6回裏から、7回表へ。
ふたたび勝ち越し点を挙げられた鎌実ナインだったが、その事実よりもエース・北条義希の状態が焦点となっていた。
「………」
比企も驚きの昏いオーラを全身から発する義希に、誰も声をかけることができない。怒りの猛火が収まれば、残るは燃え滓ばかりである。
「お、オレがあんなエラーしたから……」
思わずそう溢す足立。あの直後から義希の様子が一変したように見えるのだから、そう思ってしまうのも無理はないけれど。
「違うよ、あいつがああなるのは自分のミスでだけ。反省するのはいいけど、おまえはもう引きずらんでいい」
足立の背中を叩いてそうフォローしつつ、政斗は義希の隣に並んだ。
「おまえは大概にしとけよ。後輩ビビらせてどーする」
「……ごめん。でも、オレ……」
「はぁ……とりあえず次の打席は振らなくていいから。しっかり休んどけよ」
「……うん、」
義希は易々とは下げられない。彼を扇の要とすることで、鎌実ナインの実力は担保されているからだ。攻撃において彼のぶんは諦めるとして、そろそろ代打攻勢をかけていくべきだろう。監督にそう進言しようと思っていた矢先、彼は主審に声をかけられてベンチを出ていってしまった。
「あちらさんの顧問が先に連れられていった。──ヤな雲行きだぜ、政斗」
「……ああ」
わかっている。それでも彼ら選手にできるのは、ひとつでも多く点を取ることだけだった。
*
さて7回表。下位打線からのスタートということもあり、全力で投げた大河は被安打を幾つか許すもののどうにか1失点で乗り切った。
「清水くん、よくここまで投げてるわ。もういつ崩れてもおかしくないのに」
「……ええ」
涼子の呆気にとられたような呟きに、寿也はただ頷くことしかできなかった。今はまだ、こうしてカーナビのテレビ機能越しに推移を見守ることしかできない。
おそらく次の回、大河はもたないだろう。この戦い、投手が先に崩れたほうが敗ける──そんな直感があった。でもそうなる前に、自分が出場の機会を得られれば。
そう強く願った矢先、寿也の携帯電話が鳴動した。慌てるあまり取り落としそうになりながら、それを受ける。
「さ、佐藤です。……はい、はい……本当ですか!?わかりました、すぐ行きます!」
通話を終える。思わず弛む頬。これではいけないと、表情を引き締める。
「その様子だと、ミスター南雲もうまくやってくださったみたいね」
「ええ。行ってきます!」
「がんばって。私はスタンドで応援してるわ、美穂ちゃんと一緒にね」
動揺することもなく頷き、揚々と助手席から身を乗り出す寿也の背中。出逢った頃より幾分も頼もしくなったように、涼子には思えた。
*
一方、球場内。
2番・泉からのスタートという絶好の機会を得た夢島ナインだったが、目の色を変えた義希の前に苦戦を強いられていた。
「アウト!」
「くっ……」
泉がショートゴロで打ち取られ、続く三宅もあえなく凡フライに終わってしまう。ツーアウトで、ふたたび4番・国分。
「ッ!」
「ファール!」
審判の声が無情に響く。4番の重圧を消化しきった国分だったが、相手投手の尻上がりぶりが発揮されている今、ふたたび手玉にとられかけているというのが現状だった。
「く〜っ、ワイはともかく泉と国分でもあかんのかいな……!」
「向こうの投手も優秀だからな……。ここからは投手戦になるかもしれないぞ」
7回投げきって、大河はもう満身創痍だ。仮にこの布陣のまま9回までとなると、不利なのは彼ら夢島ナインである。なんとかここで追いつかねばと、皆が躍起になっている。
そこに、南雲が軽い足取りで戻って来た。
「待たせたな、皆の衆!──無事、佐藤の出場許可が下りたぜ」
「おおっ」
夢島ベンチにどよめきに近い歓声が上がる。正直、寿也の出場が認められる確率はかなり低いと思われていたのだ。「どうやったんです?」と質問が出るのも当然だった。
「企業秘密……って言いたいとこだけど、お前らも遠からず社会に出るから教えてやる。──男が無理通そうってときはな、土下座一択よ」
「ど、」
「土下座ぁ!?」
これには呆気にとられるしかない一同である。ただ南雲は本部の担当者らに寿也の身の上をなきべそをかきながら──もちろん嘘泣きである──延々と語って同情を誘い、彼らの心が許可に傾いたところであえて相手の監督を呼んでもらう。表向きはその承認も得たうえで決めてほしい、と殊勝な態度をとっておいて、当然ながら渋る相手を前にいよいよ伝家の宝刀を抜いたのである。
結果として南雲は、求めた戦果をきっちり勝ち取ったのだった。
「わかったか?これがオトナの、ファインプレーってヤツよ」
どうだとばかりに胸を張る我らが顧問を前に、なんともいえない表情を浮かべる部員たち。確かにすごい。すごいけれど、オトナのやり口って……正直、汚い。
「ま、まぁ、エクセレントよエクセレント!これであと2回、ばっちりオレが抑えてやるぜ」
「だとしても同点だ。獲らなきゃ、勝てない」
この打席の国分があえなく凡退したとしても、あと2回ある。その中で吾郎の番は確実に回ってくるのだ。そこで打って、一気に決めてやる──ただの意気ではなく、それはもはや確信めいたものだった。
そういう吾郎の姿をこの三ヶ月ですっかり見慣れてしまった大河は、ひそかに自嘲めいた笑みを浮かべていた。
(これで、お役御免か)
