流石にちょっと飽きてきたっすね……。
手に付いた塩と油を舐め取りながら、
誠美は施設で育った、いわゆる親無しであった。誠美自身はそのことに対して思うところなど無かったが、彼女の故郷がもつ閉鎖的な空気はそれを良しとしなかった。陰口、噂話、果ては直接的な嫌がらせ。そんな息苦しさに耐え切れなくなり、高校を卒業するなりわずかなお金を持って誠美は故郷を飛び出した。それが、つい一週間前の話だ。
しかし勢いに任せて上京したはいいものの、高校を卒業したばかりで後ろ盾も無い小娘に対して、都会の風は冷たかった。それはもうアラスカのごとし。生計を立てていくのは難しい。いちおう、賃金は低いが誠美でも雇ってくれそうなアルバイトだってあるにはあるが——それじゃあ、地元の奴らに笑われる。そんな小さな対抗心が、意地っ張りな誠美には捨てきれなかった。
でもやっぱり、ロクな求人がないっすね……。
だからこそのネカフェ生活。無料のフードコーナーにあるポテトをかっさらう度に店員から非難がましい目線を向けられるのを抜きにすれば、この格安の宿泊施設は素晴らしい。だけどそれも、もはや限界を迎えようとしている。誠美は焦っていた。
もう隅々まで見たネットの求人サイトを、何度となく見返す。だけれども、無機質なディスプレイが表示するのは変わらない現実ばかり。何より、こういう地味な作業は誠美が生来苦手とするところであった。
「うーん……気分転換に散歩でも行くっすかね」
気がつけば、パソコンの右下には「17:36」と表示されていた。誠美は大きく伸びをすると、店員に伝えてから外へ出た。
自動ドアが開くと同時に、暖かな3月の風が誠美の足を撫でる。店の前の大通りは帰宅ラッシュの車がひっきりなしに行き交い、誠美の目の前を自転車に乗った高校生二人組が通り過ぎて行った。ふと視線を上げれば、立ち並ぶビルの向こうから差し込むオレンジ色の夕日が見える。
「……取りあえず大通りに沿って歩いて行くっすかね」
誠美の過熱した頭を風が優しくなでて髪が舞う。色素が薄い、セミロングの銀髪。誠美はこの髪のことを中々気に入っているけれど、これだって地元では不吉だの凶兆のと散々噂の種になったのも事実である。もっと単純に、髪も含めて誠美が整った容姿をしていたことが気に入らなかったのかもしれないが。
おしゃれなファッション店、巨大なショッピングモール、何故かやたら広い公園。三十分ほどかけて都会を満喫した誠美が、そろそろ帰ろうと踵を返した時だった。
「
人気のない公園で突然うしろから声を掛けられ、誠美は飛び上がりそうになった。いや、実際三センチほど飛び上がった。なにせ、この都会で自分に声を掛ける者がいるはずがないのだから。完全なる不意打ちである。
あれか、都会ではよくあるというナンパ。いや、でもなんで私の名前知ってるんすかね?
混乱した思考のまま、誠美は声のした方へ振り返った。
「どちら様っすか? ナンパなら他を——」
「いいえ、保月様。ナンパではございません」
そこにいたのは、老紳士という言葉がぴったり当てはまる老人だった。綺麗に整えられた口ひげは真面目な印象を与え、眼鏡の奥の瞳は優しげである。だけどなにより目を引くのは、その老人が身に纏っている、一目で高価と分かるほどの執事服であった。それを一切乱すことなく、きっちりと身に纏っている。
「え、えーっと。私何かしちゃったっすか? 賠償とか……いや、あいにくお金ほとんど持ってないんすけど……」
「保月様、お話したいことがございます。どうか私と一緒に来ていただけませんか?」
正直なところ、誠美は少し怖いと思った。目の前の老人から怪しい雰囲気は感じられないが、慣れない都会でこんな申し出を受ければ誰だって警戒するだろう。だけど、深々と頭を下げる老人を無下にすることもまた、誠美には到底できなかった。
いや、これも新手のナンパなのかもしれない。なんて少し思ったのは秘密だ。
●△●
「えーと、血って。人間の体の中に流れているアレのことっすよね? 黒木さん」
「はい、その通りでございます」
執事服の老紳士——黒木の案内で近くの喫茶店の個室に入った誠美は、グレープフルーツジュースを啜りながら話に耳を傾けていた。ちなみに、黒木はブラックのコーヒーを丁寧な所作で口に運んでいる。
「保月様は三日前、近くの献血センターで200ミリリットルの献血をなさいましたね?」
「ああ、はい」
確かに三日前、誠美は駅の献血センターに寄ったことを思い出した。今まで一度もやったことのなかった献血をしようと思ったのは、記念品のトートバッグが誠美のセンスにどストライクだったからである。コウモリ柄の紫色を基調としたトートバッグに、誠美は一目ぼれだった。
「その血を、お嬢様がいたく気に入られまして……」
「は、え? お嬢様? どういうことっすか?」
続いて黒木の口から出たのは、全く意味不明の言葉だった。お嬢様? 気に入った? 何を? 血を?
