気が付くと列車に揺られていた。カタンと鳴る振動に目が覚めて、車窓を覗くと知らない海の景色が両眼を覆った。
すわ寝過ごしたかと一瞬血の気を引いたがそもそもこの列車に乗った覚えが無い。身の回りを調べても財布も切符も見つからず、一円すら持っていなかった。あるのは少しの日用品と見覚えの無い時計が入った鞄だけ。
途方に暮れたが何故か焦りを感じず、次の駅に降りたら車掌さんに事情を話そうと楽観的に考えていると奥の方から声を掛けられた。
「お兄さん、良かったらこっち来ない? 蜜柑を一緒に食べて欲しいの」
そちらに振り向くと人当たりの良さそうな笑みを浮かべる老夫婦が顔を覗かしていた。私は喜んで御相伴に預かった。
四人席のコンパートメントにはその老夫婦と蜜柑の山が席を埋めていて、私は残った席に座るとお爺さんが次々と蜜柑を私の膝に乗せてきた。
お手玉ぐらいのちんまりした蜜柑。柔い皮を剥いて丸ごと口に入れると蜜が詰まっていて甘い。私はしばらくの間、無言で蜜柑を食べているとお婆さんが水筒を差し出してきた。
焼き魚が入った熱燗だった。出汁が効いてて美味いが蜜柑のお供に呑むものか? しかし丁度良い塩梅で甘くなった舌を潤してくれた。
人心地が着いて、お二人に事情を話すとうんうんと頷いて此処が何処か教えてくれた。
「儂らも詳しい事は知らないけどね。みんなはこの線路を東葉山線と呼んでいるよ。もう二十年は暮らしているが西の車線は聞いた事無いのお」
東葉山線。聞き覚えが無い車線だ。そして此処は日本にあるが日本じゃないという。どういう事なのか。
「異界、なんですって。あの天狗さんに聞くとどこかの大きな神様の領地らしいけど、眉唾ですよねえ」
二人の話を聞いてると狐に化かされたような気分になる。しかし嘘を付いてるようには見えないし、変に納得してる自分がいる。
変な心情だ。不安がやって来ない。代わりに酔いが来た。水筒に入ってた酒の所為。
私は駅についても尋ねたが曖昧な返事しか返って来なかった。
「次は……確か、呑み屋街じゃったか。いや波止場か?」
「イタチさん達の酒造村はずっと前に通り過ぎてしまいましたし……」
駅は増えたり減ったりと変動するらしい。だから路線図も無い。困惑が深まるばかりだった。
お二人がどの駅に降りるか聞いたら針杉山という知らない駅だった。私は金が無いことを伝えて働ける場所に心当たりはあるかと聞いてみた。
「呑み屋街に行けば寝床と食べる場所には困らんじゃろう。トンネルを抜けたら多分すぐじゃよ」
「お兄さん。蜜柑を持っていきなさいな。きっと助けになりますよ」
私は首を傾げたが素直にご厚意に甘える事にした。
ここまでお世話になったから何か返せるものはあるかとポケットを探ったが見つからず、仕方無く口約束だが必ずお礼をするとお二人に言うと彼等は暖かい目で微笑んだ。
「こっちがサエ。儂が仁助じゃ。お兄さんは何という?」
私は口を開いたが……又閉じた。
自分の名前が思い出せなかった。平時なら動揺する筈なのに私は妙に納得していた。
そうか。名前を失ったんだな、と。
ならば仮の名を決めなくちゃいけない。どうしようか。お二人に決めてもらおうとお願いしたが、三人頭を悩ましてもすんなりと頭に入るモノは見つからなかった。
もう適当にナナシにでもしよう。そう考えてると景色が突然変わった。
一色の黒に窓が染まった。視界が薄暗くなる。
「トンネル! 抜けたらすぐですよ」
サエさんと仁助さんは風呂敷に蜜柑をせっせと詰めてくれた。私も手伝いながらふとトンネルの風景に目を向けると私達の姿が映っていた。
年季の入った皺が刻まれた老夫婦。そして……
墨で塗りつぶされたように真っ黒な顔を持つ男。私だった。
驚いて声も出せない。手で顔に触れたがちゃんと目も鼻も口もある。だが窓に映る私は明らかに顔が黒に塗られていた。
仁助さんは私の様子に察したのか、肩をポンと叩いた。
「さっきまでお兄さんは姿すらぼんやりしてたんじゃよ。そのまま消えて無くなりそうでな」
「だからつい声を掛けたんですよ」
蜜柑を食べている内にこの姿になっていったらしい。随分と甘さがある肉体を得たものだ。多分違うだろうが。
しかしなれば私は人間では無かったのだろう。幽霊みたいな存在だったのかしら? では私はすでに……まあ、気にしてもしょうがない。
今はこの墨で塗りたくった顔で満足するしかない。蜜柑は味わえたし景色も見える。表情が分からないだけだ。
ふむ、やっぱり不安が湧かない。この先どうなるか分からないのに恐怖も感じない。
何だ、結構良い身体を得たじゃないか。なら良しとしよう。
ああ、そうだ……この身体にぴったりの名前を思い付いた。
その名前を言うとサエさんは困ったように笑った。
「墨顔……ですか。確かに、まあそうでしょうが」
「いやいや。良い名前じゃないか。墨顔さん。これほど体を表した名前は無い! ハ、ハ、ハ」
墨顔。うん、私の名前だ。妙にしっくりきたからこれからもそう名乗ろう。
くぐもった振動音が徐々に鮮明になっていく。やがて窓の向こうから光が差し込んでトンネルを抜けた。
おお……!
あちこちに煙が立ち上っている。遠目から見てもそこには数え切れない店が密集していて、赤い提灯が乱立していた。
街灯のランプの下、人影は忙しなく動いていた。賑わっている、というより雑然としている。
賑わっているのには間違いない。
街がどんどん近づいていく。
列車は金属音を鳴らしてゆっくりと速度を下げる。私は蜜柑を詰めた袋を手にして立ち上がった。
二人に頭を下げた。お元気で。
「ではまた」
「無理は駄目ですよ」
きっといつか針杉山に行きます。そしてこの恩は必ず返します。そう言うと酒だけ持ってきてくれたら十分とサエさんが。
では美味い酒を。ホームに着いて列車が停まる。
夕陽が車内に満ちた。私の影法師は停留所に降りていった。そのまま列車が去るまで私は手を振っていた。
風が吹く。息を吐くと白い。
さて、と。無賃乗車だ。許してくれるだろうか。蜜柑が賄賂になりますように。
尚、なった。