これといったこともない夏のある日   作:カンキツf

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これといったこともない夏のある日

 鎮守府、軽巡寮の一室。うだるような暑さの中で至福の時間を過ごしている者がいた。

 

「えへ〜……うへへ……」

 

 それがエアコンの効いた部屋で緩みきった顔を晒して眠る阿賀野だ。遠征も出撃も訓練もない非番の日である今日はどれだけダラダラしてもあまり文句を言われない。そんな日に立っているだけで汗が噴き出してくる外界の熱から隔離され、惰眠を貪ることは阿賀野にとってこれ以上ない至福であった。しかし……。

 

「…………!」

 

 とある音によって阿賀野は目を瞑ったまま意識が覚醒する。その音の正体は足音。歩きと言うには早すぎる一定のリズムでこの部屋に近づいてくる者が居る。

 

「…………」

 

 阿賀野の身体に緊張が走る。何故なら阿賀野はこの人物をよく知っているからだ。それが何の前触れもなく部屋に来るときは決まって阿賀野の平穏の時間が終わりを告げるからである。

 

「阿賀野ー。いるー?」

 

 ドアのノック音と同時に聴こえてくるその声に阿賀野の身体にズンッと何か重たいものがのしかかったような感覚になる。それもそうだろう、その人物はこんな暑さの中でもトレーニングと称して外を走り回れるようなバイタリティの持ち主で、しばしば阿賀野を自分のトレーニングに半ば無理矢理付き合わせることもあるのだ。

 

「はあ……」

 

 短いため息をつくと阿賀野は起き上がり、ドアノブに手をかけ、一呼吸置いた後に勢いよく扉を開ける。

 

「プール掃除しない? プール掃除!」

「長良さん! 今日は阿賀野休みだから付き合いませ……プール掃除?」

「うん!」

 

 そう言って掃除用具を見せつける長良に阿賀野は呆気にとられていた。

 

 

 

 灼熱の太陽光線が降り注ぐ、水の張っていないプールの中。裾を結んだ白のTシャツに黒の短パン姿の長良と阿賀野が立っていた。

 

「暑い〜……」

 

 持っているデッキブラシに項垂れかかるようにして阿賀野がぼやく。すると阿賀野の足元にバシャバシャと水音が響き始める。

 

「冷た! ちょっとなんなんですか長良さん!」

「暑いっていうから」

 

 水音の元は長良が手に持っているホースだった。ホースから流れ落ちる水が阿賀野の足元を濡らしていく。

 

「いきなりはやめてくださいよ。びっくりします」

「あ、ごめん。嫌だった?」

「嫌だなんて一言も言ってないですよ。このままお願いします」

「あ、そう……」

 

 引き続き長良は阿賀野の足元にホースで水をかけ続ける。

 

(あ〜……冷たくって気持ちいい〜……)

 

 阿賀野はそれを堪能しているようで時折足の指を動かしてまるで水を掴もうとするような動きまでしている。よっぽど気に入っているらしい。

 

「長良さん右足にもお願いします」

「…………」

「あ、今度は左にも」

「…………」

「勢い強くしてもらえます?」

「…………」

「あ、膝下が水滴でむず痒いのでそこもお願いします」

「…………」

「足裏にもお願いします〜」

「…………」

 

 そう言って足裏を突き出してくる阿賀野。長良はそれを少し眺め後にホースの先をクニャリと曲げる。そしてそれを阿賀野の首から上へと向ける。

 

「うわっ!? 何するんですか!!」

「遊んでないで早く掃除するよ」

「え〜……理不尽……」

 

 急に水をかけられ髪の先から水滴を垂らしつつ不満を漏らす阿賀野のことなど意にもかさず、長良はプールに水を巻くのだった。

 

 

 

 ジャッジャッと音を立てて、プールの底をデッキブラシで擦る阿賀野。擦る度に洗剤の混じった水が小さな波を作って汚れと一緒に押し出されていく。掃除は順調だった。しかし、阿賀野の中には一つの疑問があった。

 

「ねえ長良さん……一つ気になることがあるんですけど……」

「……なに?」

「何で阿賀野と長良さんの2人しかいないんですか……?」

 