「誠に申し訳ございませんが、ここでこれ以上詳しくお話することはできません。というのも、今回この場で話し合いの機会をいただいたのは、保月様に
「提案っすか?」
「ええ、単刀直入に申し上げますが——私どものもとで働く気はございませんか?」
それは完全に誠美の意表を突く提案だった。一瞬言葉を失った誠美に対して、黒木は容赦なく言葉をつづける。
「実はこの数日間、誠に勝手ではありますが保月様について調べさせていただきました。その結果、人柄、健康状態ともに良好。そしてなにより、仕事を探してらっしゃる最中のご様子」
「なっ、調べたってどういう」
「ですので。どうぞ、こちらを」
トン、と。混乱する誠美を前にして、黒木はテーブルの上に茶封筒を置いた。何やら長方形に膨らんで張りつめている。
「今回、突然のご提案で混乱させてしまったこと、勝手に身辺を調査してしまったこと、等々。本当に申し訳なく思っておりまして、これはそのお詫びでございます。少ないですが、百万円包ませていただきました」
「ひゃくまんえんっ!?」
「ええ。ですのでもしご提案を受け入れていただけない場合は、どうか何も聞かなかったことにしてこれをお持ち帰りください」
「口止め料ってことっすか……」
誠美のつぶやきに、黒木は何も言わないまま真面目な表情を崩さない。ここにきて誠美は、目の前の老人は結構食えない人物だと思いなおしていた。グラスの中で氷がカランと音を立てる。
「……働くって、仕事の内容はなんすか? あいにく運動くらいしか特技ないっすけど」
「それも、ここではお話することはできません。申し訳ありません」
「……」
怪しい、怪しすぎる。というか、何一つ説明してないようなものだ。流石にこんな状況で相手にホイホイついていこうとは、誠美は思わなかった。勝手に調査されてるし、百万円もの大金をポンと出すし、ヤのつく自由業関係ではないかと勘繰ってしまう。
だけど、誠美が職探しに奔走中なのもまた事実。それに黒木はあくまでも真剣な顔つきで、こちらを騙そうとしているようには見えなかった。こういう直観を、誠美は外したことがない。
だから、誠美は最も重要な一点のみを聞くことにした。
「お給料は、いくらっすか?」
「時給換算で一万円ですね」
「やります!!」
●△●
なんだかすごく高級そうな外車。
車に詳しいわけでも無く、そもそも車に乗った経験すらあまりない誠美の感想はそんなものだった。乗り心地だって、良いのかどうかよく分からない。そんな誠美と黒木を乗せた真っ黒な車が、明るい夜の都会を駆けていく。
どんどんと過ぎ去っていく色とりどりのネオンを楽しんでいる誠美に、運転席の黒木が話を切り出した。
「保月様は、
「もちろん知ってるっすよ。日本で一番大きい製薬会社っすよね」
血のように真っ赤な「KURENAI」のロゴは、誰でも一度は見たことがあるだろう。安価で高品質な医薬品を国内外問わず展開しており、世界的に有名な企業である。誠美の育った施設の薬箱にも、KURENAI印の消毒液が常備されていたものだ。
「今向かっているのは、その紅製薬グループの大元である紅家のお屋敷でございます」
「えっ、私、製薬会社で働くんすか!? 資格も何も持ってないっすよ?」
「いえ。保月様の雇い主は『紅製薬グループ』ではなく、『紅家』でございます」
「つまり……家の使用人ってことっすか?」
「その通りでございます」
黒木はまっすぐ前を見すえながら、誠美の問いかけに答える。その真面目そうな横顔に、誠美は内心の不安を冗談めかして口にした。
「家の使用人が時給一万円って、紅製薬グループの社長さんの家ともなると気前が良いんすねー。あっ、それとも私の体が目当てっすか……なーんて」
「そうですね。ある意味では保月様の体目当てとも言えるかもしれません」
「え、ちょ」
「さあ、着きましたよ」
予想外の返答に誠美が言葉を返せないでいると、車は目的地に着いたようだった。ここまで来てしまったならしょうがない、腹をくくった誠美が車から降りると、そこにあったのは見たことも無いような豪邸だった。
人の背丈をゆうに超す門扉の向こうには、まるで公園のように広い庭が広がっている。そこには何種類もの樹木が整然と配置されていて、見ているだけでも楽しい。さらにその中心に配置された三階以上はある白亜の邸宅は、威圧感する覚えるほどに綺麗な造りであった。
「さあ、保月様。こちらでございます」
「はいっす」
黒木の後に続いて、庭の石畳を歩いていく。門扉から玄関までの距離に、誠美は変な汗が流れてくるのを感じていた。
