「でっか」
と、フルールが目を点にして言った。そんな彼女は全裸でじゃぶじゃぶと足をばたつかせ、水面を大きく揺らしている。
もわもわと立ち込める湯気。檜の香り。浴槽の端に置いた盆と、盃、酒。じんわりと体を溶かすように温める湯水。
それはとても大きな浴場だった。
フルールは思わず呟いてしまう。
「はー。すっげぇなあ」
「口調崩れてるわよー」
さらっと指摘するのはフルールの近くでぷかぷかと浮くレテミアだった。長い黒髪は頭の上で団子になってまとめられている。ちなみに毬のような胸も湯の中で揺れていた。
うるさいわね、と盃を口に寄せながらフルールは愚痴る。そんな様子を少し離れた場所でユウリが笑った。
なぜ三人が湯舟に浸かっているかと言うと、とりあえず旅の疲れを癒そうかという話になって、真っ先にフルール達は風呂を進められた。そんなわけで風呂である。
「これで可愛い女の子が体を洗ってくれでもしたら最高ねー」
と。浮き輪もないのに水面を浮いていたフルールの言葉に、微笑みを浮かべながら近寄る侍女が一人。うら若きその侍女は風呂場なためか柔らかい素足を晒している。
「あの。お体、洗います」
「えっ、貴女が私の体を……!?」
「はい。奥様から丁寧にもてなすようにと仰せつかってますので」
「……」
レテミアが酔漢みたいな目つきで侍女を見つめた。
主にむちむちの素足に視線が集中している。
フルールが盛大な舌打ちをするのも無視して、レテミアは浴槽を出る。後ろに立った侍女に体を洗われていく中で至福の声を漏らした。
「はー。すっごいわあ……」
「目が気持ち悪いわよあんた」
半眼でフルールが言ってもレテミアは「ほわああ……」とかよくわからない呟きをしている。だめだありゃ、と見切りをつけたフルールは酒に集中することにした。
ユウリが酒瓶片手に苦笑いで近寄ってくる。
「あの、これ。お母さんが持って行けって」
「んん。おお、酒じゃない、酒」
透明なガラス瓶に入っているのは向こうが透けるほどの清酒。栓を抜けば酒気が湯気に混じり、息をするだけで血の巡りを速めているようだった。
かなりきつい酒だ。ぺろりと唇を舐めたフルールがさっそく盃に酒を満たし、口に運ぶ。
喉が焼け付く辛みと、全身の血液が沸騰するような感覚。フルールは「くぅー」とうめいて目をぱちぱちさせてしまう。
「飲んだことない酒ね」
「地酒です。ここら一帯は土地が肥えているので、何でも美味しく育つんですよ」
「ほほー」
そう言えば屋敷に着くまでに見たここら一帯の農地はどこも豊作だった。こんな、四季もほとんど薄れた世界だと言うのに……。
フルールは清酒をもう一口。
立ち込める湯気。良い香りのする風呂。至れり尽くせりの扱い。美味い酒。
ここが天国か……。
「ユウリ」
「は、はい?」
「あたし達、これからも仲良くやっていきましょうね……!」
フルールは実利目当ての汚い眼差しでユウリを見つめた。
本人的には熱い友情をたたえた眼差しだったが、世俗に塗れすぎた少女の目つきは非常に残念なものだった。ユウリはあははと笑い声を上げただけで何も言おうとしないでいる。フルール達との短い旅でそれなりに世間というものを知ったらしい。
チッ、と舌打ちを放ったフルールの視界の端。
浴場の傍ではレテミアが侍女を押し倒していた。
「あっ、レテミア様、困りますそんなところを触られては……!」
「違うわ、これは事故よ、事故。泡で足が滑ったの……!!!!」
「レテミア様ぁ――――!」
フルールは何も言わずに盆を投げた。
目が血走っているレテミアの側頭部に直撃し、そのまま悪魔女を気絶させる。
中々に力のこもった一撃だった。
風呂ですっきりしたフルールは、頬を上気させながら屋敷の廊下を歩く。彼女の顔には満面の笑みが浮かんでいた。
「やー! こんな生活なら一生してても飽きないわねー!」
上機嫌な事には理由がある。
風呂に浸かりながらしこたま酒を飲んだからだ。それでも倒せたり吐いたりせず陽気さを保っているあたり酒に強い少女だった。
「う、うう……頭が痛いわ……私はいったいなにを……」
「大丈夫ですか? レテミアさん」
「いいの……大丈夫よ……」
しかし屋敷の侍女に欲情して押し倒したレテミアは頭を押さえて目元を震わせている。誰に気絶させられたのか覚えていないらしい。ユウリは誰のせいなのか言おうかと考えたが、まあいいか、と思い直した。フルールとレテミアの事だし、この程度で険悪になる仲でもないはずだ。
屋敷の侍女が言うには夕食の用意ができるまでもうしばらく時間がかかるそうなので、客室でゆっくりくつろいでほしいとのこと。フルールもレテミアも、ついでにユウリも、客室に入ることにした。
「おおー、ほんとに金持ちなのねー」
「いやあそれほどでも……」
豪奢な調度品が嫌味にならない程度に配置されたその部屋は、キングサイズの天蓋付きベッドがある。それを見るなりフルールが「きゃほー!」とベッドに飛び込んだ。
