やにわに降り出した雨の中、カレルたちはぬかるみを蹴って疾駆していた。
山の天気は移ろいやすいとは聞いたことがあったが、曇天模様に差し掛かる程度の雲量だった空は瞬く間に厚い雲に覆われ、小粒な雨をしとしとと降らせている。
雨に湿った土の匂いが鼻につく。
これならば多少は
「もう見えるか!?」
「も、もうすぐじゃ! そこの岩陰に──」
日中のほとんどを強行軍として移動に費したため、フェオ・ライゾまでもうすぐというところまて差し掛かっていた。
先頭をカレル、続いてゴンドを担いだゼンベルが追い縋る。
速度はゼンベルに合わせて落としてあるものの、ゼンベルとて決して鈍足というわけではない。ゴンドを担いでいるとはいえゼンベルは見た目通りの怪力、同時にその巨躯からなる歩幅は大きく、平均的な大人よりずっと速い。
更には雨によって地面がぬかるんだことで、人間にとっては走りづらいがむしろ
不憫なのはゼンベルの肩の上で盛大に揺すられるゴンドだったが、こればかりは耐えてもらうしかない。
「──あれか!」
目印と思しき岩を回り込むと、巧妙だが、遠目にそれと判別できるような地上砦が見えて来た。
太く頑丈な木材を惜しみなく使用したのだろうその砦は、年月を感じさせつつも至る所に補修痕があり、風格と頑健さを些かも衰えさせてはいない。
──が。
「畜生! やっぱりか!」
追いついてきたゼンベルが肩で息を吐きながら悪態をついた。
もうすぐ陽が落ちるのだろう、オレンジ色の差し始めた中で瞬く赤。
それだけではない。門から逃げ散る
武装した明らかに兵士と思われる
そもそもが
平野で
遠目からでも
「──なんてこった! 外にも
「中はもう
「フェオ・ジュラまで一人でも多く逃がせ! 儂等は
先に門を出ていた部隊と異なり、こちらは辛うじて統制を保っているようだった。襲いかかる
だが、傍目に見てもこの都市がもう駄目だということはわかった。
砕かれた門、内と外からの挟撃、雨に降られてもなお消えることない火の手。
一旦都市を脱出して再起を図る、などといった風態ではない、着の身着のままの遁走、否潰走であった。
「ゴンド、どうする?」
「……えっ?」
呆然としていたゴンドはカレルの静かな声に反応し、見上げてくる。
青褪めていた顔は今は土気色にまで変わっており、髭に埋もれた唇はわなないている。
「今背を向ければ逃げられる。巡回中の
「おう」
カレルの意図するところに気付いたのか、ゼンベルも神妙な面持ちで頷いた。
「俺は護衛だ。あんたの決定に従う」
ゴンドの肩が危うく震える。
祖父や父に似ず才能がないと、馬鹿にされたことがあった。新しい技術にとって変わられ先の見えないルーン工匠たちと愚痴りあったりもした。酒代と工具代を稼ぐためにトンネルドクターの真似事をし、仕事終わりには馬鹿騒ぎをしながら潰れるまで酒を煽ったこともあった。
あれはあれで、ゴンドの居場所だったのだ。
才能がなかったのはゴンドの責任だ。それで燻っていたのも同様に。それで誰かに当たるつもりはない──〈フェオ・ライゾ〉の
手足が震える。動悸が激しくなる。
ゼンベルが護衛についたとして、カレルが
都市内から脱出した
それでも。
「頼む、儂の仲間を──同胞を、助けて欲しい……!」
拳を握りしめて、首を垂れる。
ゼンベルとカレルの顔は見えず、しかし答えは明瞭で、簡潔だった。
「よし、任せろ」
「ま、今更だわな」
手のひらに拳を打ちつけたゼンベルが首を鳴らしながら応えた。
見上げれば戦意充溢し、すでに臨戦態勢に入っている。
「
ゼンベルも
種族は違えど、既に彼らはゼンベルにとって同朋だった。
「──決まりだな。
まずは門扉周辺の最も大きい
カレルの言に否やはない。
ゼンベルとゴンドは覚悟を決めた表情で深く頷くと、都市へ向かって駆け出した。
×××
カレルはこの世界に来て、魔境と呼ばれるアゼルリシア山脈を見聞し、ゴンドとゼンベルに出会い──一つの枷を己に課していた。
それは、非常時を除き全力を出さない。この一言に尽きる。
カレルは既に、己の持つ力がこの世界にとって異質で、異常であると理解していた。
だってそうなのだ。
ゴンド曰く、このアゼルリシア山脈は人間の冒険者がうっかり迷い込んだら生きて帰れない場所なのだと。ゼンベル曰く、お前は身体能力だけでなく、技術的にも最高峰だと。山脈で一定の勢力を確保している
