宿に戻る頃には日も落ちていて、辺りは真っ暗になっていた。
コートを着ていても夜は寒い。肌寒さを感じながら、ユウリは一人で部屋の扉を開ける。扉の隙間から明かりが漏れていたから、きっとレテミアはいるはずだ。
――部屋の中では、珍しくレテミアが椅子に座っていた。
背中の蝙蝠羽は萎びたように畳まれている。扉の軋む音にレテミアが顔を上げ、ユウリを見つめた。
「フルールは?」
「まだ……賭場にいると言っていました」
濡れたように潤んでいる黒い瞳。小さな机の上には酒瓶とショットグラスが一つ。――飲んでる最中のようだ。
ユウリは少しだけドキリと感じつつも、コートを脱いで壁にかけた。そうしてからレテミアをちらと見れば、未だに悪魔女はこちらをじっと見つめている。
居たたまれなさを覚えたユウリは、レテミアから少し距離を置いて、ベッドの端に腰かける。そうしてからおずおずと聞いた。
「あの、何かあったんですか?」
「ええ、少しね」
くすりと浅黒の頬を緩めるレテミア。その表情はいつもより少しだけ柔らかい。酔っている、のかもしれない。
「いつも通りこの街の娼館に行ったんだけどね? 『女とは商売しない』って言われちゃったのよねー」
「そ、そうですか。それはその……ええと……」
そもそも娼館に行った事すらないユウリでは曖昧に頷くことしかできない。
「男として生まれたかったわ。フルールと出会ってからはそう思うことが多いのよ?」
椅子の上で膝を抱えるレテミアは、くすくすと笑っている。
部屋の中では暖炉の火が小さな音を立てて燃えている。その熱気が妙に膨らんでいるような、居心地の悪さをユウリは感じた。
「ままならない人生よねえ」
「あの、酔ってます……か?」
「ままならない人生なのよ、ユウリ」
そっと。
音をなくしてレテミアは立ち上がる。するするとユウリに近づいていく。一歩一歩、浮かぶことなく、ゆっくり。
「最近、フルールと仲いいわね、あなた」
「え……え?」
何を言っているのだこの人は。
目の前に立つ悪魔女を見上げながら、ユウリは戸惑いの声しか上げられなかった。
黒い瞳が見下ろしてくる。それだけで腕も足も何も動けない。
「ねえ」
――あ、と声を上げたころには肩に手が触れていて。絹に触るかのような優しさと共にユウリは押し倒されていた。
体に跨る悪魔女。彼女の両腕がユウリの逃げ場をなくしている。濡れた瞳。唇。真っ白な歯――上の八重歯は常人よりも鋭く、長い。覗く赤い舌。ちろちろ動く、その動き……。ぞっとするほど艶のある表情が、顔が近づいて、
「なにやってんの」
魔法が解けるかのようにユウリは顔を上げた。部屋の入口。扉を開けて立っているのは、煙草を吸いながらこちらを見つめる少女――青い瞳はやけに醒めている。
あら、と上から小さな笑い声が聞こえてくる。急速にユウリは顔が赤くなっていく。
「なにやってんの、あんた」
もう一度、フルールは言った。
ユウリの心は恥と限界を覚えて、跨るレテミアを強引にどかすと自身のコートだけ手に持って、部屋の外へと駆けだした。
「しっ、失礼します!」
二人からは何も言われない。好都合だとユウリは思う。変に何か言われる方が、つらい。
息を切らしながら宿を出て、そうしてユウリは気づいた。
フルールは、レテミアしか見ていなかったと。
ユウリは行く当てもなく、ただ夜道を歩いていた。彼女の頬は林檎か薔薇のように赤い。自身でもそれを自覚していて、冬の夜の外気に触れて余計にそれが感じられるのが妙に気恥ずかしかった。
「はあ……」
いったい何だったんだろう。
右の頬に手をそっと当てながら、ユウリはそんなことを考える。
レテミアは何がしたかったのか。少なくともユウリは同性に押し倒されて、襲われかけた経験なんて初めてだ。
何もかもが理解できない。
あの悪魔女が同性愛者だと知ってはいるが、今までユウリに対してそういう態度を取らなかったというのに……。
そうやってユウリが悶々としながら街を歩いていると、だ。
とんとん――と彼女の小ぶりな肩が、後ろから叩かれる。ひょっとしてフルールさんかな、などとユウリは思ってしまった。心配して追いかけてくれたのかも……と。
「フルールさ――」
振り返ってみて、そんな希望が下らないものだとユウリは知った。
そこにいたのは目つきの悪い少女でもなければ、ユウリを押し倒した浅黒の悪魔女ですらない。――ただ、獲物を狩る目をした、男たちが三人いただけだ。
ユウリはその目に、浮かぶ感情に、魔物と同じ『淀み』を見た。
「お姉さん、ちょっと俺らの家来てよ」
直感的に一歩退く。おいおいと男の一人が肩を竦め、他の二人がげらげらと笑った。
体格差は歴然。逃げても暴漢たちは小鹿を狩るようにユウリを捕まえられるだろう。
「ひっ……」
ユウリの体を恐怖が襲う。恐れが心を縛り、同時に肉体を硬く強張らせる。
動かない――。
フルールに渡された、護身用の短刀だって持ち合わせているのに。知っているのに。これ以上に恐ろしい魔物を。人の内臓の色も、血の色も、死にざまの醜さも……。
そうだ、何を怖がる必要がある。
きっとフルールなら――彼女なら、何の躊躇もなく出来る……!
