早乙女泰造、厚木学園高校 野球部総監督・早乙女義治の
そんな明確な肩書きに身元を保証された、しかしながら言動その他諸々がそれを帳消しにしてしまっている人物の車に、吾郎と寿也は何故か揺られていた。
「……ドナドナされてる気分……」
「だ、大丈夫だよ吾郎くん……」
たぶん、きっと。
「心配しなくても、取って喰ったりしないわよ……。アナタたちみたいな美青年、大好物だけど♪」
「ヒェッ……」
ますます顔を青くする吾郎。久里山の香取といい、こういう手合いにはどうも弱いらしい。というか、一日のうちに同じようなタイプの濃い人間と相対してあてられているのかも──なんて、寿也は疲れた頭で推考した。
暫くは──殆ど泰造が一方的に──とりとめもない雑談を続けていた彼らだったが、30分ほど走ったところで寿也が訝るような表情を浮かべた。
「……あの、
「ええ、送っていくわよ。──寄り道したあとにね♪」
「!!」
ぎょっと前のめりになる吾郎。寿也もまた身を硬くする。ミラー越しにその様子を見つめながら、泰造はくすくすと笑った。
「言ったでしょ、取って喰うつもりはないって。でもせっかくだから、ちょっとイイコトしてア・ゲ・ル」
「……っ!」
いよいよ良からざる想像が脳裏をよぎった。
*
──ほら、早く来いよ静香!
──まって、おにいちゃん!
兄の背中を追って、ひた走る幼い静香。いつもなら兄は足を止めて待っていてくれるのに、どういうわけか先へ先へと進んでいってしまう。もとより体格差があるから、追い縋ってもその距離は開いていく一方だ。
やがてその姿は、暗闇に溶けるようにしてかき消えてしまう。
──おにいちゃん?どこ、おにいちゃん!
上下左右、どこをとっても暗闇の中を、静香は兄を捜して走り続けた。もう二度と逢えないのではないかという、焦燥を胸に抱えながら。
そして膝が笑い始めた頃、ようやく彼方に兄のシルエットらしきものが見えた。良かった、兄はそこにいた!
──おにいちゃ……!
しかし駆け寄った静香が目の当たりにしたのは、兄であって兄ではなかった。
白い布に覆われた祭壇。その中心に掲げられた、微笑む兄の写真。
──……!
声にならない叫び声をあげようとした瞬間、響き渡るノックの音が彼女を兄のいる世界から引き剥がした……。
「──!」
はっと顔を上げた静香が見たのは、見慣れた執務室の真白い壁だった。すぐ傍らに、先ほどと同じ笑顔をした兄の写真が置いてある。
(久しぶりね……夢にまで出てくるの。あんな子に出逢ってしまったせい?)
少なからず心をかき乱されていると、自覚するところではある。まだまだ自分も青いと、静香は自嘲した。実際、一応は若者といえる範疇の年齢ではあるのだが。
と、夢から醒める原因となった音がふたたび響いた。控えめだが、しっかりとしたドアノックの音。ややあって「小森です。入室の許可をお願いします」と甲高い声が聞こえてきた。そもそも静香自身がこの時間を指定して呼び出したのだ。静香は咄嗟に兄の写真をうつぶせに倒した。
「どうぞ」
そう応じると、す、と扉が開かれる。現れた小柄な坊主頭の少年は、外見だけならリトル上がりの中学生のようだ。
「いらっしゃい。悪いわね、疲れてるところ」
「いえ……あの、泣いてらっしゃったんですか?」
「えっ?」
言われてようやく気がついた。目尻に濡れた痕がある。
慌ててそれを拭うと、静香は取り繕うように微笑んだ。
「ちょっと居眠りついでに欠伸をね……それより、今日の試合のことだけど」
「……はい」
「最後の一球、眉村くんにストレートを投げさせたのはどうしてかしら?結果的にフライになったから良いものの、櫻内くん相手には打たれる可能性が十分にあったわ」
あの場は変化球で確実に仕留めるのが常道だ。にもかかわらず小森はストレートを指示した。事と次第によっては、捕手失格の烙印を押さねばならない──嫋やかな振る舞いの裏で、静香は主将相手にも容赦がなかった。
尤も小森は、彼女の本性などとうに知っている。動じることもなく、落ち着き払った口調でその問いに応えた。
「確かにストレートより変化球のほうが、打ち取れる確率は高いと言えるかもしれません、一般的には」
「今回が特異なケースだったとでも言いたげね」
「特異というか、総合的に判断しているだけです。櫻内くんのバッティングに関するデータ、当日の風向きと風速……そして、眉村くんの心情」
眉村はあのとき、ストレートでとどめを刺すことを望んでいた。指示を出したとき、鼻頭がひくついたのが良い証拠だ。
「眉村くんが持ち前のジャイロボールで試合を決する──そのための好条件があのとき揃っていました。眉村くん、ひいては僕ら厚木高校の名声をさらに高め、チームの士気を上げることもできる、最高の好機になると考えたんです」
「……なるほどね、」
瞑目した静香は──程なくして、にっこりと笑みを浮かべた。
「わかったわ。これからもその調子で、よろしくネ♪」
「はは……はい」
