早乙女武士がどんな人物かと問われれば、泰造が真っ先に語るのは「よき兄だった」というひと言に尽きるだろう。
幼少期は──己のアイデンティティに悩んでいたこともあって──内向的でいじめられがちだった泰造のことを彼はいつも守ってくれたし、末の妹である静香には殊更に優しかった。
では対外的にはどうかと問われれば、兄は単なる善人にはとどまらない存在だった。
彼には野球の、人並み外れた天賦の才があったのだ。リトル・シニアと常にエース投手として、また打者としてもすばらしい成績を残し、将来を嘱望されていた。
そうして周囲に期待されるまま名門校に進学していれば、兄は今ごろプロとして活躍していたかもしれない。あるいは期待されたような成果を残せずとも、彼の人柄ならいっぱしの社会人として生きていけただろう。
しかし兄が進学先に選んだのは、部員もろくに集められないような弱小校だった。
「──兄はね、すべてをお膳立てされてプロへの階段を上るより、自分の力で高校野球の世界に風穴を開ける道を選んだの。弱小校を、甲子園出場……果ては全国制覇へと導くことによってね」
「それって……」
「ええ。そっくりでしょう、どこかの誰かさんに」
泰造と寿也、ふたりの視線がひとりに集中する。「お、俺?」と困惑する吾郎だが、彼自身話を聞いて自覚するところではあった。吾郎自身、2年次からというハンデがあるとはいえ、アメリカでの実績を提げれば名門校への編入だって可能だったのだ。それを自分も含めてたった9人、部ですらない同好会から高校野球をスタートさせて、1年弱でここまで来た。
「お兄さんは、どちらの高校に?」
「………、」
「──厚木学園高校、よ」
「!」
果たして厚木学園高校が名門と呼ばれるようになったのは、この十数年でのことだった。
その端緒が、早乙女武士の存在だったといえる。入学当初から彼を絶対的エースとして戴いたことで、厚木野球部は年を追うごとにその地位を伸長させていったのだ。
そして武士3年の夏──いよいよ甲子園が見えてきた。誰もが武士に期待し、彼に夢を託していた。
「でも……3年間ひとりで投げ抜いてきた武士兄さんの身体は、もうボロボロだった」
兄を無理にでも止めなかったことを、泰造は今でも後悔している。──彼は見知っていたのだ。毎晩夜遅くに帰宅する兄の顔から、次第に表情が消えていくのを。泥のように眠ってなお、限界を越えた疲労が蓄積していくさまを。
それでもマウンド上ではそんな様子をおくびにも出さず、武士は酷暑の中を毎試合完投し続けた。そして──決勝を勝利で終えたその瞬間、糸の切れた人形のようにマウンド上に倒れ込んだ。
「……兄さんはそのまま、二度と目覚めることはなかった。それ以来よ、厚木学園が大きく変わったのは」
総監督に就任した父・早乙女義治の手によって、厚木野球部は生まれ変わった。理不尽で非合理的な練習や先輩後輩のしがらみがなく、日常生活における行動の強制もない──無論、法や公序良俗を逸脱しない範囲で──代わりに、プレイヤーとしては徹底的に管理されることになる。あの眉村ですら打順は常に9番、また100球を越えれば問答無用で交代させられるのだ。
「それに従えない選手は……如何に優秀であっても、厚木にはいられない。そういうルールなのよ」
「………」
「もちろん、
頭を下げる泰造。──彼、もとい彼女は彼女なりに、今の厚木の在り方に思うところがあった。選手たちを徹底的に管理し、枠にはめるような育成をして……それが本当に、彼らを守ることに繋がるのか。
厚木出身のプロ野球選手は大勢いる。しかしその中にあって大成した者は、数えるほどしかいない。管理されることに甘んじた者は、それを超えた伸びしろを失ってしまうのだ。
彼らの選手生命を縮めてしまう──それでは結局、肉体を酷使するのと変わらないではないか。
「別に、謝ってもらう必要はねーよ」
それはひどく静かな、大人びた声だった。
「元々、
「……本気で勝つつもりなの、私たちに?」
「勝つさ!言っとくけどな、俺はエースであることにプライドをもってやってきた。あんたらの兄貴だってそうさ、倒れるその瞬間まで……いやきっと今だって、自分の一球一球を後悔なんてしてねえ筈だぜ!」
「!」
勝利をめざして、投げて投げて投げ抜いて──結果どうなったとしても、自分は絶対に後悔しない。そう断言しつつ、吾郎は呆気にとられる相棒の肩に手を置いた。
「ま、俺は最後まで倒れるつもりはねーけどな。こいつとの"約束"もあるし」
「!吾郎くん……」
覚えていてくれたんだと、思わず感激しそうになってしまう。それを取り繕うように寿也もまた、笑みを浮かべて口を開いた。
「僕らも……吾郎くんひとりにすべてを背負わせるつもりはありません。皆の力で甲子園に行く──そう、約束したんです」
夢島は敗けない、敗けられない。自分たちの──そして早乙女武士の野球が決して間違ってなどいなかったと、証明するためにも。
目を丸くして、言葉を失っていた泰造だったが……程なくして、フッと口元を緩めた。
