幻のウマ娘Tさん 作:クソザコナメクジ
12月第1週、阪神レース場にて。
ゴール板の先で僅かに黒鹿毛の小柄なウマ娘が、僅かに息を切らしつつも静かに片手を上げる。
そのすぐ後で掲示板の頂点に、彼女が胸に付けたゼッケンと同じ番号が点灯した。
大歓声を背に受けた小柄な彼女の姿は、正に小さな巨人。他ウマ娘のすすり泣く声は意にも介さず、さも当然とでも言いたげな澄まし顔でコースを後にする。長い廊下を通った先の控え室──を素通りした先にあるシャワー室ではトレーナーが特性ドリンクを片手に待ち構えていた。
「疲れた、脱がせて」
彼女は特性ドリンクを口にした後で、気怠く口にする。
言われたトレーナーは少し困った風に微笑みながら「はいはい」と愛バの体操服を脱がせた後、椅子に座らせる。
それから自らもスーツの上着とシャツを脱ぐと温水で彼女の汗を流した。
「お客様、痒いところはありませんか?」
そんな軽口に「ない」と素っ気ない態度を取る。
まだウイニングライブまで時間はあった。濡れた髪をトレーナーにタオルでわしゃわしゃとされながら控え室まで戻った。小柄なウマ娘は備え付けの長椅子を見やった。ん、とトレーナーに顎で指示を出してやれば、はいはい、とトレーナーは長椅子の上にタオルを敷いた。その上に俯せになれば「少し寝る、終わらせといて」と目を閉じる。
愛バの横暴な態度を前にしてもトレーナーは苦笑するだけで「お疲れ様でした」と全身のマッサージを始めた。
指導はしない。何故なら今日の彼女は御姫様だからだ。
彼女はやるべき事をやり、自分の責務を全うした。
レースが近付けば近づくほどに彼女は傍若無人になっていったが、トレーニングは真面目に熟している事をトレーナーは知っている。彼女はレースの主役が自分であることを自覚していた。それ故に最高のコンディションとモチベーションをレースの開催日に合わせる事だけに注力しており、それ以外の全てをトレーナーに丸投げする。その事を嬉しいと思う事はあっても、憤りを感じる事はなかった。
彼女は、少しばかり理解されにくいだけなのだ。
レース後のケアをトレーナーに丸投げした今、数分と持たず、熟睡してしまっているのが彼女からトレーナーに対する信頼の証。凝り固まった筋肉を解すだけではなく、指圧のひとつ、ひと揉みから彼女の筋肉の状態を掌握する。今、この時こそがトレーナーとしての真剣勝負である。トレーニングとレースでは結果が変わる、当然の話。その情報を読み取り、今後のトレーニングに活かし、レースに勝たせる。それがトレーナーというものだ。
彼女は自分が最も偉いと思っている。当然だ、レースの主役はウマ娘。彼女を輝かせる為に私達がいる。
理不尽で、横暴ではない。すぐ脚が出るウマ娘だが、決して猛獣ではない。
彼女の行動と結論には意味がある。
彼女の名前は、キンイロリョテイ。いずれ、世界を獲るウマ娘だ。
◆
夢の中で思い返すのは、何度ケツを蹴っても追いかけてくる小生意気なトレーナーに付き纏われる毎日だ。
才能があると寄って来たトレーナーは他にも居て、一度は契約を結んだが、私を矯正させようと上から目線で一方的に物を言ってくるのでケツを蹴飛ばしてやった。その日から私は気性難の問題児だというレッテルを貼られる事になり、斜行癖も相まって、トレーナー達は私から距離を置くようになった。
そんな中でも彼女だけは毎日のように私に付き纏ってくるし、その暑苦しい距離感に何度もケツを蹴り上げてもへこたれなかった。自主トレが終わった後に頼んでもいないのにスポーツドリンクを持って来て、ふわふわのタオルを手渡してくる。これが数日程度なら気にしない。しかし一ヶ月も続けば、少しは気にするし、半年も経てば、怒りは呆れへと成り替わる。勝手に詳細なデートを取られているのも、恐怖を通り越してしまった。出来るトレーナーには変態が多いと聞くが、彼女も似た人種なのかも知れない。
結局、根負けしたのは私の方であり、話だけは聞いてやる事にした。
「私に何を獲らせたいんだ?」
何時もトレーニングに付き纏ってくるトレーナーを食事に誘った日の事だ。
