「フルール様はお肌も非常にお綺麗ですし、簡単に下地を整えるだけで映えますね」
頬を柔らかいブラシがひらひらと舞う。
鏡の中の少女の頬が僅かだけ桃色に染め上げられる。既にマスカラもリップも丁寧に、容貌の幼さを潰さないよう自然な調子で施されている。
しかし鏡に映る少女は不満そうだ。
「あのさー」
と、フルールは自らの髪を梳きだした背後の侍女に言う。なんでしょうか? とにこにこ顔の侍女が首を傾げた。その、人形にドレスを着せて楽しむ少女じみた笑顔に、フルールはつい目をそらしてしまう。
「あたし、こういうのは絶対似合わないと思うのよねぇ……」
「あら。お似合いですよ、フルール様」
「そうかあ。そうかなあ……」
呟くフルールはもう一度鏡の中の少女を見つめた。
――化粧っ気のない顔もこうまで変わるのか。
自分で言うのもあれだが、十人中十三人くらい可愛いと言いそうな顔だと思う。
「あたし美少女だったかー……」
「あらあら。自覚なかったのですか?」
「いや、そこそこ可愛い顔してるとは思ってたけど、化粧したら超絶可愛くなるとは思わなかったなって」
後ろの侍女があまりの言葉に苦笑した。
フルールは煙草吸いたいな、と思いながらもう一度鏡を見る。
品よく仕立てられた白のブラウス。首元の赤いリボン。えんじ色で染められた重い質感のスカート。その恰好はまるで――。
「どこの金持ちお嬢様よこいつ。毎日紅茶の香り鼻から出してそうね」
ケッ、といつもの調子で毒を吐くが、その仕草も少女が背伸びしたがっているみたいで決まらない。
いつもの、地味で機能性しか重視されていない分厚いコートとか、毛羽立ったマフラーとか、砂汚れにまみれたブーツとか、そういう恰好なら映えるだろうに。
「こちらも着てみてはいかがでしょう? とても似合うと思います」
侍女がその手に持つドレスを見て、『金持ちってこんな服ばっか着てんのね、はークソ』とフルールは言いたくなったが負け惜しみにしかならないと分かっていたので、小さな舌打ちでごまかした。
煙草吸いたい。
「……あんたさ、あたしをオモチャかなんかと思ってない?」
「まさか、とんでもない」
ドレス片手に侍女は首を振る。その態度にはやはり子供を相手にする女特有のやさしさが滲んでいる。
「煙草ー……煙草、煙草吸いたいわすっごく」
いつもとは違う環境に苛立ちが募っているのか、フルールの右ひざが勝手に揺れ出した。と、部屋の扉が開かれる。――見ればそこには深い青色のドレスを着たレテミアが立っていた。ふわふわとした黒髪は美しく纏められている。
「ん、レテ」
「そっちは準備すんだ?」
こつこつとヒールの入った靴音を鳴らしながらレテミアが歩く。
煽情的な腰の揺れ。ドレスに包まれた長い脚がいちいちシルエットを強調してくる。まさに大人の女、といった感じだ。
「見りゃわかるでしょ。今着せ替え人形よ」
「あら面白い。あなたお人形みたいな見た目してるものねえ。目つきは最悪だけど」
「けっ。うっさいわね死ね」
そんな事言うなら――とフルールは遠慮なくジロジロとレテミアの恰好をねめつけた。
「あんたのそのドレス胸元開きすぎじゃない? 背中見せすぎじゃない? 尻の割れ目見えそうよ」
「それが色気ってやつよん」
ねぇ? と悪魔女は後ろを軽く見やる。そこにはレテミアの支度をしたのだろう若い侍女がいた――頬を赤らめて、うなじに髪をはりつかせて。
しかも妙に息が荒いのは何故か。
色々察したフルールは嫌悪を顔に浮かべた。
「尻も胸もぺったんこなフルールの体じゃ一生無理な見せ方よねー」
「死んどけレズ悪魔」
レテミアとて旅の最中は地味な恰好をしている。いつもとは違う姿になろうと、二人の罵りあいに変わりはなかった。
さて。
そんなこんなでパーティだ。
夜。
屋敷の巨大な一室にて。
「では、私の娘ユーリリアの無事の帰還を祝して――」
乾杯! とユウリの父親がグラスを掲げれば、各々和やかに声を上げた。急な催しだったので付き合いの深い商人、その家族など、パーティの参加者は少ない。それでも主催者の娘、そして今回のパーティの主役ということもあって、ユウリはたくさんの人に囲まれていた。
(レテミアさんと、フルールさんは……)
ユウリに話しかける人たちの相手をしながら、二人をきょろきょろと探す。レテミアはすぐに見つかった。どうやらフルールほどの見た目をした少女との会話に夢中になっているらしい。あの人らしいというか、なんというか。
(フルールさん、いない……)
フルールはというと、見つからなかった。そのうち人の壁ができてしまって、ユウリは二人を探すことをあきらめる。
「ユーリリア様。今回は災難でしたなあ」
「もし何かあったら私の家に来るのよ? 同じ貴族同士、助け合わないとね?」
今後とも貴族との関係を大事にしたい人々でユウリの周りは囲まれていた。彼らのユウリの身を案じた言葉と、無事を祝う言葉たち。リーナルやユウリの父親の選んだ人々なだけあって、そこに悪人はいない。だから別に苦痛と言うわけではないのに……。
(あれ?)