「……なら、私たちに勝ってごらんなさい。夢島ナインが厚木の分厚い壁を打ち破れるかどうか……ベンチで楽しみに見届けさせていただくわ」
*
吾郎の新技についての"話し合い"はおよそ半刻強に及んだ。すっかりこびりついた心身の疲労を引きずりながら、小森は監督執務室を辞した。
(はー、疲れた……色々な意味で。今日はもうこのまま寝よう……)
決勝までは一応、一週間弱ある。十分な猶予……と言いたいところだが、相手はあの本田吾郎率いる夢島学園高校に他ならない。考えなければならないことは幾らでもある──
しかし扉を出て程なくのところで、小森は思わぬ待ち人
「よぉ、こ〜もりん。作戦会議は無事に終わったか?」
「あ、阿久津くん!?それに眉村くんと市原くんまで……」
厚木学園を代表するトリプルエースが揃い踏みで出待ちとは──そんな皮肉を言うには、小森の心根は純粋のひと言に尽きた。
「どうしたの……皆で?」
「おまえが監督に呼び出されて、なかなか戻ってこないからな。様子を見に行こうって、阿久津が」
「なっ、おまえだって一人でも行こうとしてたじゃねーかよ!」
「……俺は心配ないと言った」
ふたりの声量に圧されているが、きっぱりと告げる眉村。その言葉は本心から発しているものだろう。態度には出さないが、彼は誰よりも自分を信頼してくれている。
「大丈夫だよ、次の試合の話し合いが長引いただけだから。あとで皆にもフィードバックするよ」
「次ねぇ。ま、この俺が軽くパーフェクト決めてやんよ」
「あ、あはは……そうだね」
苦笑ぎみに頷く小森。──夢島は普通の敵ではない、異例の眉村続投も含めて布陣を検討したほうが良いのではないかと、ダメもとで提案してみたことは流石に言えなかった。静香は時折愚直なまでに、
監督がそういう方針なら、小森もそれに従うしかない。もちろん、阿久津と市原も一流の投手だ。それぞれの強みを最大限に引き出し、気持ちよく活躍してもらう──その裁量は捕手であり、主将でもある自分に委ねられている。
「阿久津くん、市原くん──眉村くん」
「?」
「次も、勝とう。勝って必ず、このメンバーで全国制覇しよう!」
曇りなき笑顔とともに発せられた捕手の言葉に、投手たちは思わず顔を見合わせた。そんなものは、言われるまでもない当然の──"摂理"とでも呼ぶべきもので。
それをあえて言う小森の想いに応えるように、3人は力強く頷いたのだった。
*
一方、無事に貞操を守り通してホームに帰宅した夢島バッテリーはというと、2歳年長の女性コーチャーにきっちり叱られていた。
「何事もなかったから良かったものの……寄り道をするより前に、行き先くらい連絡してもらいたいものね」
「そーだそーだー」
後ろからシュプレヒコールのように続ける南雲をジロリとひと睨みしつつ、吾郎は「アイムソーリー」と気のない謝罪の言葉を発した。神妙にしている寿也とはこんなところでも対照的である。
(But……そんな事情があったとはね。わざわざあんなことを言ってきたのも、合点がいったわ)
あのときは余計なお世話としか思われなかったが、実体験に基づく、静香なりのありがたい忠告と言ったところか。……正直、その想いには共感できないこともない。もしも吾郎が武士のようになったら、彼を指導する立場でもある涼子は尚更罪の意識を感じずにはいられないだろう。
でも──
(……私は、ゴローの
自らに似た選手の末路を知ってなお、吾郎はその闘志を燃やしている。彼の遺志を背負ってより強く、より激しく。
ならば自分は、彼のために精一杯のサポートをするだけだ。
「……まあ過ぎたことはいいわ。それより決勝戦のことだけど」
「!なんか考えてくれたのか、作戦?」
「作戦ってほどのものじゃないけど……相手の先発、十中八九は阿久津くんでしょう。彼の決め球を攻略できるかどうかに、試合のイニシアチブがかかっているわ」
「……ナックルか」
ナックル──極限まで回転を抑えることにより、ミットに届くまでの間に不規則にブレるような変化をする、変化球の一種だ。高校生でこれをマスターしている者は極めて少ないし、それゆえに攻略も難しい。ある種、魔球だ。
「ナックルを扱える投手、心当たりがあるの。1日だけでも協力してもらえないかどうか、交渉してみるわ」
「おっ、さっすが涼子ちゃん!こりゃ俄然、楽しみになってきたぜ」
「……吾郎くんは手首捻ってるんだから、バッティングのことは考えないほうがいいよ」
「!」
「うわ、い、言うなよそれを!」
涼子がジトリと睨みつけてくるので、吾郎は慌てて「左だよ左!」と言い繕った。そういう問題ではないのだが。
「その辺りのこと、詳しく聞かせてもらおうかしら?あと……"月刊美魔女倶楽部"のことも、ね」
「ウゲッ!?な、何故それを……」
「……僕お邪魔になりそうなので、失礼しますね」
「オレも、おシゴトおシゴト〜」
「ちょっ、トシくぅん!?センセー!!」
縋る吾郎を置いて立ち去る女房役と担任。──ある意味、本田吾郎最大の試練ともいえる、熱帯夜になりそうだった。