邪神ちゃんドロップキック面白すぎる……
お嬢様専属メイドの朝は遅い。
「ふぁ。もう五時っすか」
紅家の屋敷の一室。黒木に用意してもらった部屋のベッドで、誠美は大きく伸びをした。壁掛け時計が示す時刻は十七時、夕方の五時である。
あの衝撃の出会いから三日。誠美は完全な昼夜逆転状態に陥っていた。それは別に仕事をサボって自堕落な生活をしている、という訳ではない。むしろ真面目に、誠美の雇い主——朱莉に合わせた結果であった。
軽く身だしなみを整えた誠美は、まだ着慣れない白黒のメイド服を纏って部屋を出た。夕焼けの薄暗い廊下を歩いて向かう先は、つい最近場所を覚えたばかりの医務室である。
「失礼するっす。医山さん」
「待っていましたよ。誠美さん」
入室した誠美を出迎えたのは、ニコニコと人好きのする笑顔を浮かべた老婆だった。清潔な白衣と首から掛けた聴診器が良く似合うその人物は、紅製薬グループきっての名医である
誠美がここを訪ねたのは、なにも体調が悪かったからではない。これから始まる仕事の準備をするためだった。
「医山さん、今日もよろしくお願いするっす」
「はい。ここに腕を置いてね」
誠美は軽く腕をまくると、医山の示した台の上に右腕を置いた。医山は慣れた手つきで消毒用ガーゼを誠美の腕にポンポンと当てると、注射器を差し込む。一瞬の異物感が誠美を襲うが、全く痛くは感じない。
自分の血液がゴムチューブをつたって吸われていくのを見ながら、誠美はぼんやりと言った。
「いやー、本当にすごいっすね。全く痛くないっすよ」
「それは良かった……さあ、もう良いわね」
医山は再び慣れた手つきで誠美の腕から針を外すと、吸い取った誠美の血液を別の容器に入れなおした。「紅朱莉様用」とラベルの付いた、やたら豪華な装飾が施された小さなガラス瓶が赤色の液体で満たされていく。
その瓶を医山から受け取った誠美は、採血で乱れたメイド服をそそくさと整えた。もうすぐ、お嬢様の起床時間だ。
「じゃあ、ありがとうございました」
「頑張ってね。体調が悪くなったらいつでも言うのよ」
医山のエールを背中に、誠美はまだ慣れない廊下を歩きだした。
●△●
カラカラカラ
いくつかの輸血パックを乗せたワゴンを押しながら歩いていた誠美は、ある大きな扉の前で立ち止まった。朱莉の治療室兼自室である。
「お嬢ー。起床時間っすよー」
ノックしながら声を掛けるが返事はない。いつものことだ。すぐに誠美は、持っていた専用のカギでドアを開けて中に入った。
部屋の中は真っ暗で、その中央にある巨大なベッドには小さな影がうごめいていた。誠美は容赦なく明かりをつけると、その影に近寄る。
——寝てれば、かわいいんすけどね……。
ベッドで惰眠をむさぼっているのは、誠美の主で「吸血鬼病」患者の朱莉であった。幼くも整った容姿はドキリとするほど美しく、艶やかな黒髪も手伝って、まるでおとぎ話のお姫様のようである。
だけど誠美は知っている。この見かけは、悪質なワナであると。誠美がお嬢「様」と呼ばない理由もそこにある。
「お嬢ー。起きるっす」
ゆさゆさと、朱莉の肩をゆする。すると、朱莉の瞼がうっすらと開いて真っ赤な瞳が露わになる。不気味さと美しさを兼ね備えた、不思議な瞳だ。
「うーん……なんだ血液サーバーか」
「起床時間っす、お嬢。それに私は保月誠美って名前があるっす」
「まだ眠いんだ。寝かせてくれ、サーバー」
「はあ……」
ため息を一つつくと、誠美は半ば強制的に朱莉を立ち上がらせる。うんうん唸っているが気にしない。ほっといたら何時間でも寝ているのが朱莉だと、既にこの三日間で学んでいた。
「ほら、顔を洗うっす」
「うー……」
