湿った土の匂いを僅かに孕んだ風が、頬を撫で流れていく。
ぱしゃりと踏んだ水たまりが水音を立て、跳ねた水に反応した名も知らぬ小さな虫が逃げていった。
あれからカレルは、それなりの時間をかけて実験を済ませた。
今の自分に何ができるか──魔法や
また、装備している武装、防具や所持アイテムから身体能力まで、逐一実験し把握を繰り返す。
周囲に大きな影響を及ぼす魔法や攻撃的な
結果として多くのことが分かったが、同時に多くの困惑と疑問を浮上させた。
まず、魔法、
コンソールに頼ることなく、実際に使おうと意識するだけで発動できる。まるで手で物を持ち、歩いたりするような自然さで、初めからそうだったかのように。詳細な設定も同様に意識するだけで脳裏に浮かぶ。威力、効果範囲、射程距離からリキャストタイムに至るまで。
手持ちの武装や防具もユグドラシルと大きな差は見られない。移動速度の上昇や感覚鋭敏化などといった、装備時と非装備時の差も、ユグドラシルの時とそのままだった。
所持アイテムやアイテムショートカット機能も多少の差異はあったが問題はない。ユグドラシルでは視界に現れたメニューなどから選択し使用していたアイテムは、それを思い起こしながら虚空に手を突っ込むような雑さで取り出せる。所持している物ならば、突っ込んだ状態で意識すれば手元にやってくる分利便性は増しているとも言える。
むしろ問題なのは、身体能力の方だ。
あまりにも身体能力が高過ぎるのだ。いや高いのは問題ではない。驚くほどの膂力や速度を発することができるというのに、自分の意識はこれが当然で、当たり前だと訴えている。カレルのリアルの身体は、四、五メートルの長さを軽々とジャンプできないし、当然壁を垂直に走ったり空中で姿勢を変えながら刀を振り回すなんてことはできない。
だが、この身体はできるのだ。リアルの身体なんてなかったと言うように、ずっと前からこうだったじゃないかと、そうカレルに訴えている。
五感もまた鋭敏になっている。特に顕著なのが視覚や聴覚だった。近眼気味でさほど視力が良いわけではなかったカレルだが、純粋な視力だけでなく、空間認識能力や動体視力も上がっているようだった。
これには思い当たる節があった。ビルド構成の関係で取得していた
崖底の薄闇も、〈
多くの実験と観察を経て、ひとまずの安堵を得ることができた。
カレルは所謂ガチ勢である。ユグドラシルでは、PVEならともかくPVPにおいては生半可なプレイヤーなど一蹴できる実力をもっているつもりだ。最終日までログインを続けていたトップランカーの実力は伊達ではない。
全身を
命を削るような戦闘に対する欲求は確かにある。だが、自分の命の保証だけは何よりも優先すべき事項なのだから。
どこもかしこも、露出した岩ばかりだった。まるで生き物がいる気配が感じられない場所だが、それでもここを歩くしかない。
切り立った崖や巨大な地割れの底の様な場所は、寒々としているが同時にどこか静謐とした雰囲気を醸し出している。
地表までは数十メートル。高く見積もっても一〇〇メートルもないだろう。目を凝らしてみれば地表付近は土や木の根が生い茂り、生態系はこちらと比べ遥かに豊かそうだ。
〈
現在カレルのいる崖の底には、人の気配がある。いや、あったというべきか。どうにもここは鉱脈かなにかに通じているらしく、それなりの人数が通った痕や、崩れてきそうな危うい岩壁を補強した後が散見された。
まずはこの道に沿って行くべきだとカレルは結論付けていた。
最も確実かつ効率的な情報収集は、他者に接触し情報を交換することだ。一人でやれることは限られる。今のカレルは異世界に一人放り出されたも同然だった。
いや、事実その通りなのだと、カレルは自分に言い聞かせる。希望的観測は己を殺す。僅かな慰めに縋って愚かな選択をするつもりはなかった。多少悲観的になってでも、最悪の状況は想定すべきだろう。精神的な予防線を張る意味でも、そちらの方がよほど良い。