もしヤらせろって言われたら、土下座で見逃してもらえないっすかね……。
誠美がそんなことを思っているのを知ってか知らずか、黒木は玄関の扉を開けて中に入っていく。誠美も慌ててそれに続いた。
「おかえりなさいませ、黒木さん。そちらの方が例の……」
「ええ、そうです。なので、お嬢様のお部屋のカギを持ってきてください」
「かしこまりました」
庭も素晴らしいものだったが、家の内装もまた素晴らしい。玄関は吹き抜けになっていて天井ははるか遠く。大理石の床には、これまた高級そうなレッドカーペットが敷いてある。まるで西洋のお城に迷い込んだと錯覚するほどだ。
それ以上に誠美が驚いたのが、メイド服の女性が二人を出迎えたことであった。いや、黒木が執事服を身に纏っているのだから、メイドがいても不思議ではないのかもしれない。それともここの主人はメイド服が趣味なのか、自分もこれからメイド服で
黒木の指示で一旦奥に引っ込んだメイドは、すぐに何かのカギを持って帰ってきた。黒木はそれを受け取ってお礼を言うと、誠美に向き直って言った。
「お待たせいたしました、保月様。詳しい説明は道中致しますので、私の後に付いてきてください」
「わかったっす」
二人は長い廊下を歩いていく。レッドカーペットを踏んで、奥へ、奥へ。
壁掛けの高そうな絵画をぼーっと見ながら歩いていた誠美に、黒木が言った。
「……今から二年前のことです。紅家のご子女である
前を歩く黒木の表情は伺い知れないが、その声はどこまでも硬質だった。その雰囲気を感じ取った誠美は、慎重に言葉を紡ぐ。
「でも、その口ぶりだと助かったってことっすよね? 流石は紅製薬グループっすね」
「確かに、お嬢様の熱は数日で下がりました。念のためグループ所有の病院で詳しい検査も行ないましたが、結果は異状なし。発熱の原因は不明のままでしたが、何はともあれお嬢様は完全に回復したと思われました。ですが……お嬢様を車までご案内しようと、病院から外に出た時に事件は起こったのです」
「事件、っすか?」
「一瞬日光に当たっただけのお嬢様の腕が、やけどのような症状を起こしたのです。いや、やけどというのは最早適当でないかもしれません。お嬢様の腕の一部は、やけどを通り越して炭化していらっしゃいました」
「はっ?」
日光に当たっただけで炭化? それじゃあまるでおとぎ話の——
「我々は慌ててお嬢様を一旦病院の中へ連れ戻しました。すると我々の目の前でお嬢様の腕がみるみる治っていき、五分もしないうちに元の白い腕に戻ったのでございます。あれは治ったというよりも、再生と呼ぶべきでしょうか。泣き叫んでいたお嬢様も、その頃にはけろりとしていらっしゃいました」
「それって……」
「ええ。現代の医学というか、科学さえも無視したような現象です。すぐに紅製薬グループ擁する選りすぐりの名医たちを呼びつけて、お嬢様のお体を検査いたしました。しかし得られたものは何もなく、名医たちをして匙を投げる結果となりました。ただ……」
「ただ?」
「色々と調べていく段階で、お嬢様について奇妙なことが分かってきました。日光に当たるとたとえ短時間であっても体が焼けてしまうこと、あらゆる回復力が異常であること、にんにくを非常に嫌うこと——そして、人間の血液以外を栄養素として吸収できないこと。それは、まるで、その」
黒木の言いにくそうな言葉を、誠美が繋いだ。
「吸血鬼のように、と」
「……ええ。お嬢様に対してあまりに失礼なことですが、医者の中には『吸血鬼病』などと呼ぶ者もおりました。その後、お嬢様が鏡に映らないことも分かり、いよいよ現代医学ではどうしようもないということになったのです」
「現代医療どころじゃない気もしますけど……。でも段々、話が見えてきたっすよ」
誠美はパチンと指を鳴らした。
「そのお嬢様のために、献血で集めた血の一部を与えてたんすね? それで私の血が、お嬢様のお気に召した」
「はい。保月様の血を飲んだ際のお嬢様は、これまで見たことのないほどに上機嫌でいらっしゃいました。そして、なんとかしてこの血の主を連れて来るように、と言って聞かなかったのでございます」
ふと、黒木は足を止めた。そこは廊下の突き当りで、傍目にも重厚そうな扉の前である。傍の壁には「朱莉お嬢様治療室」というプレートが掛けてある。
黒木は誠美に向き直って言った。