ノロノロと身だしなみを整え始めた朱莉を横目に、誠美はベッドを整え食事の準備をする。これまでメイドの経験など当然なかったが、要は施設でのお手伝いの延長であり、誠美の業務は三日目にして既に板につきはじめていた。
「おお! 食事だな!」
「あっ、やっと目が覚めたっすか」
誠美がコップに血液を注いでいると、身だしなみを整えた朱莉が元気に声を掛けてくる。今日の服装は、簡素な黒いワンピースである。長く艶やかな黒髪と相まって、とてもよく似合っていた。
「吸血鬼病」にかかった朱莉はどうやら体内時計が反転しているらしく、今のように日が落ちた時刻から活動すると体の調子が良い。そのため、誠美も専属メイドとして昼夜逆転の生活をしている。
「朝じゃないっすけど、朝食っす。どうぞ」
「いただきまーす……ってこの味、またか!?」
コップに口を付けた途端、朱莉の眉間にしわが寄った。
「サーバー! お前の血を飲ませろと言っておいたろう!? なんで普通の血なんだ!」
「いや、普通に無理っすよ。私が干からびちゃうっす」
朱莉の機嫌が悪くなった理由は、朝食の血が誠美のものでなかったからだった。これは一般の、献血に協力してくれた人たちの血である。
誠美は確かに血の味を見込まれて雇われているが、朱莉に毎日血を吸われていては流石に死んでしまう。そのため、少量の血をデザートとして提供していた。
「ほら、今日も医山さんに血を抜いてもらってあるっす。それ飲んだら、あげるっすから」
「仕方ないな……私の舌が肥えたのはサーバーのせいなのに。……ほら、全部飲んだぞ。それをくれ」
「どうぞっす」
コップの血を全て飲み終えた朱莉は、豪華なガラス瓶のふたを大事そうに開けた。それからゆっくりと、恍惚の表情で誠美の血を飲んでいく。
そんなに美味しいのかと、以前誠美も試しに自分の血を舐めてみたのだが、ただ鉄臭いだけで美味しさは全く理解できなかった。
「ああ……もう終わってしまった」
「食事が終わったなら、片付けるっすよ」
空になった瓶を未練がましく見つめている朱莉に、誠美はきっぱりと言った。ほっとくと瓶を舐めかねないからだ。ちなみに、「吸血鬼病」の朱莉は、基本的に一日一食である。
「なあサーバー。もう一瓶……」
「だめっす。黒木さんにも言われてるっすから」
「黒木ィ……」
朱莉の恨めしそうな呟きを背に、誠美はさっさと後片付けを始めた。
●△●
食事が終われば、次は掃除の時間。机に向かう朱莉の後ろで、誠美は部屋の掃除を始めたのだが——
「……」
「……」
見られている。
ちらちらと視線が向けられているのをあえて無視しながら、誠美は部屋を掃除していた。この三日間ずっとこうだ。
——この感じ、懐かしいっすねー。
誠美の育った施設でも、こんな視線を向けられたことがあった。新しく施設に入った子が、相手との距離感をはかりかねている時の視線だ。
あくまで自然な風を装いつつ、誠美は視線の主へと顔を向けた。
「! ど、どうしたサーバー?」
「いや、何でもないっすよ。勉強がんばってて、えらいなと思っただけっす」
「そ、そうか」
そう言ってから、朱莉は誤魔化すように視線を手元の参考書に戻した。「吸血鬼病」のため学校に通えなくなった朱莉だが、事情が事情であり家庭教師のような部外者を積極的に受け入れるわけにもいかないため、もっぱら参考書で自習している。
最初の出会いや普段の言動が強気だったために忘れがちだが、朱莉はまだ小学生だ。それも、「吸血鬼病」などという理不尽な事情で引きこもりに近い生活を強いられている、可哀そうな女の子である。誠美に向ける視線からも、それはよく分かる。
——でも、
そんな考え事をしていたからか、慣れないメイド服のためか、誠美は足元のちょっとした段差に気がつかなかった。
「わっ、とっ!」
