「入れえぇぇぇぇ────っ!!」
「捕れえぇぇぇぇ────っ!!」
ふたつの声重なり合うなか、白球はバットの勢いのままに高く高く飛んでいく。いずれの結果になろうとも、悲喜こもごもを浴びることは自明の理。
いずれにせよ神はただ、気まぐれに事を起こすのみ。
──颶風が、吹いた。
「!!」
時が止まったかのようだった。落ちるかと思われたボールが、風に押されてわずかに飛距離が伸びた。ただそれだけのことだった。
それだけのことで──ボールは、場外へと押し出された。
「──っ、」
本塁打。紛れもない、吾郎の勝利だった。
安全進塁権を得、悠々と塁上を廻る吾郎。その光景を呆然と見つめながら、政斗は立ち尽くしていた。
(打たれた。義希の……オレたちの、球が)
手が震える。ミットに覆われた左手はともかく、剥き出しの右手はすぐに悟られてしまう。政斗は慌ててそれを左手で隠すと、すぐさまタイムをとってマウンドに駆け寄った。
「義希、」
「何?」
「あ……いや、」
「気にしてないよ、オレは」
「!」
凪いだ声だった。はっと面を上げれば──双子の弟の口元が、ほのかに綻んでいる。
「オレはあいつほどのピッチャーじゃないかもしれない。でもおまえと組んでる限り、オレは無敵だ」
「たかが一発打たれたくらいで、その事実は揺るがない。……だよな、皆」
周囲に同意を求める義希。気づけば周囲に、内野手たちが集まっていた。その言葉に、彼らはひとりも欠けることなくきっぱりと頷いた。
「しょせん1点入れられただけのことさ。勝ってるのは俺たちだ」
「何点とられたって構やしないぜ。次はオレからスタートだからな」
取られたぶんは、倍取り返す。ただの意気込みではない──その条件は、すでに揃っているのだ。
「……ありがとう皆。そうと決まればこの回、とっとと終わらせるぞ!」
応、と、声が揃った。
*
その後、9番・大河はピッチングの疲れもあって凡退に終わり、打順はようやく三巡目に入る。
ニ度あることは三度あるとばかりに、草野は予測されたセーフティバント──ついでに盗塁も──を成功させた。続く泉もヒットで出塁するも、三宅は凡打に打ち取られてしまう。
「く〜っ……!これじゃカッコつかんで!」
せめて犠牲フライで草野を還すくらいの仕事はしたかった。せっかく2打席目は決めたのに、帳消しだ。
もっともそう思っているのは三宅本人くらいなもので、とりわけ吾郎の本塁打のあとに義希と睨みあった三人はやむをえない結果だと思っていた。あのあとから、義希の球はスピードも球威もさらに増している。進行的にも状況としても山場を迎えて、ペースを早めたというところだろう。夢島屈指のアベレージヒッターである泉だって、殆どラッキーヒットで出塁したようなものなのだ。
(ツーアウト一・三塁……。ある意味サイコーの見せ場だぜ、キャプテン)
それ即ち、最大級のプレッシャーがかかる場面ということでもある。先ほどのようにバントに逃げることもできない。犠牲フライもかなわない。玉突き人事の産物である小さな4番打者に課せられた使命は、最低でもタイムリーヒットなのだ。
「……っ」
太い眉に力を込め、唇を引き結んだ国分。その表情から、立場と状況が連なった気負いがますます色濃くうかがえる。いいぞ、と政斗は思った。
(こいつを打ち取れれば、傾きかけた流れを完全にこっちへ引き戻せる。……正念場だな、お互い)
ここに至っても表情を変えない義希だが、ずっと真正面で向き合っているからこそ政斗は見たのだ──彼が一度だけ、ふぅ、と深い息を吐いたのを。
義希だって人間なのだ──それは彼と同日同刻、ともに生まれてきた政斗自身が一番よく知っている。
(後に影響を残したくない。オレ達の夏は、まだまだ長いんだ)
勝つのは、
──果たして、初球。
「ストライィク!!」
「っ、」
際どいところを落ち着いて見逃したが、今度はストライクゾーンに入っていた。歯噛みする国分──しかし彼の仲間に、それをよしとする者がいた。
「──っ!」
一・二塁間を駆け抜ける、泉。咄嗟に二塁めがけて送球する政斗だったが、遊撃手のタッチより寸分早く塁に足が触れた。
「セーフ!」
「っし……!」
三宅などに比べればよほど落ち着いているものの、それでも喜びを露わにする泉。草野ほどには足に自信のない自分では、初球完全に外されれば捉まっていただろうし、国分がいきなり手を出して凡打になれば無意味な行為に終わるところだった。国分が見送り、なおかつストライク。その結果、チャンスを広げることができた。
なんのチャンスか──決まっている。一挙に2点を穫るチャンスだ。二・三塁が埋まっていれば、国分次第でそれが可能となる。
(頼むぞキャプテン……。うちは本田だけのチームじゃないんだってこと、見せつけてやれ!)
