6回裏。夢島ナインの次なる攻撃は、生憎にも6番丸山からのスタートとなった。
送りバントにかけては技術のある彼だが、打力そのものにおいては一流クラスの投手にはかなわない。──ワンナウトを容易くとられ、続く児玉憲太郎が打席に立った。
(6番とこいつで確実にツーアウト、だったんだけどな……最初なら)
先の打席で、この男は何か掴んだようだった。だからといってバッティングセンスが向上したわけではないが、球筋を読まれているというだけでもリスクは跳ね上がる。
(別に三振じゃなくていいんだ。フライ上げさせて、とっとと片付けるぞ)
頷く義希。──初球、
(この音はたぶん……カーブか!)
予測をつけ、初球から振っていく。果たしてボールはバットに命中したが、結果はファール。
(あーあ、狙いは良いんだけどな……)
悔しそうに地団駄を踏む児玉を横目で見つつ、一塁コーチの泉は小さくため息をついた。耳で捉える、というのは大したものだが、やはりバッティングセンスがよろしくない。先ほどのように守備ではファインプレーを見せてくれるから、決してお荷物ではないが。
ならばせめて粘りに粘って、少しでも相手投手を追い込んでほしい。そんな皆の願いを聞き届けたかのように児玉は必死に粘ったが、それも完遂とはいかなかった。
大きく外したボール球にまで、彼は手を出してしまったのだ。
(なるほど……。球種はきき分けられても、コース選びはおざなりになってるってワケね)
それならばどうにでもやりようはある。児玉のスイングが引っ掛かるようなコースに球を入れて、打たせてとればいい話だ。
(次はぎりぎりボールになる低位置に、シュート)
「………」
ふぅ、と義希がため息をつくのがわかる。下位の面々もこうして粘る機会が増えてきたことで、かなり球数を費やしている。弟にはこの試合、完投させてやりたい。
そんな兄の想いを汲み取り、義希は忠実に投げ続ける。見逃す勇気はどうしてもなく、全球スイングしてカットしていく児玉。ヘンに打ち上げてしまわないだけ、彼の技術も向上してきているといえるかもしれない。
「……児玉先輩、明らかなボール球も振ってません?」
大河の指摘はもっともだとばかりに、皆が頷く。ただ下手に四球狙いをしないからこそ、この状況たりえていることも事実で。
「凡退だったとしても、粘れば粘っただけこの先僕らが有利になる」
あの正捕手兼主将とまったく同じ顔をした投手も、──スタイルの違いはあれど──吾郎と同じ、チームの絶対的エースなのだろう。対してこちらはエースを温存しているも同然なのだ、寿也の飛び入り参戦が実現するなら、という条件は付くが。
ただ──国分は口ではそう言いつつも、本音では児玉に打ってほしいと思っていた。喧嘩っ早くわがままで、飽きっぽい性格の男だが、昔ながらのきっぷのいい性格はまっすぐな国分とうまが合った。国分が捕手として吾郎の球を受けて、手首に痛みを覚えはじめていた頃だっていの一番に彼が気づいてくれたのだ。
児玉は決して、才能がないわけではない。努力だってしている。その成果がいつか現れると、信じている──
「っ!!」
ついにカットしきれず、児玉の球が右翼方向に飛んだ。落下点では既に、右翼手・足立が手ぐすね引いて待ち構えている。凡フライに終わる、誰もがそう思った。
足立の掲げたグラブから、白球がさもそれが自然の摂理であるかのように──重力を考えればそのものであるともいえるのだが──、ぽろりと後ろにこぼれ落ちた。
「え、」
「あ──」
「!!」
一瞬、時が止まる。うっかり足も止めかけた児玉めがけて、吾郎が声を張り上げた。
「児玉走れぇッ、二塁いけるぞ!!」
その叫びにはっとして、慌てて二塁へ全力疾走を試みる。一方の外野は、「何やってんだ!」と罵声を吐きながらも中堅手・八田がカバーに入っていた。素早い。二塁いけると言ったが、間に合うかどうか。
「ッ、ンのおぉぉぉぉ〜っ!!」
半ば自棄だった。長い腕を限界まで伸ばし、砂塵を巻き上げながら塁に飛び込む。同時にカバーの三浦が捕球、結果は──
「せ……セーフっ!」
「────、」
響きわたる歓声。ベンチでは国分の主導により「ナイバッチ、児玉ぁ!!」とチームメイトたちの声が重なった。
呆然としていた児玉も、それでようやく状況を理解したのだろう。皆の声に応えるように、うおぉぉと雄叫びを上げた。
一方で、
(っ、やられた……!)
