「使おう、ジャイロフォークを」
寿也の言葉に、集団は驚愕に包まれた。三宅などは「ええっ、ホンマかいな!?」と思わず声をあげてしまい、「口隠せ口!」と泉に叱責されてしまう。
「お、やっぱ同じこと考えてたか。さっすがトシくん」
「えっ、本田も同意見なの?」
これは皆、意外だった。吾郎ならば直球でねじ伏せたがるのではないかと思っていた。
「なんのためにアメリカで編み出したと思ってんだよ。──勝つために必要なら、反則とかラフプレー以外なんでもやる男だぜ、俺は」
それにジャイロフォークを使用するのは、"機密保持"という題目もあって実戦では初めてのことだった。厚木戦──帝仁戦の可能性ももちろんあるが──を前に、ここで試すのもひとつ。
「本当にいいのか?決勝の相手に、手の内を晒すことになるぞ」
"相手"を断定せずに告げる寺門は流石に心身ともに大人びているだけあった。一方、外見では対照的な泉も、
「スタンドの川瀬コーチの隣に、厚木の小森がいる。──ビデオどころか、生で晒すことになるよ」
「おー、あいつ来てんのか」
その事実を知ってなお、吾郎は揺るがない。
「構やしねえよ。一球見せたくらいで攻略されるような球なら、どのみち通用しねえんだからな」
「それは、そうだけど……」
「──吾郎くんの言った通り、一球で決着をつける」断言する寿也。「次の5番はストレートで打ち取るよ」
バッテリーの決心は固いとみえた。ましてふたりの意見が一致している状況。覆しようがないし、覆す気もなくなってしまう。
「……わかった。ふたりがそう決めたなら、僕はそれでいいと思うよ」
「ありがとう、キャプテン」
「軽くなら打たせてくれていいよ、ちゃんと捕るから」
「サンキュー。ま、空振りさせちまう予定だけどな!」
このふたり、表情も言動も少し似てきたのではないか。そんな感触を抱く仲間たちだったが、今さら口に出すまでもないことだった。
皆が守備位置に戻り、改めてゲームが再開される。カウントはツーナッシング──しかし吾郎の直球を確実に捉えつつある唐沢は、自らの勝利を確信していた。
(何の相談をしたか知らんが、直球しかない貴様に今さらあっと驚くような作戦が立てられるわけもあるまい)
あるいは何か変化球を持っているのか。その程度の予想はついたが、本当に"その程度"でしかない。破れかぶれで放ってくるようなものなら、直球よりずっと簡単に攻略できるというものだ。
本塁打に照準を合わせる唐沢に対し、
「──!」
「ワインドアップ!?」
二塁に走者がいる状況で!しかも盗塁してくださいと言わんばかりのタメの大きい動作である。
(気でも狂った?でも、このチャンスありがたく貰うよ!)
即座に走り出す香取。果たしてバッテリーは彼を横目で見ることすらしなかった。そして投じられる、
(ド真ん中じゃねぇか!自棄になったか本田吾郎!!)
ならば容赦はしない。完璧に捉えて、場外にかっ飛ばす──!