それに、出会った他者が己に友好的な存在とは限らない。同じような境遇のプレイヤーならまだ救いはあるが、現状で同等の実力の存在に襲撃される事態は避けたいのが本音だった。
だから、なるべく目立たないように歩くのだ。
やましいものがあると誤解されかねない隠蔽系の
最低限、周囲を警戒できるだけの眷属を召喚し、散らせる。その後ろ姿を見送ると、歩き始めた。
× × ×
あれから一週間ほどの間を、カレルは山を彷徨っていた。
始めこそまるで感じられない人の気配に焦りもしたものだが、今では気を長くして探索を続けてみようという気になっていた。
というのも、カレルですら忘れていたはずの設定を、図らずも実験していたからだ。
カレルは異形種である。中でもアンデッド系に属する種族──〈
もちろん肉の体を持っている以上、やろうと思えば飲食も睡眠もできる。ユグドラシル内では大したことだと思ってはいなかったが、ここでは随分便利な身体になったものだと内心それなりに喜んでいた。
アンデッド系の異形種である以上、もちろん様々な制約があったり、メリットに反しデメリットもある。それは神聖属性攻撃に対する脆弱性であったり、日光下での活動に対するペナルティであったりするものだ。しかし、カレルの種族は〈
設定上ユグドラシルでの最高位の神格を得ている神祖カインアベルの後継とされるこの種族は、それらの脆弱性に対する耐性を得ていた。つまり、神聖属性はともかく、日光はカレルの弱点足り得ない。
道は崖底を抜け、山道に入っていた。
どうやらここは巨大な山脈の中であるらしく、幾つもの山々が重なって複雑な地形を作り出しているらしかった。少し歩くだけで驚くほど景色が様変わりし、渓谷や滝壺、高原のような地形も散見された。
それらの景色に心躍らせながら、ときたまあるモンスターの襲撃を尽く撃退し、道無き道を歩み続けた。
この山脈一帯のモンスターたちは、自分の敵ではない。いや、より正確に言えばあまりに適正レベルが低過ぎる──そうカレルは判断していた。
鎧袖一触だ。腰の刀を抜くまでもない。拳や脚で、あるいは
山道を歩いていった先で、カレルは
思わず、うげ、と面倒臭そうな声が漏れる。
爪と体毛、発達した鼻を持つ二足歩行のモグラにも似た亜人。
既にこの種族とは何度か遭遇しており、それらすべてを討伐していた。はじめのうちは、この山脈内で出会った数少ない知的生命体であり、友好的ならずとも会話や情報交換程度は出来ると思っていたのだが、返ってきたのは敵意と殺意のみ。それからは
ざっと見たところ
だからか、
「何者だ! ここは我らの領域である。疾く立ち去れ!」
「ああ、うん」
カレルはその恫喝に対する返答に窮し、なんとも曖昧な声を上げた。
今来た道を引き返すつもりはない。突き進めば阻むだろう。よしんばそれに従って戻ろうとしたところで、振り返った瞬間に襲いかかってくるのは自明の理だ。そのやり取りは既に経験していた。
「こちらに敵対の意思はないし、とりあえずそこを通してくれるだけでいいんだが……」
「世迷言を! ここは封鎖している。それになんだ貴様は。妙に細いが、
「いや、知らんが」
要領を得ない指揮官と思しき
どうせ戦闘になるんだろうと思いながら、問答の隙に囲むようににじり寄ってきた数匹の
「お前らの他に
「なんだと、貴様ァッ…………やれッ!」
少し煽っただけでこれである。それにカレルもここ数日、言いがかりをつけては襲いかかってくる
丁度良い機会だ。何匹か残して全滅させれば、そうそう襲ってこなくなるだろう。
まずはその愚にもつかない慢心を奪い取る。
カレルは腰の刀の柄に手をかけた。
×××
〈不可視化〉の効果が付与された茶色のマントで身を包みながら、脅威が去るのを身を潜めてじっと待つ。この一ヶ月でそれを何度繰り返したか、ゴンドはもう覚えてはいなかったが──それにも終わりが近づいているのは理解できていた。
ゴンドは内心で畜生め、と吐き捨てる。
