ユウリがレテミアに押し倒された翌日の事だ。
宿の一階、食堂スペース内での早朝。その日も相変わらずの曇天で、いったいいつになれば快晴の青を見せてくれるのだろう?
「ユウリ。昨日はごめんね」
「えっ?」
目つきの悪さを珍しくやわらげて、パンをかじっていたフルールは暖かみのある言葉をユウリに告げた。思わずユウリはフルールを見つめてしまう。
頭一つ分身長の低いフルールはそんなユウリの視線を受け止めきれなかったのか、一度目線を逸らし、そうしてからそっとユウリを見直す。
「その、あたしの連れが迷惑かけて」
「ああ……レテミアさんのこと、ですか」
『昨日』――つまり、ユウリがレテミアに危うく襲われかけた時の事だ。
ユウリはにっこりと笑った。ホットコーヒーを一口飲んでから、
「気にしてないですから、大丈夫ですよ」
「そう……。なら、いいけど」
曖昧な言葉を言うフルール。彼女の視線は隣でうとうとと小舟を漕いでいるレテミアに向かっている。本来なら彼女が謝るべきことだ。だからユウリは、あまり気にしていない。
「でも本当に辛かったらすぐ言うのよ? いいわね?」
「え、ええ」
なんだろう。今日のこの人、やけに優しいな。
いつもは殺すとか殴るとかしか言わないのに……。
フルールのあまりに希少な優しさを訝しむのは、別にユウリの心が荒んでいるからではなく、本当に本当の意味でありえない事だからだ。
フルールは二枚目のパンにいちごのジャムを塗った。照る赤色に喜色満面かぶりつき、口端にジャムを付けたまま少女は口を開く。
「あのねユウリ。ユウリの心を思うとあたしも辛くなるのよ」
「え、へぇっ? あの、話が見えないというかよくわからないというか……」
「だってね、ほら、だってあんたさ……」
そっと、フルールはパンを皿に置き。
「あんた処女なのに、初めて押し倒されたのが悪魔女だなんて……」
「――ちょっ、ちょっと」
思わずユウリはフルールの言葉を覆い隠すように遮った。一瞬、周囲の宿泊客らがぎょっとした目をよこしたからだ。
え、え? と言った本人はきょとんとしている。その純粋な表情はどこかヴィエに似ていて――いや、今はそれどころじゃなく!
「なんで私が処、っていうかその、そういう何ていうかそういう扱いなんですか……!」
「だって貴族の娘じゃない。婚前交渉はアウトなんでしょ? えっセーフなの!?」
「う、ううっ……! だ、だめですけど……!!」
「処女だからって別に恥ずかしがることないわよ。まあ? あんたの歳からするとちょっと遅いかな? とは思うけどねー!」
けらけら笑われ、ユウリの顔は噴火寸前の火山のようになった。
眠気眼で紅茶を飲むレテミアの横で、少女は自信ありげに胸を張る。
「安心しなさい。あたし、旅をしていろいろな愛や恋の物語を見てきたわ。何でも相談してくれていいのよ?」
「いえ……大丈夫ですから……」
「ほらほらユウリ、なにか相談があるでしょう?」
「ないですから! 本当に! 結構です!」
なに怒ってんのよー? とフルールは首をかしげながら三枚目のパンをむしゃむしゃ食べだす。
余計なお世話だと思った。
朝食を終えた三人は、一度部屋に戻って荷物をまとめた。この宿は今日チェックアウトする予定だ。そうしてこの街を出、歩きの旅を三日。そうすればユウリの故郷に到着する。
あらかた荷物をまとめ終え、あとはチェックアウトまでゆっくりしよう。そんな雰囲気が流れ出した時だった。
フルールが、いつも通り暴力的に声を張り上げた。
「ギャンブルいくわよ!」
一応、ユウリは渋った。レテミアはどうでもよさそうな顔をしていた。ひょっとすると不機嫌だったかもしれない。
それでもフルールは強引にユウリとレテミアを連れて街に出た。よっぽどやる気があるらしい。ユウリはげんなりしつつも、先頭を歩く少女に尋ねる。
「結局昨日はどうだったんですか?」
「ん? 負けたわよ?」
振り返った顔は実にけろっとしていた。まるで罪悪感のかけらもない……。
「……ところで不思議なんですけど、フルールさんってお小遣い制なんですよね?」
「そーよー」
と、爪を眺めつつ頷くレテミア。
「ならなぜそんなギャンブルに使うお金があるんですか?」
「え? ユウリ、金の稼ぎ方知らないの?」