だから、手を貸すのは限定的だ。自分の命の危機か、余程心を許した相手の為でなければ、本気の力を振るうことはない。
場に不相応な力を振るって、この世界の本当の強者を刺激することはない。
(悪いな……ゴンド)
本気を出せば、
それこそ防衛戦なら幾分取りこぼしも出るし、味方に被害も出る。全力でも被害はゼロにはできない。
カレルは範囲殲滅できる
身体能力は大体三〇レベルまで、場合によっては五〇レベル程度まで抑える。本気を出すのは必要に駆られた時だけだ。
カレルは私情によって助けられたはずの
×××
「それで、状況はどうなっている?」
毛皮の中に僅かに赤みのかかかった体格の良い
「──は。現在
「ふむ……」
部下からの報告に、赤みがかった毛の
「一部の
「はい、ですが火の元の建物を破壊することで九割方消火しております。それに地表に近い分換気口も多かったのでしょう。爆破で埋められたと思しきところに掘削部隊を投入しております」
「素晴らしい。良い判断だ」
幾らかの抵抗や思いもよらぬアクシデントはあったが、ほとんどは鎮圧され、的確な対処によって
選抜された優秀な兵士たちによる部隊が先鋒を務め、以前より優れた指揮体系を維持できたのが大きいだろう。数を揃えるだけ揃え、ただ吶喊していくだけだった以前と比べれば、まさに雲泥の差だった。
そのとき、更にもう一人の伝令が駆けつけ、ヨオズの足元に膝を突く。クアゴア・ライダーと呼ばれる彼らは従来の
「伝令! 地表付近の砦もほぼ制圧完了……ですが、一部
「……なんだと?」
フェオ・ライゾ攻略よりほぼ初めてと言っていい凶報に、ヨオズは目をすがめた。
腕を組み、しばし黙考する。考えるのは周辺の地形と、
(とはいえ……だ)
基本的に都市間移動は地下道を使用する
地下には地中から奇襲を仕掛けてくる危険なモンスターなどがいるが、それでも地下道や洞窟に精通した
それに、もう数刻もすれば日も落ちる。暗闇の山中で行軍するなど正気の沙汰ではない。朝を迎える前に九割方全滅するだろう。
「それでも、万が一フェオ・ジュラまで逃げられるのは厄介か」
「……は。逃走部隊に我々の手の内を知ったものがいるとも限りません」
フェオ・ライゾ攻略にあたり、
だが、真に恐るべきはそれを指示し、都市と地下道の位置関係を調べ、ほぼ正答に近い答えを導き出した
氏族王が纏める以前、複数の氏族に
「ふむ……地上の天候は?」
「曇天でしたが、雨が降り始めた模様です。これから天候が悪化するかは、なんとも」
「構わん。奴らにとっての快方に向かわないならそれでいい。では、念のため追撃部隊を出せ。外にいる部隊だけでは足りんかもしれんからな」
「了解しました!」
「ああ、それと──」
駆け去ろうとする伝令を、ヨオズは呼び止めた。不思議そうな顔をして振り返るクアゴア・ライダーに向けて告げる。
「──そうだな。追撃には私も参加しよう」
「ヨオズ様。それは少々危険では?」
その言葉に、傍らに控えていた副官が諫言する。毛皮に青みがかかったブルー・クアゴアである彼は、幼少の頃より希少鉱石を与えられた純然たる支配階級であるとともに、ヨオズに準ずるだけの実力と頭脳を備えた優秀な戦士である。
その副官にヨオズは僅かな稚気を含んだ顔を向ける。
「今回俺は後方で指揮をとっていただけだからな。多少なりとも体を動かさんと鈍る」
「
「奴か……」
それにばかりは、ヨオズも渋い顔をした。
ここ数週間余りで増加した、地表で活動していると思しき
地下道掘削の作戦行動中に折り悪しく接触した
あの
壊滅させられた部隊の兵からは荒唐無稽としか判断できない報告が多々上がり、ヨオズも眉を顰めるほどだった。
黒髪に、暗い色を基調とした軽装に腰に差した黒く細い剣。見た目に関する情報はそれだけだが、戦闘力に関するものは常軌を逸している。
曰く、一呼吸のうちに数十メートルを詰める。曰く、飛びかかった
(馬鹿馬鹿しい)
ヨオズはかぶりを振った。
多くの部隊が似たり寄ったりの報告をしてくる以上、その全てを馬鹿馬鹿しいと一笑に付すことはしない。が、ここまで荒唐無稽だと真面目に受け取るのもどうかと思えてくる。
「もしそいつが出てきたら、構わんさ。戦力を測るいい機会だ。万が一俺がやられても、それならそれで氏族王にイレギュラーの存在を報告できる」
