階段を降りて玄関へ向かうと一角が外で待っていた。夕顔とみつはここでお別れ。また明日と手を振る。
「おう、悪いなぁ。置いてっちまって」
別にいいさ。姐さんとはあそこの屋敷で会うのかね? 結構な道のりだ。
「いんや、すぐ近くだ。河岸につるさんが屋台を出してる。そこで待ってんだ」
屋台か。過度にもてなされても気疲れするだけだから気楽で有難い。
旧遊郭は坂の街だ。豆粒程の大きさに見える頂上にある屋敷まで歩くのは嫌になる。無造作に組み建てられた遊郭は複雑に絡み合い、迷路と化す。
坂路の途中に建物が塞いでいると思えば、その下をくぐり抜ける事が出来たりと地図があれば破り捨てたくなる程の混沌さ。
一言で言えばごちゃごちゃしている。頭上には幾重もの糸が張られ、その上を子供達が飛び回っているのを見てこの街の正しい歩き方を知る。
「こっちが近道なんだ。そんな睨むなよ」
見えないのによく気付く。靴を履いていて良かったと思う。
小坂を二つ、三つ登ると視界が開く。流れる水の音。細い川が上から下へ静かに落ちていく。河岸に一つ、屋台があり。目的地にどうやら着いたよう。赤提灯には平仮名でうどん、と。
一角が手を振って屋台の方へ駆け寄る。私は一旦立ち止まって辺りを見回す。この辺りはどうにも異質に感じる。
川の音しか聞こえない。樹々の囀りも鳴りを潜め、街も沈黙を初める。振り返るとそこには建物も無く、暗闇が延々と続いていた。
いつの間にか違う領域に足を踏み込んでいた。似た感覚を知っている。伊雲屋へ続く小路。無感情に漂う闇が辺りを覆い、包んでいた。
「おぅい、こっちだ。墨顔」
声に呼ばれて足を動かす。屋台には一角ともう二人。
つると呼ばれた妙齢の女性とベンチに座る老齢の女性。この眠そうな顔をした老嬢が姐さんなのだろう。私は名前を名乗る。墨顔と。
「待ってたよ。あたしがここの長さ。座りな。つる、酒を」
「はいな」
ボソリと呟く姐さんの声が不思議と頭に響く。つるさんに手酌をしてもらい、乾杯を皮切りに杯を鳴らす。
とろみがある生酒。飲みやすいのがいけない。喉に通る感覚さえ麻痺していきそう。そんな酒を一角達は気にせず大盃へ注いでは流し込む。
私は降参とばかりに猪口を置く。つるさんも心得ているのか直ぐにうどんを手渡してくれた。汁は味噌を水で煮詰めた垂れ味噌。上には煎った胡麻と大葉。コシの入った太麺がやたら美味い。
「みつが世話になった。無事で帰れたのもあんたのお陰さ。欲しいものを言ってみな。満足いくまで叶えてやる」
ではシジの薬売りに一度お会いしたい。お土産を持って帰りたいので。そう言うと姐さんは露骨に顔を顰めた。
「……憎い男だよ。遠目から見てもそうだった。あんたは既に満ち足りている。付け込む隙すら埋まっちまった」
怖い御方。もし隙があったらどうするおつもりで?
「この街があんたを満たすのさ。夢を見させるのはちょいと腕に覚えがあってね」
八つの瞳がちろりと横を見やる。その姿が老嬢の皮を被ってるのは何となく察する。声も容姿も見たままのに、気付いておくれと違和感を発す。
みつと夕顔に彼女の容姿を聞いていた。
「吸い込まれる」、それだけだった。
私はそっと顔を逸らしてその眼から逃れようとするのを一角が茶化してくる。
「墨顔、薬売りの見た目がそれだ。もっと見て覚えておけよ」
これ以上は毒だ。からかうんじゃない。ケラケラと笑う一角を無視する。
ご馳走様。酒もうどんも満足だった。私は羊羹を姐さんに手渡して立ちあがろうとすると肩を掴まれた。
「もうちょい、居ておくれ。人と、呑むのは久々なんだ」
そう言って肩に置いた指をぽんぽんと当てる。これ以上は酔うと怖いが誘われて断る理由は無い。
人、と呼ばれて気持ちが良かったのもある。私は頬杖を付いて微睡むのを楽しむ。あの酒の強さを読み間違えてしまった。
「つる姉さんとその辺を歩いてくる」
一角が席を外す。私と姐さん二人だけに。奇妙な沈黙が間にあるというのに良い酔い心地がする。
喋っていないのに、会話をしているような。姐さんは静かに酒を嗜んでいた。
隣の微かな息遣いが肩に触れる。枝のように細い手が私の腕を包む。ゆっくりと彼女へ顔を向ける。
そこに居たのは十五、六の痩せこけた少女。眼窩の隈は黒ずんで、骨が浮き出た顔に表情は一切無い。
沈み切った瞳は遠くを眺める。頬にはまだ残る痘痕。幼さはあるものの、ひどく草臥れたその姿は見ていて痛ましい。
以前何処かで聞いた噂が頭によぎる。
元は人よ。人が人を蜘蛛にしちまったんだ。そう誰かが言っていた。
姐さんは酒を美味しそうに飲み干して、こちらに笑みを向ける。
「こんなんでもね、客は来たんだ。全部捨てたのにこの不細工は何故か残っちまった」
私は黙ったまま頷いた。手酌をする。それ以上は語ろうとはせず、彼女は話題を変えた。
「墨顔。明日、シジ婆に宿へ行くよう言っておく。好きなだけ土産とやら選びな。全部あたしが持つ。他の店もね」
それは嬉しい。楽しませてもらいます。
「うん。いつまでに帰るんだ?」
明後日にでも。ゆっくり帰りますよ。
「明日も顔が見たい。良いね?」
ええ、喜んで。見えないこんな顔でも良ければどうぞと言うと弱めに肩をつねられた。それからしばらくし、一角達が戻ってきたので席を発つ。
ではまた明日に。つるさんも。
「俺には挨拶もしねえのかい?」
お前が居ないと帰れもしない。案内頼むぞ、一角。
背中をぱんと叩く。うへえと漏れる溜息。随分と酔いが回ってしまった。
街へ戻ると喧騒が聞こえてきた。煌めく万華鏡の中を彷徨っているよう。しばらく歩いていると隣の一角が立ち止まった。
首を捻って言いづらそうに口を動かしている。振り返って立ち止まっていると観念したのかこちらに話しかけてきた。
「姐さんのあの姿は……出来れば内緒にしてくれ。普段は見せねえんだ、誰にも」
分かった、と了承した。もとより言いふらすつもりも無い。
「分かってる。すまん」
一角は気恥ずかしいのか急ぎ足で通りを進んでいく。私は姐さんがあの姿を見せた理由をぼんやりと考えながら彼の後ろに付いていった。
結局はただの気まぐれだろうと納得してその日は宿の布団に倒れた。
良い酒だった。だが、ちと強い。