どうしようもなく、ユウリは息苦しさを感じた。丁寧な言葉と酒の匂いにか。それとも、皆が一様に同じ笑顔を浮かべているからなのか――。
まさか。
人の密度に酔ったのかもしれないな、と思い直す。
だからユウリは微笑んで、周囲の人々に言った。
「申し訳ありません。少し、酔ってしまったみたいで。夜風に当たりたいのです」
はっきりとした物言いに反応したのはリーナルとユウリの父親の二人だけだ。
人向けの朗らかな笑顔を浮かべていたリーナルが一瞬だけ表情を消してユウリを見る。その蒼い瞳が見つめる己が娘に、何を感じているのか。
リーナルが前に出て、ユウリと立ち代るようにして人々の中心に立った。母と娘の交代――ユウリは実に自然な形で人々の輪から抜け出せた。
自分でも驚くほどにあっさりと。
「……な、なんか、私変わったのかしら」
昔なら、上手に自分の意思を主張できなかった……気がする。
そんな意外な成長に気づきつつも、実際のところ冷たい風に当たりたい気分だったので、ユウリはパーティ会場から抜け出してバルコニーに移る。
するとそこには。
「ぁ……フルールさん」
「あー? あん? どうしたのよ主役のくせに抜け出して」
と、ワイングラス片手に外の風景を眺めていた少女が一人だけ。レテミアもいない。
ユウリがフルールと会うのは、昨日フルールに枕を投げつけられて以降の事になる。昨日見た姿は風呂上がりのものだったので、ユウリはかなり驚いてしまっていた。――主にそのナチュラルメイクと、彼女が着ていた服装に、だ。
深窓の令嬢といった言葉が実に似合う落ち着いた服。それはユウリの記憶に間違いさえなければ、
「その服、私が小さいころのものです」
「ええっ」
フルールがわかりやすく狼狽える。
「じゃあなにあたしはあんたがチビの時のを着せられたってこと?」
「で、ですけどその、とても大事に保管していたと思うので……。デザインとかもちょっと古いかもしれませんがっ、とても、とても似合っているかと!」
「……なによ急に鼻息荒くしちゃって、気持ち悪いわね」
ユウリには『家の者が選んだ服をわざわざ貶めるだけでは駄目だ』という意図があったのだが、フルールには単に『鼻息荒く褒めちぎる気持ち悪い女』にしか見えなかったらしい。少しユウリの心が傷つく――だけど同時に、女は自然と笑みを浮かべていた。
「……似合ってますよ? 私より」
「そーいう問題じゃないっての。ガキ扱いされてるのが不満ってだけ」
フルールという少女の傍に居るからなのか。
息苦しさも何も感じない。
通り過ぎていく風のような、そんな心地がするのだ。
(――今なら)
そんな自由さがユウリに小さな決意を抱かせた。瞬間の迷いも振り切って、ユウリはそっとフルールに並ぶ。
「あの」
ユウリは意を決して口を開く。隣に立つ少女に。
だけどフルールは、ユウリの言葉を待たずに口を開いていた。
「――あんたが気にすることじゃないわよ」
それは、あまりにも、察しすぎた一言だった。
フルールはこちらを見ようとしない。欄干に頬杖をついて夜空ばかり見上げている。
「……どうして」
「ユウリあんた、ずっと戸惑ってる感じがしたから。知りたがってるけど、怖いって、そんな風に感じたから」
何もかも見透かされている。ユウリはそう思った。
そう、ユウリは知りたいのだ。
イリスのこと。イリスという女と、フルールという少女と、レテミアという悪魔女の関係を。かつて何があったのかを――
だけど、ユウリは、同時に恐れているから。知ることで自分だけでなく周りの人――家族にも“何か”が牙を剥くと感覚で理解しているから。
だから、フルールは、決してユウリ
「気負う必要なんてない」
フルールは、ゆったりと広がるスカートの中に手を突っ込むと、紙箱を取り出す。さっさと火を灯してしまうと手すりに背中を預けて煙草を吹かしだした。
令嬢風の姿で咥える煙草の違和感は、だけど、フルールの浮かべる憂う表情が奇妙な美しさを醸し出している。
「あんたは自分の家に帰ってこれて、親とも会えて、こうしてまたいつも通りの世界を手に入れたんだもの。大事にしなさい」
夜の暗がり。
伸びる紫煙。
小さな灯りに照らされる伏し目がちな表情と、風が揺らす毛先。
――ユウリは思わず瞬きをした。
「フルールさんって、私より幼く見えるのに、とっても大人ですよね。お姉さんみたいな……」
「そりゃあ長生きしてるもの。あんたなんて赤ん坊と同じよ同じー」
つい、といった様子で少女が笑う。歯を見せた笑みに、ユウリも頷きながら笑って見せた。
怖い話はもう、閉じられてしまったのだろう。フルールはいつものおちゃらけた雰囲気を見せて、ユウリに近寄る余裕を与えてしまう。
ああ、何もかもがこの人の手の上なんだな――ユウリは小さな諦めを感じた。
「ま、寂しくなったらあたしを姉だと思って頼ればいいのよ。あんたまだまだビビリなんだから」
……そう。
そうとも。
ユウリは――ユーリリアは、非常に小さな、旅をした。とても短い冒険をした。
煙草の臭いばかりする旅を。
刺激的で、自由な旅を。
笑顔だけではない世界に触れても、それを望むことは許されないとユーリリアはわかっている。
もう終わってしまったのだ――もう二度と始まらないのだ。
「ええ。ええ、とっても弱虫だから、だからたまには、また助けてくださいね。守ってくださいね、フルールさん」
「もちろん。ま、金はもらうけどねー」
ユーリリアが笑う。
フルールもニヤリと笑う。
「……」
そんな二人の様子を遠くから、リーナルがじっと見つめていることには、二人とも気づかなかった。