「は……はっ」
部下として攻略部隊指揮官の脱落を勘定に入れた発言はどうにも受け入れ難いのか、言葉に詰まっているようだった。
そんな副官の肩を叩きながらヨオズは笑う。
「気を抜くのは良くないが……なあに、気楽にいけばいいさ。
×××
〈フェオ・ライゾ〉門前の
門の外から
そもそもが
武具の鍛造やマジックアイテム、美術品の生産に心魂を捧げ、大量に鉱石を必要とする
アゼルリシア山脈が如何に広大とはいえ、比較的安全に採掘できる鉱石の量が有限である以上、互いの対立は必至だ。
ゆえに彼らは分かり合えない。出会ったが最後、どちらかが死に絶えるまで戦い続けるしかない。
「ぐおおおッ!!」
「ドドム! 畜生めが!」
また一人、仲間の
怒りに任せ、右手に持った
断末魔の痙攣を残すのみとなった
「ドドム! 生きてるか!?」
「ぐ……隊長……儂ぁ、もう駄目だ。置いてってくれ……!」
「……糞ったれが!」
ドドムと呼ばれた
応急処置でどうにかなる傷ではない。しかるべき施設で適切な処置を施さなければならない重症だ。
当然、失陥したばかりの〈フェオ・ライゾ〉にそんなものは望むべくもない。
「隊長……儂なんかより、一人でも多くの民を……構わねえ、あの世で一杯やろうや。……儂はそれでいい」
「ッ……うおおおおッ!!」
息も絶え絶えなドドムの身体をぬかるんだ地面に横たえると、握り締めた
攻めていたはずの
「下衆どもが……!」
「調子に乗るなよ!
「こっちの台詞じゃ!」
しかし、膾に刻まれるはずだった隊長を、すんでのところで副官たちが救う。爪は隊長に届くことなく、肉薄していた
「隊長! もう保たんぞ! 前だけじゃない、後ろの門からもわらわら出てきおる!」
「それだけじゃないぞ! 被害も甚大だ!
「諦めるな! 一点に集中して包囲を突破しろ! 避難民は部隊の中心じゃ! 一匹たりとも通すなよ!」
応、と響く猛々しい咆哮に、僅かに
しかし包囲網は突破出来ず、じわじわと戦線が押し込まれていく。更に悪いことに、門から出てくる
「も、もうだめじゃ……!」
「ここで全滅か……!?」
一人の民も逃せず、
「隊長──!!」
「──ぐっ!?」
味方の悲鳴のような警告に、隊長は振りかえる事よりも地面を転がることを優先した。結果としてそれは最善で、奇襲をしかけた
「に、逃げろ! 逃げるんじゃ、隊長──!!」
群がってくる
だが、虚しいかな。地に這いつくばり、得物の
隊長が死を覚悟し、顔を伏せた。
……が、いつまで経っても振り上げられた爪が振り下ろされない。
「なんじゃ……?」
怪訝に思って顔を上げると、隊長に群がっていた都合三匹の
「一体何が……」
辺りを見回すと、
「隊長! 無事じゃったか! 良かった、てっきりおっ死んじまったものだとばかり……」
「馬鹿野郎! 勝手に殺すな! ……それで? なにがあったんだ」
十数秒前に諦めて地に伏せていたことを棚に上げて、副官を一喝すると状況を聞く。
「それが……よくわからんのです。前を塞いでいた
副官の説明は要領を得ない。指を差した方向を見ると、隊長は絶句した。
「な──な……ッ!」
それは例えるなら、黒い風だった。
辛うじて人型をしていると判別できるその風が、手に持つ得物を振るうたび
ひとまずの窮地を脱した隊長のもとに一人の
「あんたがこの部隊の指揮官か!?」
「あ、ああ……いかにも、儂が隊長じゃが」
「よかった! いま儂の仲間が
駆け寄ってきた
だが、それよりも気になる言葉があった。この
「──ゴンド! お前生きとったんか!」
問い質そうとする隊長に先んじて、兵士の一人が
「ガゲズ! お主もか! 生き汚いやつじゃな!」
ゴンドと呼ばれた
「今まで何しとったんじゃこの馬鹿が! フェオ・ライゾは壊滅じゃ、このまま逃げちまえば良かったものを!」
「お主こそ何兵士の真似事しとるんじゃ!」
「儂か? トンネルドクターの仕事をしてたら奇襲を狙ってた
談笑を交わしながら武器を構え直す二人に、
会心の一撃に頭蓋を粉砕された
「おいゴンド! 守られる対象がさっさと先に行くんじゃねえ!」
「ゼンベル! 助かったぞ!」
「俺も戦線に加わる! こんだけの救援が来てんだ! できねえとは言わせねえぞ!」
屈強な
「──皆聞け!」
呆けている場合ではないと頬を張った隊長が、
「光明が見えた!