私は、好物のお茶漬けを啜りながら質問する。トレーナーは自分で走らない代わりに、ウマ娘に夢を乗せる。だからトレーナー業を続ける人間が利己的な理由を抱えている事は知っている。その事に嫌悪感はない、むしろ当然だ。欲のない人間の方が信用できない。具体的なレース名が出れば良し、それはちゃんとした未来像を持ってスカウトしているという事だ。私をスカウトする事によって、どうなりたいのか。これが言えない人間を私は信用する事はできない。
彼女は、私からの問いかけにキョトンとした後。強い意思を込めた瞳で、自信たっぷりに笑みを浮かべた。
「凱旋門賞」
「……は?」
「キングジョージやBCターフ、他にはドバイシーマクラシック、香港ヴァーズも良いんだけどね。やっぱり私は世界最高峰のレースといえば、凱旋門賞だって思ってる」
「本気か?」
「貴方とならできる」
そう頷く彼女の瞳は、テレビで観て来たトップのウマ娘のようにキラキラに輝いていた。
……私は貴女にとっては世界で一番のお姫様、そういう扱いを心得て欲しい。
いつもと違う髪型に気が付くのは当然、靴の違いにだって気付くべきだ。私の一言には言い訳なしで三つの言葉で返事をし、返事の言葉は肯定以外に許さない。いや、私の意を理解した上での言葉なら聞いてやらない事もない。分かったら私が気分よくレースに出走できるように心掛ける。気分屋の私がレースで勝ちたいなって思えるように盛り上げる事はトレーナーとしての義務なのだ。
別にこんなのはわがままじゃない、全ては私がレースに勝つ為に必要な事。その為に無駄を省き、効率を求めるのはおかしな事ではない。
私が雑誌を読んでいる時に苺のショートケーキが食べたいと思ったならば、トレーナーは私の口元にフォークで切り分けたケーキを持ってくるべきなのだ。
「どうして君は、あんな我儘を許しているんだ」
とある日の話だ。トレーニングを終えた後、シャワー室で汗を流した私はマッサージを受ける為にトレーナーとの待ち合わせ場所に戻った時の事になる。トレーナーが先輩に強い口調で問い詰められている場面にでくわした。その時、陰口を言われる事を覚悟した私は、柄にもなく廊下の角で聞き耳を立てる。
「それはどういう意味で?」
「あのウマ娘は年上を敬う心がない。あんなのを許していては教育にも悪いだろ」
「……確かにまあ、傍から見ればそうなんでしょうね」
でも、と彼女は鼻で笑って告げる。
「貴方は彼女の事を何も理解してませんよ」
その語気は、強気で自信に漲っていた。
「……君だって苦痛じゃないのか?」
「そんな事ないですよ。むしろ今は最高に充実しています」
そう言って、彼女は先輩を追い払った。
私の事を我儘だと言った奴がいる。傍若無人だと罵った奴もいる。別に理解されたいとは思わない。真に効率を求めるのであれば、円滑な人間関係の構築は必要不可欠なものだと分かっている。取り繕う為に仮面を用意するなんて、社会で生きる誰もが大なり小なりでやっている。そんな誰もが当たり前にやっている事が、私にとっては酷く面倒に感じられた。人間嫌いな訳じゃない、嫌われたい訳じゃない。でも好かれたいとも思わなければ、誰かに好かれたいと思うに足る理由もなかった。
レースに掛ける想いは人それぞれ、私の事を指で差して、アイツはダメだと言う奴もいた。
確かに私はレースに対する敬意はないのかも知れない。
情熱も薄い、勝利への渇望も他のウマ娘と比べたら薄いかも知れない。
しかし私には勝たなくてはならない理由があった。
誰かは言った。ウマ娘は誰かの夢を背負って走るのだと。
ファンの為に、なんて殊勝な事をいうつもりはない。
私は、私の事を誰よりも信じてくれる一人のトレーナーの夢を背負って走っている。
その想いに対する裏切りは、勝ち負けじゃない。
ベストを尽くさない事だ。
万全を喫した上での敗北ならば受け入れられる。
レースに勝つ為に本気を出すって事は、ハードトレーニングで自分を追い詰める事だけではない。