「自分の血が目当てだと言われて、良い気はしないでしょう。血を取られるなんて気持ち悪いと思われるかもしれません。ですが、どうか……お嬢様を助けてくださいませんか。まだ十一歳でいらっしゃるのに、こんな日光の当たらない屋敷の奥の一室で籠りきりのお嬢様が、私には不憫でならず……。せめて、食事くらいは楽しんでいただきたいのです」
黒木は誠美に向かって、また深々と頭を下げた。だけど誠美はすぐにその肩を叩いて、頭を上げるように促す。ここまでの話を聞いて、一つの覚悟が誠美には生まれていた。
「大丈夫っすよ、黒木さん。一度やるって言ったことをひっくり返すような真似はしないっす。お嬢様の『食事役』はしっかり務めてみせるっすから」
「! ありがとうございます」
まっすぐにお礼を言ってくる黒木に、少し照れくさくなった誠美は話題を変えることにした。
「ところで、私のお仕事は、血の提供ってことでいいっすか?」
「ええ。それと、お嬢様の話し相手や部屋の掃除ですね。要するに、保月様はお嬢様専属のメイドという立ち位置です」
「了解っす。あと、もう様づけは不要っす。一緒に働く仲っすからね」
「そうですね。分かりました。これからよろしくお願いします、保月さん」
「任せるっす。黒木さん」
さて、それではお嬢様にご挨拶いたしましょう。そう言って黒木は、手に持った鍵で扉を開ける。誠美も黒木に続いて部屋に入った。
治療室とは書いてあったものの、その中は意外なほどに普通の子ども部屋だった。まあ、「吸血鬼病」なんてものに対して最先端の医療機器を持ち込んだところでどうなるものでもないのだろう。
そこそこ広い空間には、ふかふかのカーペットと高価そうな家具類が配置されていた。特に部屋の大半のスペースを埋める巨大な天蓋付きベッドは、絵本のお姫様が使っていそうだと誠美は思った。
そして実際、そのベッドの上にはお姫様のように可愛らしい少女が座っていた。「吸血鬼病」のせいかその肌は雪のように白く、腰ほどもある黒髪は濡れたように艶やかである。ただその瞳は血のように真っ赤で、綺麗であると同時にぞっとする不気味さがあった。
「失礼します、朱莉お嬢様。保月さんをお連れしました」
「あ、えっと、よろしくお願いするっす。保月誠美っす」
ぺこりとお辞儀をする誠美に対して、朱莉はしばらく黙ったままだった。
不審に思った誠美が顔を上げると、朱莉は誠美を見据えてゆっくりと目をぱちぱちさせていた。それからやっと事態を飲み込んだのか、その赤い瞳にじわじわと喜びがあふれていく。だけどそれは、誠美に会えたという喜びでは勿論ない。
「黒木ィィィー! 良くやったぞ! こいつが例の血の持ち主だなー!」
どこにそんな力があるのか。十一歳の小柄な少女であるはずの朱莉は、ベッドから飛び出して誠美に抱き着くと、その尖ったキバをむき出しにした。その瞳に浮かぶのは、純粋な食欲。
「ちょっと、何するんすか!!」
「黙れ、血液サーバー! お前はただ私に血を飲ませればいいのだ!!」
「お前じゃないっす! 保月誠美って名前があるんすから!」
「いいから! 早く吸わせろー!」
「直飲みっすか!? なんか嫌っすー!!」
二人が取っ組み合っていると、それまで固まっていた黒木が動き出す。
「おお黒木! お前も手伝え——グハッ」
パコーンと音を立てて、朱莉の頭がブレる。誠美が振り向くと、そこには銀色のハリセンを持って佇む黒木の姿があった。無表情だが、確実に怒っていると分かる。赤いオーラが見えるようだった。
「お嬢様、事前に申し上げましたよね? 紅家の令嬢として、節度ある対応をするようにと。もうお忘れですか?」
丁寧だけれども有無を言わせない口調で、黒木は淡々と告げる。朱莉は顔を青くして正座の状態になっていた。
「だ、だって……こんなに美味しそうなんだもん」
「だってじゃありません。後でお説教ですからね。覚悟しておいてください」
しゅんとした朱莉から視線をずらし、黒木は誠美に向きなおった。
「申し訳ありません。見ての通り、お嬢様はお転婆な方でして」
「お転婆ってレベルっすか?」
「今のお嬢様は力も強くなっておりますから、何かあったらこのハリセンを使ってください。表面に銀を塗布してありまして、お嬢様によく効きますから」
「は、はあ」
ハリセンを受け取った誠美は、ここに来るまでどこか緊張していた心が弛緩していくのを感じていた。いや、ちょっとコレは色々と予想外が過ぎる。
お嬢様が正座し、執事が睨む。そんなカオスな空間で、思うことは一つ。
「就職先、間違えたっすかね……」
上手い話には裏がある。かつて施設で自分を育ててくれた先生の言葉が、今になってよく理解できるような気がした。