幻のウマ娘Tさん 作:クソザコナメクジ
1R:私、エンジョイします!
私、駿川たづなの一日は角砂糖のひと摘まみから始まる。
机の上に置かれた白磁器の小瓶。これは生徒の一人として、トレセン学園に在籍していた時から愛用している物だ。
蓋を開ける。中には四角い砂糖の塊が詰め込んであった。その内、ひとつを摘まみ取って口に含んでみせる。
少々はしたない気もするけども、紅茶や珈琲に溶かして上品を気取ったところで摂取する量に変わる事はない。それに料理が盛り付け方や食べ方で美味しさが変わるのであれば、この卑しい食べ方に背徳感という甘味を加える事ができるのだ。
砂糖特有の甘ったるい味わい。
これを口にすることが出来たなら今日も一日、頑張れる気がする。
ふんす、と両手に握り拳を作る。
先ずは身嗜みを整える。
その為に顔を洗う、教職に関わっているので薄めのメイクを施す。
歳も誤魔化せなくなってきた今日この頃、ヒトと比べればウマ娘の老化は遅いけども歳を重ねれば皺も増える。
何時かメジロ家の当主のようになってしまうのかな。とか思ったり、思わなかったり。
手に化粧水をたっぷりと注いで、目元の細かいところを鏡でチェックする。
「……あれ、若返ってません? というか幼くなってます?」
とりあえず何時もの癖で両手に化粧水を馴染ませた後、恐る恐ると頬に触れてみる。
「も、も……もっちりしてます……っ!?」
困惑しながらも、もっちもっちと肌の感触を楽しんだ後、あわわ、と充電器に差しっぱなしのスマホを手に取った。
型は数世代前に使っていたものになっている。立ち上げる、画面にある日付は過去に遡っていた。この年は確か、ライスシャワーが二度目の春の天皇賞を取った時のものだ。
駄目だ、頭が混乱している。
もし仮に本当に過去に遡ってしまったのだとすれば、何故こんなにも中途半端な時代なのか。兎にも角にも情報を集める為にスマホを操作する。
パスワード画面、駄目だ。今使っているものでは解除できない。
「ええと、この時期のパスワードは確か……よし、開けました!」
初期画面、大量の着信履歴が残されているのを確認する。
それは身慣れない名前だった。でも知っている、見覚えのある電話番号を見た私は確信を以て電話を返す。
若干、繋がるのが遅い。何度目かの通話音、唾を飲み込んでジッと待った。
そして相手が電話を取る、音が鳴った。
「あ、良かった! 理事ちょ……!」
『たづなー、遅いぞーっ! もう終わってしまった!!』
電話越しであったが、その聞きなれた声の調子に安堵する。
まだ現状を把握しきれていないが、とりあえず理事長が口にした事の確認が先だ。
「理事長? また何かやらかしたのですか?」
『い、いや!? 否定ッ! 今回、私は何もしていないぞ!!』
「……では、終わったとは一体なんの事です?」
レースだ! と理事長が食い気味に答えた。
『昨日……というか、今、こちらは深夜なんだがな!?』
「昨日? 深夜? ちょっと待ってください。レースに出走してたのですか? 理事長は今、何処にいらっしゃるのですか?」
『ああ、そうだ! 学園は大丈夫なのか!? 私が居なくてもちゃんと機能しておるのか!?』
「落ち着いてください。私もまだ何が起きているのか分かっていないんです」
弾力のある頬をもっちもっちと触りながら、掛かり気味の理事長をどうどうと窘めた。
「理事長は今、知っていることはありませんか?」
『不明ッ! ……わからぬ、何もわからないのだ』
威勢の良い声が鼓膜を貫いた後、それは力ないものへと落ち込んでいった。
『気付いた時にはドーヴェルにおったし、レースに出走する事になっていた。幸いにも肉体が若返っておったからレース自体に問題はなかったが……しかし、過去に戻るとしても時期が中途半端だッ! 私が現役だった時期は、もっと昔だったはずだろうッ!? この頃にはもう私は日本でトレセン学園の理事長をやっているではないか!』
どうやら彼女も私と似た状態に陥っているようだ。
とにかく、この理解し難い現状を共有できる相手が居るというのはありがたい事ではある。
早く顔を合わせて、この状況への対応を……いや、ちょっと待って。
「理事長は今、フランスに居るのですか!?」
『肯定ッ! そう言っておるだろう!? ちなみにレースには勝ったぞ!』
「勝ったんですか!? いや、理事長の戦績を考えると不思議ではありませんが……!」
『うむッ! まだまだ肉体は若いが経験が違うな。相手を1バ身差で抑え込んだ見事な勝利だった!』
たづなにも見せてやりたかった。と快活な笑い声がスマホから発せられる。
理事長が勝ったという事は……えっと、本来の歴史とは結末が変わってしまったって事ですか?
タイムパラドックス? これって非常に拙い事なのでは?