義務感でのトレーニングなんて高が知れている。こういうのは勝利への渇望が自然と自分を追い込む事に繋がっているだけであり、強い意志と勝利への渇望が効率度外視のハードトレーニングを成立させてしまっているだけに過ぎない。それが義務感で長続きするはずもないし、途中で脱落する者の方が多いはずだ。真に強いのは、走るのが楽しくて仕方ないって奴だ。走りを楽しめている奴は、どれだけ負荷を掛けてもケロッとしてやがる。特に脚が速くなる過程を楽しめる奴は、それだけでヤバい。
私には、その才能がなかった。だから私がレースで勝つ為には、盛り立て上手な相棒が必要だ。
私だって恩知らずじゃない。尽くされた分の恩は返す。
だから私が今すぐに「こだわりたまごのとろけるプリンが食べたい」と言えば、三つの単語で有無を言わずに買ってくるべきなのだ。
凱旋門賞を獲るってことは、それぐらいの覚悟が必要なんだ。
言う側も、言われる側も。
今日走ったレースが夢の世界で回想される。
序盤は後方待機、スタートで失敗した私は後方をせざる得なかった。此処で前に出ることも考えた。だが彼女と積み重ねてきたトレーニングとデータが焦る必要はない、と後方待機の選択を取らせる。バ群の内に入っても焦る必要はなく、第3コーナーに入る手前の緩やかな下り坂に入って、ヒョイと身体を大きく外へと振った。周りのウマ娘が遠心力で外に振られないように内に切り込もうとする中、ある程度は振られても良いと距離のロスを度外視した。
最後の直線、横に大きく膨れ上がった外。4、5番手の位置。下り坂で速度を付けた後、残り200メートルで立ち塞がる急坂を一気に駆け上がる。
この時点でもう、それまで先頭を走っていた逃げウマ娘を捉えた。
あとは1バ身差で相手の頭を抑えるように脚を緩める。大きく差を付ける必要もなければ、タイムにも興味がない。
必要なのは勝つ事だ。勝利に対する高揚感は、思っていた程じゃない。
観衆の盛り上がりだって、それ程じゃない。
でも、観客席の最前列に立って応援していたトレーナーが大はしゃぎで喜ぶ姿を見て、笑みを深める。
おいおい今からそんなんじゃ凱旋門賞とか取った暁にゃ、どうなるよ。
あの時のトレーナーの姿を思い返す、胸の奥が疼くような、擽られるような感覚があった。
たぶん、これが私の走る理由なんだろうと思った。
だから目が覚めた時、私はまだ寝惚けた頭で彼女に伝える。
「……肉が食べたい」
「はい! ウイニングライブの後に焼き肉の予約入れとくね!」
「勿論、柔らかく焼いてくれるよな?」
「おっす! 焼肉奉行、させて頂きます!」
周りに理解されなくても良い、される必要もない。これが私とトレーナーの関係なのだ。
「次のレースは?」
「3週間後を想定してるけど?」
「わかった」
それなら、もう少し我儘なお姫様気分に浸っておく事にする。
いつもと違う髪型に気が付くのは当然、靴の違いにだって気付くべきだ。私の一言には言い訳なしで三つの言葉で返事をし、返事の言葉は肯定以外に許さない。でも、今はそんな事よりも私の快眠の為に膝枕をするべきだ。
「二度寝しようとしない。もう時間がないからウイニングライブ用に手入れするよ」
「………………」
「ほら、睨まないで。私にとって世界一の愛バの晴れ舞台、生半可で送り出してなるものか!」
どうしても世界一の愛バである私の為に尽くしたいというのであれば仕方ない。と私は寝惚けた頭で椅子に座って彼女の好きなように化粧をさせる。こんな感じに自分の事を想ってくれる相手が居るというのは気分の悪いものじゃない。何時も私の為に尽くしてくれる彼女の為を想えばこそ、ちょっとくらいは喜ばせてやっても良いとウイニングライブも真面目に熟してやるのだ。
◆
競走馬がもし人の言葉を介して、その想いを正しく受け取ってレースの意味を知れば。
もしかすると歴史はほんの少し変わったのかも知れない。
正史にあって正史に非ず、これはウマ娘の可能性の物語でもある。
■キンイロリョテイ(クラシック)
年組:ジュニアB組 髪色:黒鹿毛
戦績:1戦1勝(1-0-0-0)
▽ジュニアB組(月/週)
12/1:阪神:1着:メイクデビュー戦(T2000m)