幻のウマ娘Tさん 作:クソザコナメクジ
10月第1週、東京レース場。メイクデビュー戦、芝1800メートル。
バ場状態を確かめる意味も含めての準備運動、トラックコースを軽く走りながら電光掲示板を見上げる。
本日、出走ウマ娘は14名。人気は4番目、それなりに期待されているようだ。
1番人気のウマ娘は──目の前を走る体操着姿のウマ娘の背中を見据える。
8枠14番トキノミノル。どちらかというと地味で落ち着いた外観、しかし雰囲気がある。初めてのレースであるにも関わらず、浮ついた様子が見受けられない。随分とレース慣れしている印象がある。
……トレーナーから聞いていた情報とは違うな。
彼女は、今年に入ってから話題に上がり始めたウマ娘であり、選抜レースは勿論、模擬レースも含めて出走したのは一度切りだったはずだ。その時はスタートで出遅れており、サイレンススズカとタイキシャトルに次ぐ3着という結果に終わっている。それでも短距離レースで大きく出遅れたにも関わらず、2着のタイキシャトル相手に1バ身差まで迫る末脚は少なからず評価されていた。
その程度のウマ娘のはずだ。彼女の担当トレーナーは2年目の新人であり、実績も乏しい。
あるのはサージュウェルズというウマ娘で1勝して、宝塚記念に出走したというだけだ。
出走ウマ娘13名の中で9着、特に良い所もなく終わっている。
今日は東京レース場の雰囲気を感じるだけで良いと言われていたけど、どうしても彼女から目を背ける事ができない。
背後から彼女の走る姿を見つめる。……なんというか、凄く綺麗な走り方をしていた。意識して観察する、体幹がぶれない。隙が見えない、粗探しをするも私では指摘する点が見当たらない。私のトレーナーなら何か分かる事もあるかも知れないが、少なくとも未熟な私では何も分からない程度には完成度が高かった。
無意識に彼女の走りを真似てみると、それだけで少し走りが良くなった気がする。
思わず、観客席にいるはずのトレーナーを探した。
私は出るレースを間違えていないかと、彼女は初戦で当たって良い相手ではない。
……いや、逆だ。初戦で当たってくれて助かった。
今日のレースは私が日本一のウマ娘になる為の第一歩目になる。
今、私の目の前にいるウマ娘は少なく見積もっても、今世代の上澄み。私が目指すべき頂きが、どの程度のものなのか見させて貰うには丁度良いというものだ。
これから始まる旅路の為に寡黙なトレーナーと共に過酷な調練を積み重ねてきている。
大丈夫だ、問題ない。
私は自らの才覚が凡庸であることを自覚している。
どのような結果になったとしても、受け入れて、前に進む心の準備もまた出来ている。
準備運動を終えて、ゲート前。彼女は足を止めて、ゆっくりと私の方を振り返った。
◆
嗚呼、またこの地に脚を踏み入れる事ができるなんて。
選抜レースの時とは比べ物にならない緊張感、ピリピリと肌に感じる好戦的な戦意が高揚感を煽る。
自分が今、掛かり気味なのは自覚していた。別に掛かっても良いとすら思っていた。
今日の相手が誰なのかは真面目に確認もしていないけど……まあ今のトレーナーに公式のレースにも出ていないウマ娘の情報を収集出来ているとも思えない。しっかりと私の体調管理をしてくれて、私の調子に合わせたトレーニングメニューを組んでくれるだけでも大助かりで、一人でトレーニングをしてる時よりも効率は勿論、積めるトレーニング量も増やすことができている。
脚の調子も悪くない、しっかりと芝を踏み締めても痛みはない。
今日はトレーナーからも指示も受けていないので、前に現役だった時と同じ走り方をするつもりだ。
つまりはプランなし、好きにやる。