「歴史、壊れちゃいますねえ……」
『はーっはっはっはっ! 僥倖ッ! 私は日本のウマ娘競技を改革し続けたウマ娘だ。歴史のひとつやふたつ、壊してなんぼ……ああッ!?』
どうやら理事長も何をしでかしたのか気付いたようだ。
『た、たづな~! 私、もしかしてとんでもないことをしてしまったのではないか!?』
その理事長の涙声を耳に入れつつも暫し考え込んだ。
宇宙という壮大な規模で考えれば、理事長の一勝なんて大した事ないのかも知れない。歴史の修正力という言葉もある。メイクデビューの一勝程度、歴史という大河を前にすれば些細な話。しかし、その些細な事がきっかけでこれから先の未来が大きく変わっていく事も考えられた。
……いや、それ以前に今のトレセン学園は誰が理事長をやっているのでしょうか?
「理事長。すみませんが一度、切らせて貰います」
『な、何故だ!? 私を一人にしないでくれ! 知らぬ土地に一人で寂しいのだ!』
「理事長の故郷ですよね?」
『故郷はカナダだがな! まあ仕事以外で外に出れなかったし、国籍も日本に変えてたし……』
「今のトレセン学園の理事長が誰かなのか調べてみたいと思います」
素直に理由を伝えると「そうか。うむ、そうだな」と理事長は自分に言い聞かせた後で「承知」と短く告げる。
『それは私も気になることだ』
「はい。後でかけ直します」
『任せたぞ、たづな』
彼女の支えたくなる小柄な姿を思い浮かべて、はい。と力強く頷いてみせた。
通話を切る。検索サイトを駆使して、トレセン学園のホームページを開いた。
そこから更に幾つかのページを巡り、理事長の顔写真が貼られているページに辿り着いた。
栗毛の髪色。しかし、理事長……いや、秋川やよいが持つ特徴的な白い毛並みはない。
名前は、大国さくら。秋川やよいとは別人だ。
私は無言でスマホを操作して、私を待つ彼女に掛け直す。
もう彼女は理事長ではない。
秋川やよい、と呼んでも良いものか。
「理事長、お待たせしました」
『おお、思っていたよりも早かったな! それでどうだった!? ちゃんと私は理事長をやっていたか!?』
「……別の方がしておられるようでした」
私の言葉を聞いた後、そうか。と妙に落ち着いた声が返って来た。
『承知ッ! トレセン学園が回っているのであれば、それで良い!』
「……理事長は、それでも構わないのですか?」
『構わぬ! 生徒を混乱させるような事態になっていない事さえわかれば十分だ!』
そういって彼女は軽快に笑ってみせた。まるで先程まで取り乱していたのが嘘のようだ。
そんな彼女の声を聞いて、少し寂しくなった。漸く事態が呑み込めてきた気がする。
彼女と一緒に築き上げてきたトレセン学園が、今はない事が無性に悲しく感じてしまった。
『して、たづな。これからどうする?』
急な問いかけに、私は咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
『私は直ぐに日本に戻れそうにない。ヨーロッパを中心に競走ウマ娘として活動するつもりだ』
もう私達が知っている歴史ではないようだからな。と彼女は告げる。
『たづなも現役でやり残したことはあるのではないか?』
「別に……そんなことは……」
『私にはある! 凱旋門賞に出走したい! キングジョージにも出走してみたい!』
それから、と彼女は優しい声色で続く言葉を口にする。
『フランスを代表するウマ娘として、ジャパンカップに出走する』
それは強い意思を込められた言葉でもあった。
「……理事長にできますか?」
『不服! これでもフランスのGⅠウマ娘、不可能という程ではあるまい!』
理事長の戦績は、GⅠウマ娘という括りの中では地味な部類に入る。
圧倒的な実力を持っていた訳でもない、能力を発揮できなかった訳でもない。
それでも彼女は自信たっぷりに笑ってみせる。
その無根拠な自信が私は好きだった。
「なら理事長秘書として私が出迎えないといけませんね」
何時でも誰かの為に全力を出せる貴女だから、私は傍に仕えて支えたいと思った。
実際に、ずっと仕えてきた。
『やっぱり私の隣には、たづなでないとな!』
「偶には理事長に立てて貰うのも悪い気がしませんね」
『はッ! その時は世界の走りを教えてやるぞ!』
再開の約束も程々に、幾つかの決め事をしてから通話を切る。
もう大丈夫。迷いはなくなった、遠慮する必要もない。
既に歴史は壊れており、守るべき歴史は失われている。
どうして今の状況が生まれているのか分からない。
超現象過ぎて、解明の取っ掛かりすら見つけられない。
分かっている事は──私達が居なくても、きっと元居た世界のトレセン学園は上手く回る。
それは理事長が海外出張に行った時、樫本理子が理事長代理を見事に勤め上げられた点から証明されていた。
私達の存在が必要ないと言っている訳ではない。
ただ、私は、私達が思う程にトレセン学園は弱くない、という事だ。
だから、あの世界のトレセン学園の心配をする必要はない。
元の世界に戻りたい、という想いはある。でも、それは今すぐでなくても良い。
帰る手段が見つかれば、その時に考えれば良い。
少なくとも、この世界には、あの理事長が居てくれている。
ノーザンテースト。通話履歴に残された彼女の名を、秋川やよい。と打ち直す。
私、駿川たづなは、この世界をエンジョイする事に決めました。
これでもし何かしらの不都合が起きたとして、誰に責任があるのかと問われれば、こんな風に私達を過去に送り込んだ神が悪いと言い張ってやる。
一人のウマ娘、トキノミノルとしてトゥインクル・シリーズを荒らす事を決めました。
大国さくら もしかして:テスコボーイ