二度も正捕手がいなくなることはないだろうし、あってはならない。今大会中、自分が投げる機会はもう訪れまい。──それでいい、こんな心身ともに極限まで追い込まれるような目に遭うのは一度で十分だ。
それだって紛れもなく本音なのに、どういうわけか大河は名残惜しさのようなものを感じていた。傍目にはわずかな膨らみをたたえているというだけの、マウンドから見える景色。まだ想い出と言えるほど時間は経過していないけれど、いずれそうなるという予感があった。
「大河、」
不意に呼びかけられ、顔を上げる。すべてを見透かしたような吾郎の瞳が視界に入って、思わず息を呑んだ。
「また組もうな、バッテリー」
「え……」
悪戯っぽい笑みを浮かべてそう告げる吾郎に、いよいよ彼は言葉を失った。
*
「っ!」
「アウト!」
粘った国分だったがあえなく
しかしその努力は、相手投手の体力を消耗させる以上の成果をもたらした。
『夢島学園高校、選手の交代をお知らせします』
球場にアナウンスが響きわたる。観客たちははて、と首をひねった。夢島ナインは文字通り9人しかいない。交代要員などいないはずなのに、と。
『ピッチャー、清水くんに代わりまして、本田くん──』
『──キャッチャーには、佐藤くんが入ります』
すらりとした体躯に防具を身に着け、曇天のもとに一歩を踏み出す、佐藤寿也。
「皆、」
寿也の呼びかけに、8人の足が止まった。
「ここまで何もできなくて、ごめん」
「……トシ、」
「あと……ありがとう。僕の居場所を、守ってくれて」
この一年で何よりかけがえのないものとなった、野球部という居場所を。
「何言ってんだよ、トシ」
「え?」
「まだ試合は終わっちゃいない。これから守るんだぜ、俺たちの居場所をな」
瞠目した寿也は──程なくして、曇りない笑みを浮かべた。
*
『8回表、鎌倉実業高校の攻撃。3番ショート、三浦くん。背番号、6』
コールされた三浦が、不機嫌を隠そうともしない表情で打席に入る。ぎろりと睨みつけられ、マウンド上の吾郎は思わず苦笑いを浮かべた。
(おいおい、俺を睨むのかよ。ま、気持ちはわかるけどさ)
本来出場できない立場のはずの選手を──特例、というものが存在するのは承知しているが──引っ張り出してこられて、三浦はせっかくの攻勢に水を差された気分だった。相手が本来の布陣に戻ったのだから和田あたりは燃えているが、彼はそういう豪快さとは一線を画している。相手にハンデがあろうとなんだろうと、自軍に有利な状況がいいに決まっている。
(まったく監督も、絆されてないでとことんごねるところだろ。8回だぞ8回。政斗も政斗で、お人好しすぎる……)
そういう男だから、まとめ役としての主将に選出されたのだが。他にもまだまだ言いたいことはあったが、軽く首を振って切り替える。
(まぁ、いい。そのために
思考の奔流はそこで止まった。寿也のサインに頷いた吾郎が、この試合、8回にして記念すべき初球を投じたからだ。
速いのはわかっている。ただ、ぶわりと空気が巻き起こるこの感覚は、打席に立ってみて初めてわかるものだった。
「す……ストライィク!!」
「っ、」
主審の声がわずかに上ずるのがわかる。スピードは初っ端、158km/h──これでも最高速度には及ばないのが末恐ろしい。
(っ、やっぱりこれだよ……。ここに戻ってこられて、本当に良かった……!)
文字通り手応えを感じる寿也。──その背中に釘付けになる、観客席の少女。
(お兄ちゃん……)
寒くもないのに身体が震える。昨夜の出来事が、思い出したくもないのに甦ってくる。
でも、これで良かったのだ。寿也は……夢島ナインに真に必要な人は、帰ってきた。だったらもう、思い起こすことなど何も──
「──信じられないわよね。一年前の彼はせいぜい助っ人をやるくらいで、あの場所に戻るつもりなんてなかったって言うんだから」
「!?」
唐突に背後から声をかけられ、慌てて振り向く。そこにいたのは言うまでもない、涼子その人だった。逃げようにも通路を塞ぐ位置に立たれているせいで、身動きがとれない。
「ゴローと再会したのがきっかけ、それは間違いないわ。でも……あなたのお兄さんは自分の意志でそれを選んだの。そういう、強い子なのよ」
「………」
涼子の微笑。身体の震えが落ち着くのを、美穂は感じていた。
「く──っ!」
「ストライィク!!」
二球目から懸命に狙って手を出したアベレージヒッター・三浦だったが、100マイルにも達するジャイロボールと寿也のリードによるコースセレクトに翻弄され、あえなく三球三振にとられてしまう。
その光景は少なからず、鎌実ナインに衝撃を与えていた。
「三浦が三球三振なんて……」
「あいつから点とらなきゃ、オレたち……勝てない」
悲観的なムードが漂う。これはまずいと──正直同感な部分もあったが──政斗が声をあげようとした刹那、それに先んじる者があって。
「点をとられなければ、敗けない」
「!」
疲労を感じさせない声でそう断じたのはほかでもない、主将の双子の片割れたるエースだった。
「オレは200球でも300球でも投げるよ。その間に、皆が1点とってくれればいい」
「義希……」
「できるよね?」
揺らぐことなき、エースの瞳。そこに秘められたたしかな信頼を見てとって、冷えかけたベンチの空気が再燃する。
「当たり前だ!──皆、あと2回、絶対点とるぞ!!」
ごう、と、炎が燃え上がった。