刹那──まっすぐに向かってきていたはずの白球が、まるで
「な……!?」
驚愕する唐沢だが、そのあまりに性急な変化に如何な彼であっても対応できるはずもなく。
「──す……ストライ〜ク、アウッ!」
主審すらも驚きを隠せぬまま、吾郎の勝利を宣告したのだった。
「い、今のは……!?」
「………」
(まさかとは思ったけど……やっぱり使ったのね)
今の変化球の異常性に気がつかぬほど、小森は愚鈍ではない。ジャイロフォークの使用は、先々のことを考えれば諸刃の剣だった。
とはいえこれで、夢島ナインの決勝進出が確定的となった。それだけは揺るぎのない、事実だった。
*
「──っ!」
決した趨勢を覆そうと意気込む5番・木村だったが、唐沢と比べれば一段以上も落ちる彼では、ジャイロフォークを使うまでもなかった。
そして、
「ゲーム、セット!」
夢島ナイン、決勝進出。野手たちがマウンドに駆け寄り、吾郎を囲んで喜びを分かち合っている。
その光景を見下ろしながら、小森は黙って立ち上がった。
「あら、もう行くの?」
「流石にもう合流しないと、怒られてしまうので」
昼を挟んで、次は彼らの舞台──小森の心は既に、対帝仁戦へと向けられていた。
「そう、頑張ってね。チーム全員で、刮目させていただくわ」
「ははは……楽しんでいってください」
半ば苦笑いしつつ、小森はそう応じてスタンドを去った。彼女とうちの監督、どういうわけか根っこが似ている。あるいは女だてらに野球の指導者たろうとする者は皆、同じ魂をもっているのかもしれないが──
しかし片や本田吾郎のガールフレンドであり……もう一方は"あんなこと"になるとは、さしもの小森も予見できなかった。
*
セレモニーが終わり、勝者たちがグラウンド整備に勤しむ中、久里山ナインは撤収の準備をすべくベンチへと戻った。
「皆、お疲れ様。結果は残念だったけど、よく頑張った」
ぐすぐすと啜り泣く声が響く中で、球太は己のそれを堪えながら続ける。
「一、二年生の皆は、この悔しさをバネにまた一緒に頑張っていこう。三年の、皆は──」
「………」
「……暫くは、野球の話題を耳にするのも忌まわしいかもしれない。でも、夢を追った三年間の努力を、仲間と一緒に味わった喜びを、どうか忘れないでくれ。皆が野球を好きでいてくれることを、僕は、願ってる」
*
その日の夜。球太はおよそ半年ぶりに実家に帰省していた。戸塚にある実家からは大学も久里山高校もそう離れてはいないが、大学入学と同時に独り暮らしを始めた。そう歳の離れていない少年たちを監督として指導するにあたって、親に依存してはいられない──自分なりに考えて、決めたことだ。
多忙もあって滅多に顔も見せないひとり息子の来訪。しかし母は突然のそれを飛び上がらんばかりに喜んでいるようだった。
一方の父は、
「ただいま戻りました、お父さん」
「………」
返答は、ない。球太が選手としては挫折してからというもの、父と会話した記憶は数えるほどしかなかった。衣食住にまつわることや学費のことなど、父親として最低限の義務は果たしてくれている。それだけでも感謝しているけれど、やはり、寂しい。
──球太に野球を教えたのは、父だった。
父が監督をしていたリトルチームに入り、父に命じられるがままに野球をしていた。小6にしてフォークボールを使いこなす精密機械のようなピッチング、打撃では1番を打ち、二刀流の名手として名を馳せた。
その代わり、野球以外のすべてを犠牲にした。友人をつくることも、野球に関わるもの以外の遊びをも禁じられた。決められた
それでも球太は、父に反発したことは一度だってなかった。父の期待に応え、褒められることが何より嬉しかった。
しかし身体のほうは、無理な促成栽培で壊れていった。身体のできていない小学生の身で負担の大きいフォークを投げ続けたことで、球太は肘を壊した。
「………」
自分は、父を裏切った。それゆえ許されることはないのかもしれない。もしも監督として久里山を甲子園優勝に導くことができたとしても、それは父が望んだ栄光ではないのだ。
「おかえり」のひと言が返ってくることさえあきらめ、球太はひとまず荷物を階上の自室へ置きに行こうとすると、父が不意に呟いた。
「おまえが監督をしている高校、敗けたらしいな」
「!」
弾かれたように振り返る。彼はこちらに背を向けたままだった。
「まだ、しがみつくつもりか?」
監督の座に……いや、野球そのものに。
事実上、球太を野球のできない身体にしておきながら、残酷にも程がある言葉だった。血も涙もない、最低な父親──客観的に見れば、そう思われるのもやむなしだろう。事実、球太は少なからず傷ついていた。
しかし意図的に相手を傷つけるようなことを言うのは、相手がそれを受け取る心をもっていると、そう理解しているからだ。ロボットのように扱われていたあの頃を、球太は思い起こしていた。
「続けます」
「何故だ?」
「………」
何故か。理由なんて決まっている。父の言いなりに野球をしてきたことも、そのために選手生命を失ってなお、裏方として野球に関わってきたことも、すべて。
「だって僕は……野球が、大好きだから」
「!………」
今度は父が、弾かれたように振り向く番だった。その瞳が不安と怯懦に揺れている。──その瞬間、球太はすべてを理解した。
怖かったのだ、父は。自らの手を離れた球太が、それでもなお野球から離れずにいることが。
「お父さん。僕に野球を教えてくれて、本当にありがとう」
球太は自らの意志で、父のもとに歩を進めていった。