そういうチームから、アメリカ修行を経て脱却したのだ。吾郎が投げられなくとも、本来のクリーンナップのひとりが欠けても、自分たちは戦える。──勝てる。
その中核を為すのは、やはり同好会時代からチームを纏めてきた国分をおいて他にはないのだ。
「っ!」
「ファール!」
二球目はかろうじて当てて、右翼方向のスタンド際に飛ばした。追い込まれた──しかし、
(空振ったわけじゃ、ない……!)
その事実は国分の心に、大いなる励ましを与えていた。まぐれではなく、狙ってバットに触れさせることはできたのだ。
(当ててきた……でもとりあえずはツーストライクだ。一球外して、もう一球クサいところ。それで落とせなけりゃ、いよいよ勝負だ)
頷き、三球目は大きく外に飛び出すカーブ。ボール球なのは狙い通りだが、やや外れすぎたか。あやうく捕逸してしまうところだった。
(要求したコースは守ってるけど……ちょっと逸れてる。さすがに疲れは出てくるよな、そろそろ)
しかし、それでもなお義希の表情は変わらない。ただ一瞬、その視線が右手に下りた。
(ちょっとズレた……?まぁいいか、ボールはボールだし)
こんな調子である。政斗が捕りそこねれば考えも変わったかもしれないが、兄なら大丈夫だという確信が彼の中にはある。続く四球目、得意のスローフォーク。今度は座ったまま受ける政斗。浮足立って振ってくれることを期待しての一球だったが、国分はぎりぎりのところでスイングを止めて見送った。
「ボール!」
「!……ふぅ、」
思わず安堵の溜息をつく。スローというのがまた厄介だ。なまじ球そのものは追えるから、つい手を出したくなってしまう。対吾郎のように敬遠のふりをするなどという搦め手を使わなくても、普通の打者なら容易く打ち取れるだろう。
(たぶん、次で決めにかかってくる……)
国分はいちど目を閉じた。そして瞼を開いたときには、その黒灰色の瞳に静かな炎が揺らめいていて。
(今度は──打つ!)
義希の手から放たれる、矢のようなボール。直線的な軌道は、本来ならストレートのそれだ。しかし彼に限っては、手元にくるまで真実はわからない。神のみぞ……否、彼ら双子のみぞ知るものだ。
だから国分は、それがストレートである可能性に賭けた。先ほどの二球、捕球に臨むキャッチャーミットがわずかに揺らいだ、ような気がする。いずれもボール球だったおかげで、手元まで見る余裕があったのだ。もしも疲労でコントロールが乱れ始めているなら、球筋の乱れにくいストレートで勝負をつけに来るはず──
「──ッ!!」
ボールは、曲が──
──かあぁぁんっ!!
ら、なかった。
国分のスイングを浴びたボールは、高く打ち上げられて飛翔した。国分自身も含め、走者たちが一斉に走り出す。同時に政斗が、マスクを外しながら立ち上がった。
(ホームラン……いやあの飛び方なら収まる!)
「ライト急げ!捕れるぞ!!」
「ッ!」
言われるまでもなく、必死にひた走る足立。一年生ながら、その実力とひたむきさを認められてスタメンの末席に起用された。まだまだ未熟者だが、先輩たちの期待にこたえたい──その想いひとつで、彼は歯を食いしばって跳んだ。落下してきたボールが、グラブの中に収まらんとする。
(捕っ……)
捕った。そう思った瞬間、勢いの衰えきらなかったボールがグラブの中で大きく跳ねる。掴みきれなかったそれは、遂に地面へとこぼれ落ちた。
「ああっ……」
「フェア!」
無慈悲に響き渡る審判の声。これで既に本塁へ到っている
「っ、八田ぁ、バックホーム急げ!!」
スライディングキャッチを試みたためすぐには起き上がれない足立に代わって、八田が二塁手・比企を中継してバックホームを仕掛ける。政斗が球を捉えるのと、泉が本塁に滑り込むのが同時。
刺そうと向かってくるキャッチャーミットを、泉はわずかに身を捩って躱してみせた。
「セーフ!」
「っしゃあぁ!!」
ベンチから歓声が上がる。同点タイムリーヒット。草野と泉、そして4番・国分の為した偉業だ。
「や、った……!打てた……!」
国分が握り拳を震わせていると、
「やるじゃないか、その小さい身体で」
「!」
傍に立つ鎌実の遊撃手・三浦がそう声をかけてくる。気取った物言いは生来のものであって、そこに厭味な響きはない。
「本田が投げてないあんたら夢島がここまでやるとは、正直誰も思ってなかった。あんたみたいな奴が主将なら、納得もいく」
「……まだ、これからです」
そう──まだ、振り出しに戻しただけ。夢島ナインにとって、ここからが真の正念場となる。
頼みの綱たる一年生投手は、鎌実エースの比にならないほど疲弊しきっているのだから。