彼が身を潜める岩陰の外には、全身を硬質な毛皮で覆った獣人たちが闊歩している。長く発達した鼻に退化した小さな目と、頑強で鋭い爪を持つこの獣人は
それが、実に三〇匹。
一匹二匹ならばまだやり過ごしようもある。五、六匹と徒党を組んでいたとしても、上手く地理を味方に付けられれば撒ける可能性もあった。だが、三〇匹という数はどうしようもない。
ゴンドの身長は一三〇センチという
(おい、ゼンベル。いくらなんでも狭過ぎるわい。もう少し詰められんのか)
ゴンドは可能な限り声を潜めて、囁くように隣に文句を垂れた。
ゴンドの隣では、ワニのような硬い鱗に覆われた表皮と、筋骨隆々とした体躯を備えた
(詰めるったって、これ以上はどうしようもねえよ。畜生、尖った岩があっちこっちに当たって痛えったらありゃしねえ)
そう憤然と反論するゼンベルと呼ばれた
ずんぐりとした体躯をしている
それが狭い岩陰に、二人揃って身を押し込めているのだから、その窮屈さ加減はまさに筆舌に尽くしがたい。
今でもゴンドの靴の爪先や、ゼンベルの尻尾が〈不可視化〉のマントの端からチラチラとはみ出ている有様である。
空は厚い雲に覆われ、どんよりとした曇り空。
たまに雲の隙間から日光が差し込む程度では、
むしろ、この天気が更に悪化して雨でも降り出してくれれば、ゴンドやゼンベルの気配を覆い隠してくれるかもしれない。湿った土の匂いに紛れれば
そうだ。きっとそうに違いない。そうだといいな。
益体もない妄想に耽りながら、ゴンドは空を見上げて内心で願った。雨よ来い。なるべく早く。そして
(のうゼンベル。お主のその腕はもうちょいなんとかならんのか。それを削って細くしてくれれば多少は楽にもなるんじゃが)
(馬鹿言ってんじゃねえよ。お前こそ、そのたるんだ腹をなんとかしろ。俺は止めたのによ、最近酒を飲み過ぎたんだ。どうにかして引っ込ませてみやがれ)
ゼンベルの腕──右腕は、果てなき鍛錬の末に鍛え上げられ、異常なほどに太く膨れ上がっていた。左右の腕のアンバランスさはまるでシオマネキのようであり、二回り近い差がある。
その豪腕から繰り出される拳の重さは想像に難くない。それこそ
だが、それも
金属武器に対する強力な斬撃耐性を誇るその体毛は、己の拳をこそ恃みとするゼンベルには相性のいい相手だ。しかし、末端の個体数匹程度なら容易く蹴散らせるゼンベルにとっても、上位種にして部隊長クラスの戦闘力は侮り難く、下位種に比べれば相応の苦戦を強いられることになるだろう。
ゴンドたちは岩陰に隠れる寸前、
殆どが焦げ茶や黒だったが、青みがかった毛の個体が一匹、ほぼ間違いなくリーダーとして
そして
警戒心も露わに近付いてくる姿をマント越しに見て、遂にこの時が来たかとゴンドは観念した。
(ああ、儂の人生もここで終わりか。親父、出涸らしみたいな情けない息子で済まんかったなあ)
観念した様子のゴンドをなんとも言えない表情で見下ろしていたゼンベルは、一つ小さな溜息をついたあと覚悟を決めた表情で口を開く。
(ゴンド。俺が飛び出して足止めをするから、その間にマントを被ってさっさと逃げろ。フェオ・ライゾまで逃げ込めばこいつらも追っては来ないだろ)
(なんじゃと? ゼンベル、お主一体何を……)
信じられない様子で反駁するゴンドに、ゼンベルは獰猛な笑みを向けた。
(なあに、お前が逃げたら俺もなんとかこいつらを振り切ってやるさ。それが駄目で死んでも、そしたらそこまでのオスだったってだけよ)
(お主……)
(三、二、一でまずこいつをやる。そしたら走れ、いいな)
有無を言わせぬ口調でそう断じてから、ゼンベルは絶望のカウントを開始した。
(……三)
思わず、拳に力が入る。
この個体に不意を打って首尾良く頭部を殴り潰したとして、他の個体もすぐその音に気がつくだろう。集まって来られる前に、近場の
(……二)
ゴンドが上手く逃げおおせる為にも、点在する露出した岩や木々、茂みを使ったゲリラ戦は使えない。戦闘力のないゴンドは
ある程度離れるまで、この数の
(……一……!)