思わず歯ぎしりする政斗。将来を期待して抜擢したとはいえ、まだまだ未熟な一年生の右翼手。こういうことも当然考えられる。とはいえこの局面でエラーをされた投手は、普通──
「………」
「すいません!!」と今にも土下座せんばかりに謝罪する足立に対し、義希はグラブを填めた左手を軽く挙げて応じた。ドンマイ、とは言わない。他人のミスのひとつやふたつ、大したことだとは思っていないのだ。
(ほんとコイツ、わが弟ながら普通じゃない……)
昔からそうなのだ。義希はとにかく怒らない、一方でめったに笑顔を見せることもない。ぼーっとしている。何を考えているかわからないと受け取りがちな周囲と弟の間に立って、それなりに苦労もしてきた。
だが兄であり……何より長年バッテリーを組んできたからこそ、政斗は知っている。そんな義希でも、感情を剥き出しにして呻るときがあるのだと。
『8番キャッチャー、本田くん。背番号、1』
ようやく三度目の打席が回ってきた。鎌実にとって、いちばん恐れるべき相手。走者がいる状況で迎えてしまったのは、リスクヘッジの失敗と言わざるをえない。
(歩かせるか?ワンナウト一・二塁……次の9番は十中八九送りバント。防げなきゃツーアウト二・三塁で1番に戻る、か……)
悪くはないと思う、普通なら。だが1番草野の足は、ほぼ確実にセーフティバントを成し遂げてしまう。児玉に滑り込まれれば1点とられる。仮に彼がその時点で動かなくとも、満塁の状態で2番泉には回したくない。
(監督は……指示なしか)
監督の皆本は基本的に細かい指示を出さない。試合の采配は、最初から主将たる自分に委ねられている。
それにしたって、この判断の責任は重大だ。どちらを選んでも、逆転、そして一気に引き離される危険を孕んでいる。
どちらを選んでも──ならば、かえって答は簡単。
(勝負だ、義希!)
頷く義希。彼が首を振ったことは、リトルの頃からただの一度もない。政斗が勝負するといえば、彼はその通りにする。その結果打たれても、嫌な顔ひとつしない。
だからこそ、勝たせてやりたい。義希を、甲子園のマウンドに立たせてやりたいのだ。
初球、高い位置にストレート。明らかなボール球で吾郎も手出しはしないが、打者相手に十分な揺さぶりになるとは思った。敬遠球と見せかけて、スローフォークでストライクをとるという芸当を成し遂げた連中なのだ。
(っつっても、そんなもんで惑わされるのは二流以下のバッターだ。もう6回、向こうも疲れてる。──ザッツ・オール、だぜ)
多少は手こずるかもしれないが、最後には打つ。時間はかかってもいいのだ。大河をベンチで休ませてやれるし、何より寿也が間に合う確率が上がる。
無論、意図的に引っ張るつもりは毛頭なかった。クサい球はカットしつつ、絶好球を狙う。ただそれだけを延々と続ける。
やがて、状況がフルカウントに至った頃。
(くっそ……完全にペース握ってやがる……!こうなりゃしょうがない、またコレだ)
やむなく立ち上がって、肩の高さでミットを構える政斗。完全な敬遠の態勢──しかしその意図は無論、あのぎりぎりまで落ちるかどうかわからないスローフォークである。ただこれは、ある意味賭けのようなものだったが。
(ジャストミートされたら一発だ……。頼むぞ、義希!)