やばっ、と思った時には既に床が目の前に迫っている。誠美は痛みを覚悟して、目をぎゅっとつむった。
しかしその瞬間、近くで椅子を蹴飛ばす音がしたのと同時に、誠美の体はぐいっと引き戻された。
「お嬢……」
「だ、大丈夫か?」
「吸血鬼病」の副作用なのか、朱莉の身体能力は異常なレベルで高い。そのため、自分よりも体の大きい誠美だって簡単に引き寄せることができる。誠美は小さく笑って言った。
「ありがとうっす、お嬢。おかげで何ともないっすよ」
「そ、そうか——あっ!」
お礼を言う誠美に対して、朱莉は小さく叫び声をあげると誠美から手を離した。見れば、朱莉に握られていた誠美の腕が赤く腫れている。異常に力の強い朱莉が、咄嗟に手を取った結果だった。
やってしまったという顔をしている朱莉に、誠美は何でもないように言った。
「どうしたっすか、お嬢? はら、お嬢のおかげでなんともないっす!」
「あ、その、腕……」
「こんなのどうってことないっすよ。そんなことより、さっきのお嬢はかっこよかったっすね!」
「かっこよかった……?」
「そうっすよ! 私のピンチにすぐ来てくれたんすから」
自分でも理由が分からないままに、誠美は焦っていた。朱莉に落ち込んだ顔をさせてはいけない、という焦燥感が心の奥から湧いてくる。
そんな誠美の内心を知ってか知らずか、朱莉はいつもの調子を取り戻したようだった。瞳に普段通りの力が戻ってくる。
「そ、そうかヒーローか。感謝すると良いぞ、サーバー!」
「もちろんっす! 流石はお嬢!」
「そうだろう、そうだろう!」
まだ多少ぎこちなくはあるが、その後は何事もなく二人の夜は更けていった。
そして朝。自室のベッドにもぐりこみながら、誠美はなぜあの時あんなにも焦っていたのか考えていた。眠気にゆらぐ頭に、一つの答えが浮かんでくる。
「そっか、私に似てるんすね……ちょっとだけ」
その言葉は誰にも聞かれず、カーテンを閉め切った部屋の空気に溶けていった。
●△●
あの日から、誠美は朱莉との距離が近くなったのを感じていた。近くなった、というより甘えるようになったと言えばいいのだろうか。態度自体にあまり変わったところは見られないが(未だに「血液サーバー」呼びである)、それまでのおじおじした感じが無くなったようだった。
それと同時に、誠美の方も朱莉に積極的にかまうようになっていった。
ある日は
「お嬢―! トランプやるっす!」
「いいな!」
またある日も
「お嬢―! チェスって知ってるっすか?」
「私を誰だと思っている! やるぞ、サーバー!」
また別の日も
「お嬢―! 頼まれてた花札持ってきたっすー!」
「よくやったぞ、サーバー!」
そうして一ヶ月が経った頃。朝になって自室に戻ろうとした誠美は黒木に呼び止められ、ある一室でテーブルを囲んでいた。黒木はいつも通りのブラックコーヒー、誠美はこれから寝るためホットミルクである。
「眠いところを呼び止めてしまい、申し訳ありません。二つお伝えしたいことがありまして」
「大丈夫っす……あの、お叱りっすか?」
「いえ、むしろ逆です——朱莉お嬢様のメイドになって下さったこと、本当にありがとうございました。この感謝を、どうしてもお伝えしておきたかったのです」
「そ、そんな大したことは」
「いいえ。保月さんも気づいていらっしゃるはずです。朱莉お嬢様は、本当に
「それは……」
誠美にとって、それはこの一ヶ月で痛いほどに分かっていた。あの子は特別なんかじゃなくて、特別にならざるをえなかったのだと。
「初めて朱莉お嬢様にお会いになった時、きっと驚かれたことでしょう。なんてお転婆な方なのだ、と。ですが病にかかる以前、朱莉お嬢様はあれほど苛烈な性格はされておりませんでした。多少、傲慢なところはありましたが、基本的に優しいお方だったのです」