頷きつつ、苦笑に耐えるのが精一杯だった。ここで納得のいく回答ができなければ次の試合、自分は躊躇なくスタメンを外されただろう。静香個人、ひいては背後にあるものすべてが、小森たちに絶対服従を強いている。それを受け入れたから今、自分はこの地位にいる。
わかったうえで、許される範疇において小森は自らの意志で動くことにしていた。でなければ皆を……特に眉村を、真のスターに育て上げることはできない。彼を末永く球界の王者とするために、身命を賭す覚悟だ。
尤も小森の心のうちなど考えもしない静香の意識は、既に別のところに向いていた。
「じゃあ本題だけど……。詳しく教えてもらえるかしら、あなたが見たっていう、本田吾郎の"魔球"のこと」
「──はい、」
小森は静かにUSBメモリを取り出した。
*
とあるマンションの一室に、まだ年若い青年の嬌声が響き渡っている。
「んんっ……ぁ、はぁ……あ、ん……」
ベッドにうつぶせに寝かされた彼は、裸の背中を時折しならせ、夢心地の蕩けた顔からは絶えず熱っぽいため息を吐き出していた。
「ウフフ……どぉ、アタシのテクは?」
「ぅん……さいこぉ……うぇへへへ……」
「……あの、」
見守る寿也が困惑を露わに口を開く。
「あらどうしたの、佐藤クン?ワンモアご希望?」
「いや……なんでそんな、あらぬ誤解を招きそうな感じに……」
泰造も泰造だが、吾郎も吾郎である。最初はあんなに嫌がっていたのに、もうノリノリではないか。
確かに彼(彼女?)のテクニックが凄まじいのはわかる。その
──何の話か?無論、マッサージである。泰造は厚木学園高校野球部の専属トレーナーなのだから。
「ハイ、おしまい♪どう、身体がウソみたいに軽くなったでしょう?」
「う、んんー……うわ、ホントだ!すげぇすげぇ!」
ぴょんぴょんと子どものように飛び跳ねる吾郎。そんな彼を微笑みとともに眺めつつ、
「それにしても……ほんとイイ身体してるわね……ウフフフ」
「ひょえっ……」
「まあそれは置いておくとして……アナタ、左手首痛めてるでしょう?」
「えっ!?」
その言葉に驚いたのは寿也だった。いつから?いやそもそも、吾郎はそんな素振りを一度も見せていなかったというのに……。
「本当なの、吾郎くん?」
「……まぁ、ちょっとだけ……」
「どうして言わないんだよ!?」と、寿也は吾郎に詰め寄っていた。利き手でないとはいえ、エースである吾郎に故障があってはチームの命運は尽きたも同然だというのに。
「マジでちょっとだけだから!!……たぶん香取のスライダー打ったとき、軽くやっちまったんだと思う。試合中はなんともなかったんだけどな……」
「アドレナリンが出てたのかしらね。アナタみたいな
「ば、バーサーカーって……おもしろいコト言うね、オネーサン」
ひゃひゃひゃ、とわざとらしく笑う吾郎だが、寿也の視線は冷たい。彼なりに相棒たる自分を大事にしてくれているのは吾郎もわかっている。それゆえ、なあなあで済ませてくれないということも。
幸いにして助け舟を出してくれたのは、厚木の乙女?トレーナーだった。
「気持ちはわかるけど、その話はあとにしてちょうだい。──アナタたちには話しておかなくてはならないの。静香がなぜ、アナタを忌み嫌うそぶりを見せているのか」
「……何か理由でもあるってのかよ?」
「大アリよ」
「似てるのよ、アナタは」──そう言って泰造は、文机の引き出しを開けた。その奥に仕舞い込まれた封筒から、丁寧な手付きで中身を取り出す。
果たして現れたのは、わずかに古ぼけた一枚の写真だった。写っていたのは3人の少年少女。ひと口にそう括っても、それぞれに幾分かずつ年齢差があるようだった。
「その写真……」
「きょうだいの肖像……って、ところかしらね」
向かって右側に立つ朴訥そうな少年は、かつての泰造か。ということはその隣で恥ずかしそうにはにかんでいる可愛らしい幼女が、厚木野球部の現女監督。
「マジかよ……これがあんなんなるのかよ」
(……きみも他人様のことは言えないと思うけど)
幼少期との変わりようで言ったら、吾郎も相当なものだ。周囲を自分のペースに巻き込んでしまう強引さ、どんな不利な局面でも燃え上がる闘争心の強さ──そういった彼の特徴は、あの頃には既に芽生えていたように思うけれど。
それより寿也が気にかかったのは、ふたりの背後から肩を抱くようにしてしゃがみ込む少年だった。肥えてはいないが立派な体躯と爽やかな笑顔は、彼が一端のスポーツマンであることを証していた。
「この人は……?」
「早乙女
「げっ、3人きょうだいかよ……」
「げ、って……失礼だよ吾郎くん」
そういえば吾郎のところもまったく同じ構成である。弟の真吾を泰造に、妹のちはるを静香に重ね合わせてなんとも言いがたい気分になったのだろう。
「えっと……お兄さんは今、何をされてる方なんですか?」
「どーせ厚木のなんかえらそーな役職についてんだろ?」
「吾郎くんっ、もう本当に──」
「──亡くなったわ」
相棒を咎めようとした寿也の言葉は、泰造の呟きによって打ち消された。
「アナタたちと同じ18歳のとき……マウンドの上で、ね」
泰造の脳裏に、あの日の光景が甦る。──それは今から15年前、例年以上の蒸し暑い夏のことだった。