「フルール、ねえ、フルール」
体を揺すられる感覚。
霧状の湿気が鼻頭にまとわりつく感じがいやにべたついていて、不快だ。
鉛でも仕込まれたかのように重い瞼を閉じ切ったまま、少女は小さく舌打ちをした。「もぅ」と呆れを混じらせた声が上方から聞こえてくる。
その、艶ばかり乗る色っぽい女の声。
少女はしぶしぶ瞼を上げた。――視界に映るのは、黒い肌に黒い髪の、女。
「あ、起きた?」
「……あ?」
見た目だけで言えば、黒髪黒肌の女は、間違いなく少女より年上だろう。女らしい、柔らかく丸みを帯びた体つき。豊かな胸に長い脚。どこにでもいそうな旅人の恰好をしているというのに、女はどこか艶めかしい。
そして、女の背には、小さな羽が生えている。
「……レテ、なに、なんなの、殴るわよ」
女の名をレテミアと言う。少女とは何年も同じ旅を続ける腐れ縁だ。
――早朝。どことも知れない森の中。目覚めから女の顔を見るハメになった少女は、苛立ちからまた舌打ちを放つ。
「ね、フルール、フルール、起きた? おきたの?」
気にせずレテミアは少女の体をまた揺する。
起きろと言いたいのだ。
少女――フルールは、いつになく体を揺すり覚醒を促してくる女をうざいと思いながらも、渋々上体を起こした。寝袋からサナギのように起き上がる少女の体は見た目相応に貧層だ。
「……なによ」
「あ・れ」
眠気も引いていないというのに、レテミアは遠くを指さす。その快活ぶりに頭痛でも起きそうだな、と少女は思う。
しかし一体なんなのか――フルールが女の示す先に目を向けた。
森の木々によって隔たれた先。うっそうと生い茂る緑を越えた草原には、馬車が一つ。
小さな、ばう、ばう、ばう、という獣の声。
次いで聞こえるのは野太い悲鳴だ。
ああ、とフルールは納得がいった。
この世が“神の捨てた混沌”と許容されるに足る理由の、その一つ。この世ならざる異界の者たち――魔物。正しくない生態系、間違った生命。神の裁定なくして命は正しく在れないその証左そのもの。
犬型の魔物達に馬車が襲われていた。
護衛の男たちは銃を、剣を構えて応戦するも、明らかに戦闘慣れしていない様子だ。一人また一人と死んでいく。男たちが死守しようとしている馬車の中からは小さな――それこそ風に消えてしまいそうなほど小さな、悲鳴が聞こえる。
「ね?」
「……」
フルールは前髪を掻き上げる。そういえば最近街に入っていないせいでどうにも不快だ。そろそろシャワーでも浴びたいな、と思いつつ。
開いた口は棘のある言葉を生んだ。
「で、なに、寝起きのあたしくすぐり起こしてアレを助けろって?」
「もっちろん!」
女は満面の笑みで頷いた。
フルールの目が途端に吊り上がる。
「あんたが行けばいいでしょーが」
「気が向かないわぁ」
「ぶッ殺すわよ」
殺意を湧きあがらせるフルール。レテミアは臆することなく人差し指を突き立てて見せる。
「それにほら、よく考えてみて!」
「なにをよ」
「助けたらお金もらえるんじゃないかしら!」
「……なるほど」
金、金か。
この世を神が捨ててもうだいぶ時間が経つ。
伝説にすらなりうるほど過去、主神より捨てられたこの大地。そんなこの世界においても、まだまだ人の命は一定の価値を持っていた。
人助けは金の元。そうやって稼いで少女と女は旅をしているのだから。
「助ける気になった?」
「そこそこね。でも、とりあえず一本吸わせて」
レテミア「はぁい」と元気に言葉を返して、黙りこくる。だがその表情はフルールに期待する色ばかり浮かんでいた。
ぼりぼりと頭を掻くフルール。
正直、やる気はしない。
だが朝の運動には丁度いいのかもしれないな。それにレテミアが言った通り、助ければ金をくれるかもしれない。というか、ぶんどる。
そう思いなおして、おもむろに傍にあるバッグへ手を突っ込んだ。
お目当ては厚紙でできた厚みのある紙箱。――それを開け、中に入った煙草をフルールは悠々と口にくわえる。
ライターは準備する必要もない。
――隣にいるのは“悪魔”の女だ。
「火」
「どーぞ」
隣の女がさっと指をかざすだけで煙草の先端に火が灯る。ライターも何もないのに。
森のよどんだ冷気と、特有のわずかな湿り気。そして燃焼する香草。濾過するフィルター。
それらが合わさり何とも言えない玄妙さをフルールの口内に、しいては肺に与えた。
単純に言えば、煙草がうまい、ということだ。
「ふー…………朝の一本はやっぱ帝国製よね……」
帝国製の煙草は辛みが強く、またニオイもきつい。その臭さから嫌う人間もいるがフルールは好んで吸っている。特に、朝の目覚めにはもってこいの煙草だった。ヘビースモーカーであるフルールは、たくさんの種類の煙草を常に携帯している。
一気に意識が覚醒していく高揚感を覚えつつ煙草をふかしていると、レテミアが眉をたわめて悲しげな顔をしていた。
「私おタバコは嫌いだわ」
火を付けたのはどこのどいつだ。
「はッ。あんたが厭がるから吸ってんのよ、もだえ苦しめ」
邪悪にフルールがせせら笑ってみせると、むぅ、とレテミアは頬を膨らませる。
どうにも見た目の妖艶さが似合わない子供っぽさを見せるレテミアに、少女は慣れきった呆れに目を向けるだけだ。
そうやってフルールがしばし煙草の味を噛みしめていると、遠くの方では護衛だろう男がまた一人魔物に食われて死んでいるところだった。馬車の中からまた悲鳴が上がる。
あー、と煙草を指に挟んだフルールがどうでもよさそうに声を上げた。
「そろそろ死ぬわね、あれ」
「のんきすぎないかしら?」
「あたしがやるんだからあたしの勝手でしょ」
それにねえ――と、煙を吐きながらフルールは続ける。
「ああいうのは冷や汗かく程度の危険より、死ぬかもって感じの時に助けたほうが感謝されるもんなのよ。金もがっぽがっぽよ、最高ね?」
「なんというか、あれよね。フルールってかなりクズよね。そのうち死んじゃいそう」
「呆れてるならあんたが行きなさいよ。あと、あたしより先に死ぬのはあんたよレテミア」
フルールが愚痴ってもレテミアは知らんぷりだ。
悪魔め……とぼやいたフルールは、半ばまで吸っている煙草をくわえたまま、ゆっくりと立ち上がる。
寝袋から完全に出た少女の背は、意外なことにかなり高い。そしてその腰にはジーンズの上から仰々しいガンベルトが巻かれていた。
収まるのは一つのリボルバー式拳銃。
「弾のストックいいの?」
弾丸すら確認しないフルールに、レテミアが何となくといった様子で問いかける。フルールは煙草をくわえたまま、目線一つよこさずに頷いた。
既に少女の瞳は魔物しか見ていない。
「六発ありゃ十分。何百年旅してんのよ」
そう。気を付けてね。
そんな、さして感情のこもってない言葉に――何一つ心配していない、“信頼”の声を背中に感じ、フルールは紫煙を纏いながら歩き出した。