「……そんな気はしてたっす」
転びそうになったところを朱莉に助けられた日のことを思い出す。あれは確かに、朱莉の素が出た瞬間だった。
「ですがお嬢様は、病にかかってから変わってしまわれた。それも病の一部だろう、という医者もおりました。ですが私には、あの苛烈で高圧的な態度はお嬢様にとって、不安な心を守る鎧のように思えて仕方なかったのです」
「……」
「そのお嬢様が、最近よく笑うようになられました。時折以前のような、年相応の無邪気な顔をなされます。まあ、保月さんにはまだ恥ずかしくて素は見せられないようですが、このままいけばいずれお嬢様は
「……やっぱり、買いかぶりっすよ。私は話し相手になっただけっす」
「それこそが、我々にできなかったことなのですよ。お嬢様が保月さんの血を美味しいと感じたのも、なにか運命的なものを感じますな」
そう言うと、黒木は胸元から懐中時計を取り出した。時刻は七時三十分を指している。ブラックコーヒーを一気に煽ると、黒木は立ち上がった。
「話し込んでしまい、申し訳ありません。これからも、どうぞお嬢様をよろしくお願いいたします。お伝えできてよかった」
「こちらこそっす。ところで、二つお話があるってことだったっすけど、もう一つは?」
ドアノブに手をかけた黒木は、そこで思い出したように言った。
「ああそうでした。実は、明日は朱莉お嬢様の誕生日なのです。引きこもっておられるお嬢様にせめてもと、ささやかなお祝いを計画しております」
「そうだったんすか!」
「とはいっても、多少の飾り付けやプレゼントをお贈りする程度のものですが。以前のように、多くの著名人をお招きした誕生日パーティーはできませんからね」
「誕生日パーティー……そういう世界って本当にあるんすね」
「ええ。プレゼントや装飾品の手配は全て完了していますので、保月さんはただご承知おきくだされば。夜の十二時にお嬢様のお部屋に参ります」
「分かったっす」
では、と言って部屋を出ていく黒木を見送ってから、誠美はホットミルクに口を付けた。時間の経ってしまったホットミルクが、ぬるく誠美の喉を通っていった。
●△●
「どうしたサーバー? 今日はなんだか落ち着きがないな」
「そ、そうっすか? お嬢は気にしなくて大丈夫っすよー」
誠美は隠し事というのが上手くなかった。いや、別に黒木から隠せと言われている訳でも無いのだが、やっぱり誕生日と言えばサプライズだろうと考えた結果である。
そんな様子の誠美に、朱莉はため息を一つついて言った。
「誕生日、だな?」
「え、いや、その、何で」
「自分の誕生日を知らないわけがないだろう。黒木は特に、そういうのに力を入れるタイプだしな。それにサーバー、お前分かりやすすぎだぞ?」
「……お嬢にはかなわないっすねー」
誠美はお手上げというように、手をひらひらとさせた。それを見て、朱莉がクスリと笑った。
「サプライズにしようと思ったんすよー」
「全く、余計なことを。それに、サプライズなんてしなくても私は……」
「?」
「い、いや。何でもないぞ」
その時、ノックの音とともに黒木の声が聞こえてきた。誠美はすぐさまドアに向かい、黒木と一緒に戻ってきた。二人の手にはクラッカーが握られている。
「朱莉お嬢様、お誕生おめでとうございます」
「おめでとうっすー!」
「うむ。くるしゅうないぞ」
パンパンと鳴るクラッカーに、朱莉は頬を少し赤らめながらいつにも増して尊大な口調で答えた。それが照れ隠しであることなんて、だれが見ても分かる。
「では」
黒木は素早い手つきで部屋を誕生日風に装飾していく。もちろん誠美も手伝い、作業はすぐに終わった。
