伊雲屋の二階へ続く階段を昇り、軋む廊下を歩く。蝋燭を持つ白い手に案内されているが、見えるのは肩から先だけで彼女の姿は見えなかった。
「こちらで」
声に促されて入った部屋は大体十畳の広さで火鉢と布団、あと小さな行燈と木机が。中々に上等で、これで食事も付くなら文句なんて出ない。
「お食べ。もうします?」
私は早速お願いした。蜜柑とエイヒレと安酒しか胃に入れていないのを思い出した。
「風呂はのっぺら坊。大通りから三つ先。屋根は赤い。はい」
風呂は無し、と。了承する。だが今日はもう疲れた。食事が済んだら寝るつもり。
「はい」
そう言って、腕は消えた。私は火鉢に置いてあったマッチを使って火を付けた。それと行燈にも。
本来なら暖を取るのに使うが、この部屋はあの通りと同じく真っ暗な闇に包まれている。
冷気が感じず、指先も悴まない。温度を感じず、ただ心地良い闇がここにあった。その部屋の中心から紅い炭が灯る色。
行燈の仄暗い明るさが部屋に広がる。私は全身の力が抜けていくのを感じた。布団の上に寝転がって、天井を眺める。
食事が届いたのはそれから大体二十分後。障子が開いて、廊下に大きな鍋とお櫃があった。
「酒は今、買います。帰ってきます。もうすぐに」
そう言って腕が消えたので、鍋とお櫃を部屋に入れた。不思議だが鍋本体は熱いのに取手は冷たかった。中には沢山の茸と豆腐。この匂いは味噌か。
火鉢の上に鍋を置いて頂く。飯も温い。この宿は当たりだ。教えてくれたあの男に今度お礼をしに行こうと思った。
酒を呑んで、お腹を満たす。眠気がひどい。布団の中に潜り、うつらうつらと頭が揺れていく内に意識が離れていった。
◻️
目覚めると同時に半身がすうっと起き上がる。部屋は暗く、火鉢の中もまだ炭が弾けている。
私は立ち上がって雨戸を開けた。外は変わらずに暗い。ぽつぽつと灯りがあるだけ。
そういえば歯を磨いていないのを思い出して、水を拝借しようと部屋から出た。
「お出かけで?」
階段を降りると廊下の奥から声がした。歯を磨きたいと言うと洗面台に案内してくれた。
そこにある鏡を見て顎をさすったが、髭が生えてないのに気付く。そう言えば目ヤニも無い。
「変わらないのです。それでも水をお飲みになる。こちらに」
白い手には水の入った桶とコップ。ここは蛇口とかは無いらしい。手間を掛けさせた事を詫びると久しぶりに蜜柑を食べれて凄い嬉しいらしい。
一日、一個。ゆっくり味わって食べられるのも私のお陰と言うので、また今度美味しいものをあげようと思った。腕だけしか見えないが、言動も仕草も可愛らしいのでほっこりする。
鞄にあった歯ブラシで歯を磨いて、顔を洗った。その時に顔を触れてみると髭どころか脂汗すら無かったが気にしない事にした。
二階に戻って支度を済ます。湯屋があるらしいのでそこに行ってみる。
「いってらっしゃいまし」
外へ出て大通りへ。少し歩いて振り返ると彼女はぶんぶんと手を振っていた。私はすっかり伊雲屋を気に入ってしまったようだ。
名前でも聞いてみようか。これから長い付き合いになるのだし。
大通りへ出ると太陽が中央に昇っていた。正午まで眠っていたのかと驚く。夜と比べて人は少なくなったが、賑わいはまだあった。
確か大通りから三つ先だったか。歩を緩めて街並みの様子をのんびりと眺める。急いでいる者はいない。揺蕩う空気。
「火をおくれな」
「はいよ」
煙草を煙管に押し付ける老爺。隣の二足歩行している狸は美味そうに吸ってる。奇妙なのに景色に溶けていた。
ここに来てすぐに街の異様さに気付いた。人ならざる人外の者達が当たり前のように暮らしている。
それは喋る動物であったり、特定の身体の部分があったりなかったり、角が生えていたりとパッと見るだけでもそこら中にいる。
墨顔の私も含めた魑魅魍魎が憚る昼下がり。奇妙で、興味深い場所に来たと実感した。
大通り三つ先、湯気立つ湯屋があちこちと。蒸気籠る古びた家屋が昔の温泉街を思わした。
『なだ湯』と書かれた湯屋に入る。番台に座る男の顔は皮を剥いた玉子みたいだった。のっぺら坊。
入浴料は取らないが浴巾手拭は別、と。蜜柑を一つ差し出すとむんずと掴めるだけの手拭いを差し出してくれた。ちょっと多かったので、指をくわえて見上げてた狐面を被った子供に二つ手渡した。喜んで何より。
◻️
風呂上がり、その辺を散歩する。なだ湯の風呂は広いが熱すぎた。次入る時はぬるめの湯屋を探そう。
手拭いを首に掛けて、風に当たると浴衣が欲しくなる。普段着にしたいので二つ、三つは欲しい。そうなると蜜柑じゃ足りなくなるので、どうしようか。
そう思っていると急に私の目の前に饅頭が現れた。
「ほい。食べなさい」
有無を言わさずに老翁から湯気立つ饅頭を貰った。食べると思ったより甘くない。味噌の風味がぷぅんと匂う。
こりゃ酒が呑みたくなるなぁ。流石は呑み屋街街といった所か。
「気に入ったかい」
ええ。ほんのり甘いのが良い。酒の〆に丁度良い。そう褒めると上機嫌になった翁は店から大きな風呂敷を持ってきて蒸したばかりの饅頭をどんどん詰めていった。
「ほらよ」
断る前に押し付けられてしまった。一応大丈夫なのか尋ねてみたら
「気にすんな」と言うだけ。
まあしょうがない。有り難く貰うとしよう。
この饅頭で浴衣を貰えないだろうか。相当に頭が毒された証拠である。風呂敷から一つ取って口に放り投げた。
うん、酒が呑みたい。