をひと試合にわたって捕れるのは自分しかいないというのに。

 

「テレビ、付けていい?」

「ん、ああ」

 

 逸る気持ちを抑えてテレビの電源をつけ、チャンネルを神奈川のローカルテレビに合わせる。ちょうど、三回戦の模様が中継されている──

 

──その光景を目の当たりにした瞬間、寿也は言葉を失った。

 

(吾郎くんが、キャッチャー……!?)

 

 そしてその代償に投手を務めるのは、清水大河。練習試合で数回マウンドに立っただけの彼が。まだ細い腕を、精一杯に振りかぶっている。

 

(あ、)

 

 打たれる。捕手としての本能のごときもので、寿也はそう悟った。しかし何を思おうと、彼らの試合(たたかい)は画面の向こうの出来事でしかなくて。

 

 刹那──鎌実の打者のひと振りが、大河の放った一球をスタンドに叩きつけていた。

 

 

 *

 

 

 

 3ラン、ホームラン。夢島側にとって、悪夢としか言いようのない結果だった。

 

「でかしたぞ八田ぁ!!よーオレの仇とってくれたあ!!」

「うるせぇな耳元で叫ぶんじゃねえ!つーか敬遠されただけで大袈裟なんだよ!」

「……俺なんかまともに打たせてももらってない……」

「拗ねるなよヒッキー。流れはこっちに来たんだ、いくらでもチャンスは巡ってくるって!」

 

 盛り上がる鎌実ベンチ。一気に3点差をつけたし、何より本塁打は打者として最大の栄誉である。勝利に次ぐ喜びとなるのも当然だった。

 その喜びは、打たれた者たちの戦慄、憔悴と表裏一体のもので。

 

「………」

 

 呆然とマウンドに立ち尽くす大河。彼ほどにはショックを受けていないものの、吾郎も歯噛みするほかなかった。

 

(くそっ、長打警戒が完全に裏目に出ちまった……。声かけるか?でもここで甘やかすのもな……)

 

 まだ試合は序盤も序盤だ。今へたに慰めるようなことをしても、かえってプライドを傷つけるだけではないか。

 考えた末、吾郎はマウンドに駆け寄ることをしなかった──結局。それはそれでひとつの接し方ではあるのだが。

 

「っ、タイム!」

「!」

 

 彼に代わって声を張り上げたのは我らが主将だった。吾郎が呆気にとられている間にも、内野手たちがマウンドに集まっていく。

 

「ドンマイ大河。まだ3回だ、ここから巻き返そう」

「……でも……、」

「くら〜い顔すんなや!児玉のやつなんて同好会やっとった頃からバカスカ打たれとったんやで?」

「相手は強豪だ、こういうこともある。気持ちをしっかりもて」

「っ、……はい」

 

 頷く大河。その様を離れて見ていた吾郎にも、「本田!」と国分が声をかける。

 

「自分から名乗り出たんだから、もっと大河の強み活かしてやれ!単調なリードじゃまた打たれるぞ!」

「っ!」

 

 いつも穏和な国分の叱咤に、何より擁護される立場の大河がいちばん驚いたようだった。吾郎としては転校早々にぶつかっているので、国分にそういう熱血漢の一面があることは承知していたが。

 

(言うじゃねーのキャプテン……。それができなきゃ勝利の女神はそっぽ向いたまんまってか)

 

 実にシンプルな話だ。常識的に考えて寿也と同じだけの立ち回りを、捕手をやったことのない自分にできるわけがない。

 でも、やらねば敗ける。これまで打ち負かしてきた二校、否、自分たちの預り知らぬところで敗れ去っていった数多と同じ運命を辿るだけのことなのだ。

 

 こんなところで敗けるわけにはいかない。全国(てっぺん)を穫ると決めて、皆を引っ張ってきたのだから。

 

 

 続く6番左翼手・安達。ノーアウト走者なし、仕切り直しというべき状況下。

 

(次の北条兄に選択肢は与えたくねえ。こいつだけは絶対打ち取るぞ、大河)

 

 ふ、はぁと浅い呼吸をひとつ溢しながらも、こくりと頷く大河。流石に本塁打一発で戦意喪失するほど、彼も脆くはないか。

 しかし──相手にはそう思わせておいたほうが、都合が良いということもある。

 

 吾郎が出したサインに大河は怪訝そうな表情を浮かべたが、小さく頷いて投球動作に入った。ミットは内角中心寄り、間違いなくストライクになるコース。しかし、

 

「っ!」

「……ボール!」

 

(よし、いいぞ。なんなら焦ってますって顔しとけ)

 

 まあ、そこまでリードひとつで要求するのは酷というものか。

 念のため、同じような外れ球をもう一球。内角に寄せすぎてあやうく死球になるところだったけれど、それがかえって説得力を高めた。

 

(さっきのアレでだいぶ取り乱してるってカンジだな。四球で出てもいいし、甘く入ってきたらかっ飛ばしてやる)

 

 自分の手柄にはこだわらない。こだわらないが、走者がいない以上は塁に出るよりほかに手はない。気合を込めて、安達はバットを握り直した。

 

(よし……次で引っ掛けさせんぞ)

 

 ここが勝負どころ。緊張の面持ちで頷きつつ、大河は三球目を投じる。──果たして、

 

(──来た!甘い球!)

 

 これだとばかりに、フルスイングを仕掛ける安達。しかし次の瞬間、ボールの軌道が手元でわずかに逸れた。

 

「っ!?」

 

 空振りなら良かったが、彼は狙い通りバットの端で引っ掛けてしまった。力なく打ち上げられたボールは、外野まで運ばれることもなく落下を開始する。

 

「オーライオーライ!」

 

 後退した泉が打球を難なく捕り、アウトが宣告される。すかさず吾郎は「ワンナウトワンナウト!」と、フィールドに向かって声を張り上げた。

 

(っし、最低ラインはクリアだ。こっからが勝負だぜ)

 

 吾郎の視線に呼応するように、大河は小さく頷いた。

 

 

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