ぶっちゃけた話、現役時代の私はあまりレースが得意ではない。というのも私がまともにレースをしたのは最後の東京優駿くらいなものであり、スタートを切れば、何も考えずとも先頭に立ててしまうので後は力押しで勝利をもぎ取ることができた。コースを軽く走った後にゲート前に集合する。
大外枠の私はゲートに入るのは最後、トントンと軽く跳ねながら全身の筋肉を解す。
「スズカさんが居れば、試金石としては丁度良かったのですが……いえ、今の彼女では力不足でしょうか?」
この時代の逃げウマ娘といえば、誰が居たっけな。
そんなことを思いつつ、先程から私のすぐ後ろを付いて来るウマ娘を振り返って見た。
地味な風貌、ゼッケン8。
その隅には小さな文字で、サニーブライアン。と書かれている。
──思わず、舌舐めずりしてしまう。
逃げ戦法というのは本来、結果的にそうなってしまうものだ。
他ウマ娘を圧倒する程のスピードを持ってすれば、気ままに走るだけで先頭に立ってしまう場合もあるし、ウマ込みが苦手だけど最終コーナーで外から躱せるだけの長い脚もなければ、最後の直線で一気に抜き去る末脚もないので先頭に立つしかない場合もある。
しかしサニーブライアンは違っていた。
彼女は勝つ為に逃げを打つ。逃げ戦法を手段ではなく、作戦に昇華させた数少ないウマ娘の一人。ハナを切って先頭に立った後で緩やかにペースを落とし、溜め逃げの形を作るのが得意なウマ娘であった。
逃げ戦法に関しては、一家言持ちのウマ娘である。
彼女がゲートに収まる後ろ姿を見て、今日、私はレースを楽しめるでしょうか? と期待に笑みを零す。
過去と現代ではレベルが違う。そんな事は分かっている、しかし過去のウマ娘が現代と同じトレーニングを積むことができたとすれば? それでもやはり、過去の平均が現代に手が届くとは思えない。
しかし、それが伝説的なウマ娘なら話は変わるかも知れない。
躊躇は一切なし、私は過去から未来への挑戦者。
いざ真剣勝負。いざ、いざ。掛かってなんぼの本番一閃。
ゲートに収まり、いざ、いざ、いざ!
早く開け、とゲートが開き切る前に鉄扉を抉じ開けた。
◆
ゲートに収まる前、彼女。トキノミノルが私の方を振り返る。
視線は合わず、私が付けたゼッケンを見た時──殺意に、身震いした。彼女は、まるで獲物を見つけた。とでも言わんばかりの双眸と共に舌舐めずりをする。その姿は肉食獣と見紛うばかりだ。なんだ、あれは。闘争心の塊か、他のウマ娘とは一線を画す存在感に身を竦ませる。脚を止めているとスタッフに背中を押されて、ゲートに入れられた。狭い箱の中で、ゆっくりと深呼吸をすることで心を落ち着かせた。
大丈夫、やることは決まっている。
今日は溜め逃げ作戦の確認と東京レース場に慣れる事、ゲートが開いた瞬間に飛び出す訓練は特に積み上げてきた。
ガシャコン──と音が鳴り、周囲の誰よりも早くに拓けた芝に身を放り込んだ。
抜け出せた。と思った、私の更に先を右から左に横切る影を見た。トキノミノルだ。彼女は序盤から圧倒的なスピードを以て、大外から最内へと切り込んだ。拙い、出遅れた。慌てて追いかけようとするも、もう既に先頭争いから取り残されている。彼女は最内を取ると、軽く息を入れる程度に速度を緩めた後、向かい正面の坂を一気に駆け上がり、直滑降の下りで加速を付けたまま速度を緩めず、第3コーナーの最内へと切り込んでいった。
この時点でもう既に3バ身の差が付けられている。
追いかけなくてはならない。最終コーナーで少しでも差を付ける為に懸命に速度を上げる。3バ身の差は1バ身に追いつけた、と思った瞬間、彼女は急に加速を始めた。気付けばもう最後の直線だった。待て、待て! 脚に力を込める、内側の柵から距離が離れる。脚が縺れる、踏ん張れない。上手く力が伝わらない。内から外へと身体を流れるのを自覚した時、ふと背後に視線を向けた。