 そう、今プールの中には長良と阿賀野の二人しかおらず、誰かが来るどころかプールの周りには人の気配もない。

 

「2人だけってちょっと大変じゃないですか? もう少し人が居ても……」

「……いや……ほら……声かけたけどみんな用事があるみたいで……」

「そうなんですか?」

「うん、それで困ってたんだけど『そうだ!阿賀野なら特に予定も無くぜっっっったい部屋でゴロゴロしてる!』って思って誘ったの!」

「…………」

 

 長良の言い方に阿賀野は何か言いたそうな表情をしているが、長良の言う通りなので何も言うことができない。

 

「休みの日に休んで何が悪いんですか……」

「ゴロゴロしてるだけなのも逆に疲れ取れないよ?」

「取れますー。阿賀野は取れるんですー。長良さんと一緒にしないでください」

「それにエアコンの風にずっと当たってるのは身体に良くない」

「おばあちゃんみたいなこと言ってますね長良さん」

「えっ……」

 

 予想外の一言に面食らい手が止まる長良だが阿賀野はそんな長良に目もくれずにプールを擦っていた。

 

「あっ、洗剤無くなっちゃった。長良さん替えの洗剤ってあります?」

「あるよ。取ってくる」

 

 そう言って長良は小走りで自分達がいる方向とはほぼ反対の位置にある洗剤を取りに向かう。

 

「ほら、新しいの」

「ありがとうございます」

 

 替えの洗剤を持って小走りで戻ってきた長良。そのまま阿賀野に手渡そうとした瞬間だった。

 

「うわっ!?」

 

 洗剤の混じった水の上を走ったせいか、長良は足を滑らせて尻餅をついてしまう。

 

「いった〜……こけちゃった……」

 

 強打した臀部をさすり、長良が立ち上がると阿賀野の前に洗剤を突き出す。

 

「はい阿賀野。新しいの」

 

 しかし、阿賀野は無言のまま長良を見つめるだけで洗剤を受け取ろうとしない。それどころか微動だにせずにただ突っ立っている。

 

「……阿賀野? どうしたの?」

 

 そんな阿賀野を不審に思ったのか長良は阿賀野に心配するような声色で話しかける。

 

「ふっ……」

「?」

 

 すると、まるで空気が抜けるような声を出して阿賀野の口角が上がる。それを見て初めて長良は阿賀野が笑ったのだと分かった。

 

「あっはははははは!! はは!! あははははは!!!」

「えっ、なに? なにがおかしいの!?」

 

 急に大声で笑い出す阿賀野に長良はただただ困惑する。

 

「だって……!! 長良さんステーンって!! すっごい綺麗に転ぶんですもん!!! もうおっかしい〜〜〜!!! あははははは!!!」

「ええ!? なに!? そんなにおかしかった!?」

 

 どうやら阿賀野は長良の尻餅がツボに入ったらしく、腹を押さえて大笑いをする。しかし、当人の長良は阿賀野が何故笑っているのか理解出来ずに困惑する。

 

「あはははは!! ごめんなさいちょっと……!! お腹痛い!! も〜笑わせないでくださいよ長良さ〜ん!! あはははは!!!」

「ふふっ……も〜……なんなの……」

 

 笑い過ぎた阿賀野がバンバンとプールの底を叩く度に溜まっていた水が弾け水飛沫を上げる。そんな阿賀野に釣られ笑いをしつつうんざりしたような言葉を言う長良。その口角は上がっていた。

 阿賀野の笑いが完全に落ち着くまで数分かかった。

 

 

 

「ねえ長良さん……。さっきの転んだやつ……何がそんなにおかしかったんでしょうね……」

「あんなに笑ってたのに!!?」

 

 阿賀野の笑いが落ち着き、掃除を再開して完全に冷静になった阿賀野がプールをブラシで擦り手を止めずにそんなことを漏らす。その阿賀野の言葉に長良はここ最近で一番驚愕したのであった。

 

 

 

「これで大体終わりかな」

「疲れた〜……」

 