『おおおお!!』
鬨の声を挙げた
背後の避難民の護衛に最低限の兵士だけを残し、
突撃された
包囲され、殲滅を待つばかりだと信じていた相手の、まさか予想だにしなかった再突撃に、包囲網をずたずたにされた
「──道が開けたぞォ!」
「押せ! 蹴散らせェ!!」
甚大な被害を出しながらもとうとう包囲網を突破した
隊列が崩ればらばらに退却していく
最初に斬った一匹が倒れ伏すまでの間に、実に五匹もの
雨天模様は快方へ向かう気配を窺わせない。湿った土の匂いと、今こそ消えているが砦の燃えた煙の匂いの残滓、そして血臭が混じり合う。
そのままもう向かってくる個体がいないことを確認すると、ゴンドとゼンベルのもとに向かう。
撤退中の
「カレル! すまんな、助かったぞ」
出迎えるゴンドの右手には武骨な
「すまんかったな。フェオ・ライゾに案内すると言っておいてこの有様じゃ。旅が長引いちまっとる」
「いいさ。乗りかかった船だろ」
「ふふ、ならば礼はフェオ・ジュラでするとしようか」
ゴンドは憑き物が落ちたような晴れ晴れとした表情をしていた。
この旅の道程でも嫉妬、諦観がないまぜになった複雑な表情を幾度か覗かせていたが、ある程度は吹っ切れたらしい。
その隣のゼンベルも目に見える変化は返り血と幾つかの擦過傷のみで、あとは至って無傷だ。ゼンベルもカレルやゴンドとの道程で多くのモンスターや
「──あんたが部隊長か?」
「ひえっ!」
「のわあっ!」
近くから様子を見ていた
「俺たちはフェオ・ジュラまで避難する予定なんだが、あんたらはどうなんだ? ほかにもっと良いあてはあるか?」
「い、いや……儂等もフェオ・ジュラまで撤退するつもりじゃ。はじめは地上砦で籠城するつもりじゃったが、奴らに追いつかれちまっての」
小走りに駆けながら、隊長は背後の地上砦を見遣った。燻っていた火も雨によって消化され、湿り気を帯びたことで生木を燻ったようなどす黒い煙の残滓が見えた。
あそこには消耗した武器の予備や、食料などが多少なりとも備蓄されていたのだろう。隊長や副官たちの顔は名残惜しげだ。
正門付近では
「順路はどうする?」
「食料に余裕がない。ラッパスレア山付近を強行するしかないじゃろうな。エインシャント・フレイム・ドラゴンやポイニクス・ロードの縄張りを掠めるように行くことなるが、他のモンスターが活発じゃない分まだマシじゃろう」
つまり、途中まではほとんどカレルたちが進んできた順路を戻ることになる。地上にほとんど出たことがない
「俺とゼンベルは殿に立つ。あんたらは前で避難民を護衛してやってくれ」
「なんじゃと? 儂等としては、お主にはモンスターの露払いをして欲しいくらいなんじゃが……。あまり頼りすぎるのも申し訳ないがの」
「奴らがすぐに追って来なければ、そうしたさ」
カレルの言に隊長が訝しげな声を出す。
「お主のおかげで
「いいや」
カレルの視線を追って地上砦を振り仰いだ隊長は、驚愕にその表情をこわばらせた。
三々五々に散っていた
代わりに開け放たれた正門から飛び出してくる新たな