ユウリは目をつむりながら、手を震わせながら、それでもコートの内側に忍ばせてある短刀に手を伸ばして。無我夢中のまま短刀を突き出そうとした。
「――フルールさん……っ!」
「案ずるな。私がいる」
風を切り裂くような朗々とした声。あの少女の、煙草と酒で嗄れた声ではない。
赤銅の髪が馬の鬣じみて暗闇を流れる。
街灯の明かりが照らす艶やかな髪。風と共に横切っていく女を、ユウリは言葉をなくして見つめた。
最もユウリに近かった男の鳩尾に切迫した女の拳が直撃する。目を剥いて男がその場に倒れ伏し、他の暴漢たちが唐突なことに目を見張った。
そして、誰もが、その女を見た。
――皆既月食の瞳。鉄錆にも似た褐色の長髪。
女は、ただ美しかった。
「知り合いなんだ。だから、そういうのはその辺の溝に向かってにやってくれ」
女の、暴漢たちに向けての一言。その目の色にか大の男ひとりを一撃で潰した力量にか、男達は明確に顔を歪める。
「くっ……てめぇ、亜種か!」
「そうだ。で、だから何だ?」
無手の女は喉を鳴らす。
超然とした態度は余裕の表れか。ユウリが口元を手で抑え見つめる先、ナイフを構えて突進する男を赤眼の女はあっさりとかわして、そのままの流れで長い脚を軸に体をくるりと回った。
ぱっ、と翻る――。
独楽のように。
捩じ切れるような回転と共に放たれたのは、それこそ殺人の領域にある回し蹴りだった。男の後頭部を直撃した蹴りは、その勢いで男をユウリの後方にまで吹き飛ばす。ユウリが振り向くと、頭を蹴られた男はうつ伏せのまま沈黙している。僅かに痙攣しているがさすがに同情する気にはなれなかった。
「凡種は脆いな。それで神の孫だというのだからおかしな話だ」
息切れ一つない女の口調。残る暴漢一人を見つめる赤い瞳に容赦の色は無い。一瞬、仲間へと目を向けた最後の男は、躊躇いを見せつつもくるりと反転――そのまま一気に走り去っていった。
時間にして十秒にも満たない攻防。結果は一瞬だ。
「ま、運が良かったな。私が通りがかったのは本当に偶然だぞ?」
ユウリは呆然と己を救った赤目の女を、賭場でイカサマをしかけてきた女を見つめて――彼女の腕が切り裂かれていることにふと気づく。
慌てて近づいた。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
おそらくナイフと共に突進してきた男をかわした際の傷だ。女の上着、その右袖はざっくりと切り裂かれてしまっている。見える白い肌には赤い裂傷が血の珠を浮かばせていた。
だが、ユウリの眉根を詰めた顔とは対照的に、女は不思議そうに首をかしげるだけだった。ユウリの視線を追って己の右腕を見――そこでようやく怪我に気づいたらしい。軽薄に笑って見せる。
「ああ、これか。気にするほどではない」
「でも……! 私のせいで!」
ぱちぱちと瞬きをする女。その赤い瞳は理解できないとはっきり伝えている。ユウリは気にしなかった。コートのポケットからハンカチを取り出すと、女にそっと差し出す。
「せめてこれだけでも、使ってください」
「……。これを? 私に?」
ユウリからすればせめてもの感謝と謝罪だ。辛そうな表情のユウリに、だけど女の態度は妙にかみ合っていない。
女は目を丸くしてユウリを見つめていた。
「……君がヴィエに気に入られた理由がわかるよ」
軽く頭を掻きながら呟かれた言葉。
ヴィエ、と。その一言にユウリが固まる。え――と思わず言葉が口をついて、そのまま尋ねていた。
「貴女は……」
「私はイリス。
――君とは違う“人間”だから、この程度は気にしなくていい。
「私の体は炎熱で満ちている」
そう言った女、イリスは、自身の右腕にある切り傷に軽く手をかざす。瞬間だ、何かが燃えるような音がして、一瞬あたりに肉の燃える焦げ臭さが広まった。
ユウリがイリスの行いを自然と凝視していると、かざしていた手を離したイリスの右腕――そこには切り傷など存在しなかった。
服は裂かれていても、その肌は柔らかく潤っている。
治した、というのか。
何の処置もせずにそれこそ手品か何かのように。
「……すごい」
ユウリが感嘆の息を吐くと、イリスがけらけらと笑った。
それは手品師が客を前に浮かべる笑みだ。
「君は凡種にしては美しい。嫌いじゃないよ、君のこと」
言いつつイリスはユウリに背を向ける。ユウリが、あ、と手を伸ばしかけた。なぜ助けてくれたのか――なぜヴィエの名を知っているのか。ヴィエの言う『イリスさま』なのか。聞きたいことはたくさんあった。
だけど、女が振り返って見せた笑顔は。
「だから気を付けることだ。その美しさは様々なものを惹きつける」
それは全ての疑問を圧殺する表情だ。
何も言えないユウリを放って、女は手を振りながら夜道に姿を消していった。