部屋が豪華に飾りつけされると、黒木が小さな黒い箱を持って入ってきた。リボンで綺麗なラッピングが施されている。
「朱莉お嬢様へ、ささやかながらプレゼントをご用意いたしました」
「おお! 開けてもいいか?」
「もちろんでございます」
受け取った小さな箱を、朱莉はとても大事そうにゆっくりと開けた。取り出されたのは、精巧な金細工のネックレスだった。
「きれい……」
「気に入っていただけたようで何よりです。朱莉お嬢様のご病気の平癒を願いまして、美と清浄の象徴である月の意匠をあしらった特注品でございます」
「うむ、気に入ったぞ!! ありがとう黒木! サーバーもな!」
朱莉はそう言うと、ネックレスを抱きしめるようにぎゅっと握った。その様子に、黒木も誠美も暖かい笑みを浮かべる。
そんなほっこりとした空気の中、誠美は小さく言った。
「あの、実は私もプレゼントを用意してきたんす」
「えっ」
「そうなのですか?」
朱莉も黒木も驚いたように、誠美を見つめた。誠美は気恥ずかしさから頬をかきながら、おずおずと口にした。
「本当に、たいしたものじゃないんすけど……」
「保月さんにはぎりぎりにお伝えしましたから、プレゼントを用意するような時間はなかったのでは?」
「ええ。なので、これを」
誠美はメイド服のポケットから、赤い液体で満たされた瓶を取り出した。いつも朱莉にデザートとして提供している瓶よりも、一回り大きい。
「医山さんに無理を言って、できる限りの血を抜いてもらったっす」
それは、朱莉になんとか喜んでもらおうと、今から用意できるものを考え抜いた結果だった。誠美は、自分の血がどれほど喜ばれるか良く知っていた。
だけど、朱莉は喜びというよりむしろ呆然とした様子で、差し出された瓶を心ここにあらずといった様子で受け取った。
「あれ? もしかして、気に入らなかったっすか?」
「……なあ、サーバー。この血の量は、大変じゃなかったか?」
「あはは……まあ、少しクラっときたっすけどね。医山さんは名医っすから、問題ないっすよ」
「……お前はそれでいいのか? 私に血を飲まれるのは——」
「何をいまさら。それに、私とお嬢の仲じゃないっすか!」
「!!」
バッと顔を上げた朱莉は、全ての感情がぐちゃぐちゃになったような表情をしていた。誠美と黒木があっけにとられていると、すぐに朱莉は再び顔を伏せて小さく言った。
「……出てくれ」
「え?」
「お嬢様?」
「……いいから。この部屋から、出てくれ」
「ちょ、ちょっと!」
朱莉の力には、大人二人がかりでも対抗できない。誠美と黒木は、朱莉に部屋の外まで押し出されてしまった。その後、すぐさま部屋の鍵がかかった音がする。
「お嬢! いきなりどうしたんすか!? プレゼントが気に入らなかったなら、謝るっすから!」
「お嬢様、どうなさったのです!?」
二人でドアを叩くと、中から小さく朱莉の声がした。
「……いや、プレゼントは本当に嬉しかった。ここまでしてくれて、ありがとうサーバー」
「だったら——」
「だけど! なんでお前はそこまでしてくれるんだ!?」
「なんで、って……」
「血を抜くなんて、本当は嫌なんだろう? 私のことはっ、気持ち悪くならないのか!?」
それは、朱莉の弱さを煮詰めた叫びだった。そんな朱莉の勢いに押されて、誠美が一瞬口を噤んだ。朱莉は続けて言う。
「黒木。明日から、食事は部屋の前に置いてくれればいい。掃除だって自分でやる。だから、サーバーはどこか別の担当にしてやってくれ」
「……お嬢様。本当に、それでよろしいのですか?」
「……」
そこで誠美は衝撃から覚めた。黒木に扉の前を譲ってもらい、覚悟と共に話しかける。
「お嬢」
「……なんだ」
——よし。とりあえず、会話はしてくれるっすね。