それは年下の子供がする、純粋な驚きの顔に似ている。だから余計にユウリはイラっとした。フルールは人の感情を叩き起こすことが非常に得意だ。
じゃあ何なんですか? とユウリは刺々しい視線で問う。フルールはふふんと鼻を鳴らして得意げになった。口からは紫煙が塊となって吐き出される。
「金なんてその辺のゴロツキ脅せばいくらでも手に入るじゃない」
「……」
世間一般ではそれを犯罪と言い、カツアゲと呼ぶ。
「……いいんですかレテミアさん」
「んー。まあ旅費を空にされるよりはいいし、大丈夫じゃないかしら」
つまり旅費に手を付けられたことがあると、そう言っている。だからお小遣い制で、だからフルールのカツアゲも恫喝も容認しているのだ。
だがそれ以上に、レテミアはフルールに甘すぎるのではないかとユウリは考える。まあこの二人の関係性を考えれば仕方ないのかもしれないが。
「あたし流の錬金術よ。すごいでしょ」
――すごくないです。
全力でそう言いたかったが、命の恩人、命の恩人、と心を無にすることでぐっとこらえるユウリ。
「で、でもでも、負け続けてるならやる意味なんてないですよ。きっと」
「安心なさい。こっちにも手があるわ」
やがて三人は目当ての賭博場にたどり着く。まだ正午にもならないというのに、そこは活気で満ちていた。待ち合わせだろうか、男が三人店の前でたむろしている。彼らはフルール達が近づくと、その視線を少女へと集中させた。軽く手を振る者までいる。
「……。」
と、明らかにレテミアの表情はよろしくないが、フルールは機嫌よさげに笑みを浮かべて言い放った。
「――今日はこいつらと手を組んでイカサマをしかけるのよ」
ユウリは思う。
この人いつか、くだらない理由で死ぬな、と。
実際、賭場の席でフルール達の仕組んだイカサマは実に上手くいっていた。
本当に。
上手くいきすぎて怪しまれ、オーナーが出てくるほどだ。
「……」
「……」
その席、そして更に言えば見物客として立っているユウリとレテミアにも、非常に重い空気が漂っていた。いや、ユウリとレテミアはまだいい。問題は席に座ってゲームに参加しているフルール達だ。
儲けていた稼ぎの大半は、既に店側へと戻ってしまっている。これでは肥えた豚と同じことだ。
フルールの首筋にはじんわりとした汗が浮かんでいた。
「あのお」
「なんだね?」
少女の質問に答えたのは、ディーラーとして立つ壮年の男――この賭場のオーナーだ。
「もう帰っていいかしら?」
「ふむ……」
男は顎をそっと撫でながら、その瞳で――蜥蜴にも似た爬虫類の眼で、少女を見据える。
「まるで、十分儲けたから、ボロが出ないようにそろそろ帰りたいと……そう言っているように聞こえるな」
「……。……ちょっとタンマ。ストップ。煙草吸わせて」
手持ちの札を伏せたまま、フルールはゆっくりと紙箱を取り出す。「どうぞ」とオーナーの男が肩を竦め、フルールはぷるぷる震えながら煙草を吸いだした。
ユウリはもう何も言えない。
他の椅子に座る男達も死にそうなほど悲惨な顔で、目をぎゅっと瞑りながら煙草を吸うフルールを見つめていた。『どうするんだ』、と言いたげに。たぶん彼らもこのまま店を出たら翌日五体満足に生きていないことを理解しているのだ。だから、嫌でも席から離れられない。
「自業自得ねぇ」
レテミアは呆れたように言う。ユウリも同じ意見だった。
フルールのイカサマから始まる絶体絶命の危機は、彼女の吸う煙草が灰になる度、終末へと向かっていった。
そんな時だ。
「――上位の龍人か。ふん、珍しい」
その女声はユウリ達の後ろから。二人が振り向くと、同時に目を見張った。
レテミアの頬がひびの入ったガラスのように硬直する。女はまるで気にせず二人の傍を横切って、一つ空いていた空席に手を掛けた。
ようやくフルールも何事かと女に目を向ける。
そして蒼い瞳と赤の瞳が、交錯した。
「あんた……なんで、ここに」
「今は私の事などどうでもいいはずだ、フルール」
女――イリスはにこりと笑って、その皆既月食の瞳をオーナーに向ける。
その笑みは己以外の全てを圧殺し、叩き潰すだけの熾烈なもの。言ってしまえば、そう。
「私も混ぜろよ」
それは捕食者が浮かべる顔だ。