墨顔夜話   作:葉山 灯

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「切符を」

 

 蜜柑を差し出すと眠そうな眼をした車掌はそれを懐に入れて無言で顎をしゃくった。訳が分からんが私も何故これで通ると思ったのだろう。

 

 駅を出ると炭が弾ける音があちこちに聞こえた。

 

“呑み屋街”

 

 ああ、成る程と合点がいく。小さな屋台が所狭しと並び、多くの人で賑わいを見せている。

 

 とある一角を見る。小鍋に入ったモツの味噌煮込みに三つ目の女はヘベレケになって顔を埋めようとしていた。隣の大柄の男は気にせず湯豆腐を酒のアテにしている。

 

 薄暗い提灯の灯り。喧騒は止まない。どこか危うげな雰囲気を醸しだすここは……確かにそうだ。

 

 酒クズ達の巣窟に違いない。是非とも混じわりたいものだ。

 

 ともあれ先ずは寝床を見つけなくてはならない。そう思って大通りを探そうとしたら、すぐ近くの屋台から私を呼ぶ声がした。

 

「そこの真っ黒顔の兄ちゃん。初めてだろ? こっち来いよ」

 

 六十は超えてそうな白髪の男が手招きしてきた。ベンチに座ってるのだから客なのだろう。しかし店内には彼以外に誰も居なかった。

 

 まあ、とりあえず話だけは聞いてみるか。暖簾をくぐって席に座る。それと同時に男は立ち上がりこう言った。

 

「いらっしぇい」

 

 あんた、店員だったのか。赤ら顔で杯を持つ様子は明らかに客のそれだったのだろう。

 

「赤いののヒレを貰ったんだ。炙って一杯やろう」

 

 男は無造作に七輪へヒレを投げて、二つのお猪口に酒を注いだ。片方を押し付けられ乾杯をしてしまった。一口呑む。酒精が強い。なのに香りがあまりしない。安酒だ。

 

 私は金が無いと言うと蜜柑をくれと強請ってきた。元々それ目当てだったようだ。蜜柑は貨幣なのだろうか? 取り敢えず三つあげた。

 

「で、寝床だっけか? この通りを真っ直ぐ行けば大通りがあって、更にもう一つ先の通りに伊雲屋っつう宿屋がある。飯が美味いと聞くし、そこに行けよ」

 

 高いのだろう? 金は無く蜜柑しか無い。どこか雑魚寝出来る安宿をアタリにしたい。そこの値段を参考にして日雇いの仕事を探そうとしたのだが……。

 

「この蜜柑なら全部出しゃあ一月は固いな。良かったじゃねえか」

 

 ここの蜜柑の価値は一体どうなってるんだ。いくらなんでもおかしい。訝しむ私に男は歯の抜けた口をニヤリと曲げた。

 

 この街には甘味が足りないという。肴もつまみも酒の為なら数え切れない程あるが、こと甘いものを探すとなると数える程しか無いのだと。

 

「俺らは動けねえからヨウ。魚みてえに口開けて餌を待ってんのさ」

 

 男の話にしばらく付き合ったお陰か中々に面白い話が聞けた。炙ったエイヒレを齧り、安酒をあおれば酔いが回る。

 

 もう一つ蜜柑を手渡してその場を後にした。

 

 

 

◻️

 

 

 

 

 大通りと呼ばれた場所は大店がずらりと並び、見上げれば二階、三階の欄干に背中をもたれて酔い潰れてる輩がちらほらと。

 

 その店前には陶器や箸、煙管の羅宇等の品物を扱う露店が通りの端まで並んでいて縁日のように盛り上がっていた。

 

「おうい、汁粉! 汁粉おくれよ」

 

「はる坊! 俺にも一つ! 餅もな!」

 

 清水屋と書かれた大看板の下、一人の少女が寸胴鍋から次々とお椀にお汁粉を注いでいる。その隣で客引きが巧みに客を引っ張るのを見てその手並みに感心した。

 

 大通りを横切り、路地に入ると暗さが増した。一つ通りが違うだけでこうも暗くなるのか。灯籠がぽつぽつとあるだけで道は静かな闇に沈んでいる。

 

 あの喧騒がピタリと止んだ。いや聞こえなくなった。灯籠から漏れる微かな灯りを頼りに歩を進める。

 

 静止した空間はある種の緊張を纏っている為か、心地が良い。風も、人の気配もしない。私の足音だけが耳に響いた。

 

 しばらくすると灯籠が二つ並んであって、そこには明かりが無い古びた建物があった。看板には小さく伊雲屋。ここだろう。

 

 中々の大きさだ。感心して見上げていると、正門がゆっくりと開いて鈴の鳴るような声が聞こえた。

 

「お食事でしょう。お泊まりでしょう」

 

 私は蜜柑で泊まれるか聞いてみた。駄目なら諦めるしかない。しかし反応は予想とは違い、門の端から細い腕が此方に伸びてきた。

 

「お一つをば」

 

 ゾッとする程に白い腕。あまり健康そうには見えん。ともかく蜜柑をその手に置く。

 

 腕はすっと引っ込んで、すぐに返事が来た。

 

「一つで四日。お食べなら二日。はい」

 

 蜜柑一つで四日泊まれる、食事付きなら二日という事で良いのだろうか。確認したらそれで合ってた。やはり蜜柑の扱いが尋常では無い。

 

 悩んだが食事込みで一月の宿泊を望んだ。五つを鞄に仕舞い、残りの蜜柑を風呂敷ごと渡した。

 

 こうして私は寝床を確保出来たのだった。

 

 

 

 

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