いざ飛び出さんと拳を握りしめたその瞬間、その場に響いた断末魔の絶叫に、ゼンベルは動きを硬直させた。
状況を理解できない二人は顔を見合わせたあと、恐る恐る岩陰から顔を出して覗き込んだ。
「な、なんじゃ……こりゃ一体……」
「おいおい……」
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
数十匹にも及ぶ
黒い刀を携えた黒髪の男が、群がる
「体毛の硬い奴は前に出ろ! 剣を振らせるな! 一斉に畳み掛けるんだ!」
青みがかった体毛をした
相手が如何な武人とはいえ、金属耐性を持つ
男を囲んだ
飛沫の如く虚空に散った幾つもの剣光が、振るわれる爪に先んじて
まさに瞬くほどの間に、男に飛びかかった
「ばっ……ば、馬鹿な……」
指揮していた隊長格と思しき青い個体が、喘ぐような吐気を吐く。
たったの十数秒の間に
完全に及び腰となった
「ひ──ひィッ!」
視線を向けられた隊長格が、その眼に射竦められ喉が引き攣ったかのような悲鳴を上げる。
まるで格が違う──猫と虎、月と鼈、そんな表現すら烏滸がましい。互いの実力差はさながら天地の如く隔絶していた。
勝てない。あんな化け物に勝てるはずがない。
あの無機質な殺意が恐ろしい──そう恐怖に耐えかねてくるりと背を向けて逃げようとしたその瞬間に、隊長の首は宙を舞っていた。
優に一〇メートルはあった距離を、無造作に、そして一息に詰めた男が、黒刀で首を斬り飛ばしたのである。恐怖と絶望に引き攣った表情の首が血の跡を引きながら地面を転がり、数メートルの距離を走った胴体は思い出したかのようにつんのめって倒れた。
「い、嫌だァッ……!」
「死にたくないィィ……ッ!」
隊長を失った
その哀れみすら誘う光景を男は無感情に一瞥すると、隊長が逃げようとした方向に顎をしゃくった。
情けない悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げ散っていく
ぱんぱんと服についた埃を払うと、振り向いておもむろに口を開く。
「そこの岩陰に隠れてる二人」
「「──!」」
バレている。
〈不可視化〉のマントなど関係ないとばかりに、男はゴンドとゼンベルの二人を察知している。
どうする──そう二人で目配せするが、答えはすぐに出た。さっきの戦闘を目の当たりにしてなお挑むような愚かさは二人は持ち合わせてはいない。荷物全てを放って逃げ出したところで、数歩も経たないうちに追いつかれるだろう。ならば、大人しく出ていくしかない。
この際、命以外なら全てを差し出すつもりだった。
だから、岩陰から出ようとした瞬間に放たれた言葉に、二人は毒気を抜かれてしまったのだ。
「ああ、その──こちらに敵意はありません。できれば出てきてくれませんか」
「「…………えっ?」」