3着とは5バ身の差が付いていた。
「……カッ…………ヒュッ…………ヒッ! ……ハァッ!」
あからさまなオーバーペース、坂を加速しながら登る彼女の背中に手を伸ばす。
当然ながら届かない。坂に入ってガクンと落ちる速度、彼女が坂を登り切った時、私はまだ中腹。背後との差が詰まって来た。
もう前を追いかける段階にない。呼吸が……息を、入れるのを……忘れ、てた…………
坂を登り切って残り200メートル、粘れたのは此処まで。
他のウマ娘が次々と私の事を追い抜いて行った。ゴール板を切った時には、もう掲示板にも入れない順位にまで落ち込んでいる。
膝に手を付いた。汗で肌に引っ付いた前髪の先に見たのは、観客席に向けて、元気に両手を振るトキノミノルの姿だった。
……まだ余力がある。
その絶望的な差を見せつけられて、酸欠も伴って頭がくらりと来た。
勝てない。
膝から手を放した、太腿に手を張って背筋を伸ばす。鼻から大きく息を吸い込んだ。
今は、まだ勝てない。
「あれが日本一、あれが頂き……!」
東京優駿までに残された時間は、もう半年と少しだけ。
時間が足りない、このままでは間に合わない。
スケジュールに上方修正を、
もっと、もっと私は強くならなくてはならない。
「勝つ。今は無理でも、半年後には必ず追いついてみせる」
今までの私は温かった。
まだ勝つ為に削れる何かがあるはずだ。
もっと勝つ為に捧げられる何かがあるはずだ。
勝つ為に、勝つ為に、勝つ為に、
◆
見た、来た、勝った。
そんな感じのメイクデビュー戦を終えたウイニングライブ。応援してくれたファンに感謝の気持ちを返す舞台だ。
これが開催されるようになったのはハイセイコーがグランドライブを開演した後の話であり、つまり、それよりも前に活躍していた私は勿論ウイニングライブなんて経験した覚えがない。それでもまあ理事長秘書のウマ娘として、振り付け程度は覚えている。
舞台のセンターでマイクを握る。
確かに踊る事はできる。しかし、しかしだ。私にはウイニングライブの経験がなかった。しかもメイクデビュー戦に勝利したウマ娘のライブは、同日に開催されたレースのウイニングライブを並べたプログラム内で行われる。つまりは、まあGⅠレースを観に来たファンもライブ会場に集まっているという話である。
……やばい、頭の中が真っ白でやばい。
あとGⅠ以外のレースでは、ライブ衣装はURAから無償で貸し出されるのだけど、とても若作りした衣装で精神的にも辛い。
ヘソ出しが、とても……お辛いです!
タスケテ、トレーナー=サン。タスケテクダサイ。
「アー、アー、ドーモ、ハヤトキノミノルデス。ヨロシクオネガイシマス」
しかし無情にも楽曲は鳴り始める。
心を無にするのです。何も考えずに事を為せば、どうにかなるものなのです。
さあ大きく息を吸い込んで……
「ひびッ……げほっごっほ! 届け……うぇっげほっ……かがや……君と……げほっ! 何かが喉に絡まって……けほっ……ちょっと待っげっほごほッ!」
それはトゥインクル・シリーズが続く限り、未来永劫に渡ってお茶の間に流される伝説のライブとなった。
■トキノミノル(クラシック)
年組:ジュニアB組 髪色:鹿毛
戦績:1戦1勝(1-0-0-0)
▽ジュニアB組(月/週)
10/1:東京:1着:メイクデビュー戦:T1800m
■サニーブライアン(クラシック)
年組:ジュニアB組 髪色:鹿毛
戦績:1戦0勝(0-0-0-1)
▽ジュニアB組(月/週)
10/1:東京:6着:メイクデビュー戦:T1800m