ぽよよん、と少女の小柄な体が大きく跳ねる。おおっ、とフルールが蒼い目を輝かせてレテミアを見る。
「レテ、ねっ、レテッ。あんたもこっち来なさいよ! ふかふかでぽよぽよよ、このベッド」
「ええ。――! やだなにこれバネでも入ってるの……!?」
普通、賓客というのは家の者に迷惑がかからないよう大人しくするものだが、この二人にはそんなルールも通用しない。客室まで連れてきた侍女が目を丸くするのを見て、ユウリが笑った。
「……楽しんでますね、お二人とも」
「ああーん? 人生楽しまなきゃ損じゃないのよ」
でも、とユウリは思う。
イリスの事だ。ヴィエもそう。
フルールとレテミアには旅をし続けないといけない理由があって、その理由というのが、イリスという亜種の女なのだ。
イリスが二人の前に現れて以降、彼女らはイリスの事を話題に挙げなかった。まるで忌避しているかのような拒絶ぶりで、ユウリは困惑しつつも忘れたようにふるまうことしか出来なかった。
「よーっし、レテ! 枕投げやるわよ枕投げ」
「あら、いいわよぉ?」
フルールもレテミアも、楽しい事を楽しもうとしている。現に今も枕投げ――ではなく枕で殴り合いをしている。二人とも本気で殴り合っているように見えるが、おそらく楽しんでいる……たぶん……。
だけどそれは逃避ではないかとユウリは思うのだ。
現実に触れることを嫌がっているだけではないか、と。
ユウリに出来ることなどほとんどないのだろうけど。
「いかがでしたかしら」
と。ユウリが楽しむ二人に暗い気持ちを抱えていると、背後から品のある静かな声が。振り向けばそこにはユウリの母親――リーナルがいた。
彼女の背後には二本の剣を持つ傍付きの侍女がいる。
リーナルは客室を覗いた。フルールとレテミアが枕投げに疲れ果て、荒い息を吐いていた。
「ご満足いただけているようで何より」
にこっと笑ったリーナル。どこが? とユウリは首をかしげた。
フルールが入口に佇むリーナルに座った目をする。枕投げに本気になりすぎだとユウリは思った。
「で? なに?」
「明日には謝恩も含めたパーティを開くつもりですので、その報告に」
わざわざ屋敷の主が伝えに来ることではない――それだけ恩義を感じているということなのか、どうなのか。それだけ言うとリーナルは客室を出て行った。
去り際、ユウリを見やるリーナル。
「ユーリリア。こちらへ」
「あ、はい」
母親に言われて客室を出る娘。剣持ちの侍女も同様にして二人の背後へ続く。
リーナルは、にこにこと目を緩めながらユウリに聞いた。
「どうだったの。あのお二人との旅は」
「えっと……どうって言われても、その」
こんなところで話すほどすぐに終わる内容でもない。少しの間悩んでいたユウリは、やがてぽつりと漏らす。
「なんていうか、凄かった」
「すごかった?」
「そう。凄かったの。何もかもが」
何も伝わらない言葉だ。気の弱いユウリはあまり主張をしない。少なくとも、フルール達と旅に出るまでは。
娘の様々な感慨が詰まった一言に、母親は僅かに目を見開く。だけどすぐに笑みを浮かべて言った。
「――なんだか少しだけ背が伸びたのかしら」
「お母さん?」
急に、なんなのか。
ユウリは片眉を上げる。
「いいえ。なんでも」
リーナルは娘の疑問に取り合わない。いつもそうだった。ユウリには理解しがたいところで己の母親は生きている。その事に小さな寂しさと、懐かしさをユウリは感じた。
「私もね、少し張り切ってるのよ。あなたがお友達を家に連れてくるなんて、めったなことではないもの」
「お友達って……そんなんじゃないよ、もう」
じゃあ何が適切なのかしら? とリーナルはくすくす笑って廊下を歩いていく。剣持ちの侍女も、ユウリに深々と一礼をして、リーナルの後を追った。
一人取り残されたユウリは、しばらく考えてしまった。
フルールとレテミア、か。
この二人とユウリの関係を言葉にするなら……うーん。
「カツアゲしたされたっていうか……何ていうか」
仲間とも友人とも呼び難い。そうユウリは思う。
「ユウリ―! ユウリ、ユウリちょ、ちょっと助け、ユウリ助けなさい! レテミアがあたしを枕で殴るの! 痛い! あんた本気でやってんじゃないわよ頭叩くな死ね!!」
「はーい! 今手伝います!」
実家まで帰ってきても、フルールの威勢の良さは変わらない。
ユウリは大股歩きになって客室の扉を勢いよく開け――直後、その顔面に枕が直撃した。
「お、当たった。にひひ、やっぱあんた騙しやすいわ!」
「さすがフルールねえ。人を罠にハメるのと怒らせることに関しては天才だわ……」
「……」
ユウリはどうやら、謀られたらしい。ずるりと枕が床に落ちていく。二人に付いていた侍女があわあわとしているのを傍目に、ユウリは思う。
「私、奴隷か何かじゃ……」