「私のしゃべり方、どう思うっすか?」
「な、なんだ、急に」
「いいから。答えて欲しいっす」
「……ちょっと、変わってるとは思う。今では何とも思わないが」
「そうっすよね。私だって、最初はこんなしゃべり方じゃなかったんすよ。小さい時はもっと普通にしゃべってたっす」
「そうなのか?」
「そうっすよ。昔、矯正したっす。その方が生きやすかったっすから」
「! どういうことだ?」
「私、地元でちょっと立場が弱かったんすよ。だから色々嫌なこともあって……そういう時は、自分から道化になるのが一番楽だったんす。今では染みついちゃったっすけどね」
あはははと軽く笑ってから、誠美は再び口を開いた。
「これまで私に価値を認める人なんていなくて、私自身もそれを受け入れて生きてきたっす。それが普通だと思ってた。口調だって、その結果っす。だけど、お嬢——あなたは、違った」
「な、なにを言っている! 私はただお前の血が目当てで——」
「それなら! なんで血をプレゼントした時、あんな顔してたんすか?」
「!!」
扉越しに、朱莉が言葉を詰まらせたのを誠美は感じた。
「お嬢が素直に喜べなかったのは、血じゃなく私の方が大切だから……そう思うのは、うぬぼれっすか……? 私はこんなお別れ、絶対嫌っす……」
誠美の声は段々と小さくなり、最後の方は懇願しているような響きだった。
その瞬間。扉が開いたかと思うと、伸びてきた腕が誠美を部屋の中へと引っ張り込み、ガチャリと再び鍵をかけた。一秒にも満たない早業。その犯人は分かりきっている。
「お、お嬢……」
こぶし一つ分あるかないか程度の距離。文字通り目と鼻の先で、血のように真っ赤な瞳が妖しく光っている。誠美は小さく息をのんだ。
扉が外から叩かれる音がする。
「保月さん!? 大丈夫ですか?」
「大丈夫っす、黒木さん。少しの間、二人だけで話したいっす……そうっすよね? お嬢?」
「……黒木、下がっていろ。
「……かしこまりました」という声と共に、扉の向こうから黒木の気配が無くなった。朱莉が誠美を押し倒したような体制のまま、しばらく二人は無言で見つめ合っていた。
その沈黙を破ったのは、朱莉の方だ。
「誠美」
「やっと、名前覚えてくれたっすか?」
「茶化すな。こっちは真面目なんだぞ……さっきは、すまなかった。お前がいなくなったら私は——」
「分かってるっす」
軽く笑顔を見せる誠美に対して、朱莉は無表情のままである。
「誠美は、私から離れたくなったりしないか?」
「しないっす」
「絶対に?」
「絶対に」
「本当か?」
「しつこいっすよ。私はウソが嫌いっす」
そう言い切ると、朱莉は誠美の胸元にもたれかかってきた。その瞳はうっすらと潤んでいる。
「よかった……じゃあ」
「どうしたっすか? うわっ」
朱莉は体を上げて、誠美の肩にあごを乗せた。
「なあ誠美。私は臆病なんだ。言葉だけじゃ不安になってしまうくらいに」
「えーっと、どうすれば?」
「一度でいいから、直接血を吸わせてほしい」
「えっ」
誠美からは見えなかったが、朱莉は鋭利なキバをむき出しにしていた。誠美の首筋を見つめるギラギラとした目線は、まさに「吸血鬼」の名にふさわしい。
「傷はつけない、じゃなかったんすか?」
「傷じゃないさ。約束——いや、契約の証さ」
朱莉は案外したたかなのかもしれない、そんなことを思いながら誠美はため息と共に言った。
「ちょっとだけっすよ? 今日はもう、血の量ぎりぎりなんすから。あと、出来るだけ痛くしないで欲しいっす」
「……分かってる。たくさん飲むつもりはないさ」
——だって、お前はもう私のものだからな。
そのささやき声は小さすぎて、誠美にはよく聞き取れない。
静かな部屋の中、牙が柔肌を貫く音がぷつりと響いた。