 長良が擦る手を止め、そう宣言すると阿賀野も手を止めブラシをまるで杖のようにして項垂れかかる。長良の驚愕から十数分後、あらかた掃除が終わったようだ。長良はホースで水を撒き始める。

 

「汗びっちょりになっちゃいましたよ〜……」

「あ〜、ということは体温が上がって身体が火照ってるわけだ」

「……? はい……まあ……そうですけど……」

 

 普段ならまず言わないような長良の言い回しに阿賀野は不信がりつつも返事をする。

 

「身体が熱いなら冷やさないとね」

「……はい」

「あと汗も流さないとだね」

「……はい」

「ちょうどぴったりなのが今手元にあるよね」

「長良さんそれって……」

「ふふん」

 

 そう笑って長良は手に持っているホースをわざとらしく振るとバシャンバシャンと水音が鳴る。その長良の行為を見て、阿賀野はもう理解していた。

 

「隙あり!」

「うわっ!? やりましたね〜長良さん!」

 

 長良がホースを阿賀野へ向ける。冷たい水が阿賀野の体温を冷やし汗を洗い流していく。しかし先程と違い、阿賀野がニヤリと笑うとちょうどもう一つあったホースを手に取る。

 

「お返し!」

「うわ冷たい! このお〜お返しのお返し!」

「きゃ!冷たい!」

 

 お互いにホースを持ち、冷水を掛け合う長良と阿賀野。弾ける水飛沫の中、二人は笑顔を浮かべてこの遊びを楽しんでいた。

 

「いや〜……。盛り上がりましたね〜」

「ほんとだね〜……。水遊びでこんなに盛り上がったのいつ以来だろう……」

 

 しばらくして、長良と阿賀野はプールの底で仰向けに寝そべっていた。二人とも全身びしょ濡れになっていたがその表情はとても清々しく、満足気だった。普段ならうんざりするような太陽の光も今は心地いいとさえ思える。

 

「でもお互いの耳と鼻に水が入ったときは盛り下がりましたね〜」

「盛り下がったね〜あれは、一気に盛り下がったよね〜」

「冷えましたよね〜」

「嫌な冷え方だったね〜」

 

 心地よい太陽の光を浴び、居心地の悪い記憶を二人は掘り起こし朗らかに笑う。どうやらもう気にしていないようだ。

 

「でもその後盛り返しましたよね〜」

「盛り返したね〜。あの時が1番盛り上がってたんじゃない?」

「盛り上がりましたね〜。楽しかったな〜」

「楽しかったね〜」

「でもそのせいでまた掃除しないとなんですけどね……」

「…………」

 

 ハシャギすぎた二人はプールを再び水濡れにしてしまっていた。

 

「それで掃除しても屋内プールありますもんね……」

「そうだけど……」

 

 鎮守府の拡大に伴って作られた屋内プールによって訓練等は主にそちらで行われるようになり、今の屋外プールは夏のレジャーの側面が強くなっているのだった。

 

「とにかく! 今やることは掃除終わらせることだから! 早くやろ!」

「は〜い……」

 

 勢いよく立ち上がる長良とゆっくりと起き上がる阿賀野。二人はブラシを握り、再びプール掃除に勤しむのだった。

 

 

「……そういえば今何時ですか?」

「……そろそろお昼かな」

 

 阿賀野の問いかけに長良はブラシを擦る手を一旦止め、スマホを取り出して確認する。

 

「そっか〜……もうそんな時間なんですね〜……」

「そうだね。掃除も大体終わったし、そろそろ上がろっか」

 

 そう言って長良が立ち上がり、散乱したブラシとホースを片付けようとする。そんな長良にブラシに寄りかかっている阿賀野が声をかける。

 

「……ねえ長良さん。午後って空いてますか?」

「空いてるけど……。なんか用事?」

「付き合って欲しいところがあるんですけど……」

「付き合って欲しいところ?」

「えへへ〜……」

 

 長良が首を傾げて阿賀野の言葉を繰り返す。阿賀野は首だけ動かして長良の方を向くと悪戯っぽく笑うのだった。

 

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