「………」
頷く義希。しかし頬を伝って流れる汗が、彼の疲労を象徴していて。
投げる──刹那、ボールがつるっと指先をすり抜ける感覚があった。
「……!」
異変はボールを介して政斗にも伝わった。軌道が明らかに低い。ストライクゾーンに入っている。
(まずい、失投!)
(来た、絶好球!)
捕手と打者が瞬時に対照的な結論を出す。前者が慌てて座るが、軍配がどちらに上がるかは明らかだった。
──かあぁぁぁんっ!!
今試合で最も激しい、打突の音。打球が打ち上がった瞬間から、それがいかなる結末を迎えるかは既に定まっていた。
「あ……」
「……ま、じか」
──場外への、確定2ランホームラン。
夢島ベンチ、そしてスタンドから歓声が上がる中、吾郎がダイヤモンドを回りだす。二塁で立ち尽くしていた児玉に「後ろつっかえてんぞ!」と声をかけつつ。
ふたりの走者が本塁に達し、夢島チームに2点が加算される。中盤も佳境に差し掛かったところで、趨勢がどちらに傾いたかは明らかだ。
(逆転、されちまった)
鎌実ナインの間に少なからず動揺が広がる。中でもいちばん動揺していたのは、マウンドに立ち尽くす少年だった。
(投げられなかった、)
(政斗の言う通りに、投げられなかった)
本塁打を打たれたのは──それが政斗の指示通りに投げた結果であるなら、しかたがない。政斗のサインは己の力を百パーセント引き出してくれる、それでもなお通用しない相手だったというだけのこと。
実際、吾郎もそういう打者だ。だが、だからこそ、政斗の指示は絶対だったのだ。それに従えなかった。そのせいで、敗けた──
『9番ピッチャー、清水くん。背番号、10』
「大河ぁ、続けよー!!」
ベンチに戻って早々、本塁打の余韻そのままに叫ぶ吾郎。流石に皆は追従しなかった。打者としても才能ある大河だが、流石に今は投球にリソースをとられてしまっている。
(こいつはいい。適当に詰まらせて、内野に処理させろ)
サインを出そうとした政斗だったが、そこでぎょっとした。──義希の目が、大きく見開かれている。
投じられた初球。それは球威もキレも、これまでとは次元が異なっていた。
「ッ!?」
「ストライィク!」
審判の声が響く。その判定自体はまったく疑いようもない。大河自身、ストライクゾーンに入っていることはわかったのだ。それでもなお、手が出ないほどの球だった。
(バカおまえ、誰がホンキで投げろっつったよ!?)
ぶっちぎる必要などない相手だ。それを……。
(あーあ……ヨシのやつ、キレちまったよ)
肩をすくめる三浦。義希がそうなるのを見るのは、これが初めてというわけでもなかった。無論、兄である政斗はその原因を理解している。兄のサインを守れなかったとき、ただそういうときだけ、義希は怒りを白球に込めて放つのだ。
(すっぽ抜けるくらいいちいち気にするなっていつも言ってんのに……!そういう指示にこそ従えってんだ、愚弟め!)
心のうちで罵声に近い愚痴をこぼすが、是非もない。貴重なタイムを費やすような局面でもないのだ。
こうなれば三球で、できるだけ負担なく終わらせようと、政斗は二球続けてストレートを要求した。──いずれも空振り、あえなく大河は三振にとられてしまった。
そして続く1番・草野は。
「ッ!」
相手の変化に振り回されることなくバントを試みたところまでは良かったが、押し返そうと試みるあまりプッシュにしてしまう。すかさず義希はそれを拾い上げ、一塁に送球。
「アウト!」
「くっ……」
如何に草野の足でもかなわず、夢島ナインの攻撃は強制終了となった。
「草野がバント失敗なんて、いつ以来や?」
「夏大……いや、アメリカ以来じゃないか?」
こちらと同じ、投手が捨て身でスパートをかけてきている。やはり一筋縄ではいかない相手だと、吾郎は冷や汗混じりの笑みを浮かべるほかなくて。
(頼むぜ、ティーチャー……)
俺をマウンドに立たせてくれ。その思いが、いよいよ膨らみつつあった。