実はユウリ、朝が苦手だったりする。
だというのにその日の早朝、ユウリはぱちりと目を覚ましてしまった。冬のひんやりとした冷気が室内を満たしていて、布団の人肌に近い温もりがユウリの心を惰眠へと惑わす。――フルール達との旅に出る前なら、きっと二度寝をしていたに違いない。
だが、旅を終えた己は、きっとどこか変わったのだ。
「ユーリリアお嬢様、朝でございます」
「ええ。起きてるわ」
朝の支度を手伝う侍女が定刻通りにノックをする。ユウリはそれに答えた。
扉を開けて入ってくるのは一人の侍女。幼い顔立ちは年齢相応だろう――その侍女は親の代から屋敷に努めており、そのためユウリとも小さなころから付き合いがあった。言ってしまえばユウリの幼馴染兼お傍付きの侍女、といったところだ。
未だ成人にはなっていない少女は、驚きからか目を丸くしてユウリを見つめている。
「寝ていてくれて構いませんのに」
「人に寝顔を見せる趣味はありません」
「もーっ」
ふふんと胸を張れば、残念そうに眉根を詰める幼馴染の侍女。だがすぐに侍女らしい仕事をする者の顔つきに戻る。
「とにかく。ユーリリアお嬢様、お風呂の準備ができております。こちらへどうぞ」
「わかった」
ベッドからするりと抜け出て、ユウリは冬の朝の冷たさに身を震わせた。それでもその寒さに抵抗は感じない。あるがままを受け入れることができている。
幼馴染の侍女も朝の冷えに不満を言わないユウリが不思議なのか、しきりに「大丈夫ですか? 風邪ですか?」と聞いてきた。
風邪でもなんでもないのだ、本当に。
服を脱いで、眠気をほぐす程度にぬるいお湯に身を浸す。朝からお風呂に入れるなんて……と旅のことを思い出して少し感慨ふけるユウリ。貴族の、それも上位に入るユウリの家系ならさして珍しいことでもないのだが、旅の経験がユウリの感覚を変えてしまっていた。
浴槽の壁に背を預けるユウリの背後では、床に膝をついた侍女が、ユウリの長い金髪に櫛を入れて梳かしている。そのゆったりとした櫛の流れがなんだか懐かしい。
「ユーリリアお嬢様、珍しいですね。朝早くから起きているだなんて……」
朝、苦手だったのに。そう呟いた侍女に、ユウリは顔を向けずに苦笑した。
「うーん……まあ、フルールさん達と旅をしているときは、どうしても朝早くから行動していたからかしらね」
「ふーん。フルールさん達、ですか」
侍女の口調はどこか硬い。気にするほどでもないが。
「聞いて? ひどいのよ、フルールさんたら。寝ている私を蹴って叩き起こすんだから……でも、今にして思うと、楽しかったのかも」
「……最近のユーリリアお嬢様は、いつもいつも、あのお客人の方々の話ばかりです」
ぷーっ、と侍女が頬を膨らませているのがユウリにはわかった。嫉妬? されているらしい。
ぐい、と少しだけ強く髪を引かれる。
「これからもこの家にいるのでしょう? ですよね? ねっ、ねっ、ユーリリアお嬢様っ」
「え、ええ。それはそうだろうけど……」
リーナルからも『しばらくはこの家にいなさい』と言われているし、反対する理由もない。屋敷の者もそれを望んでいる。だからユウリは頷いて見せた。背後の侍女は、明らかに安心した様子で息を吐いている。
この家は、居心地がいいな。居心地のいい場所だったんだ。
そうユウリは気づいた。
さて、朝風呂を終えたユウリは、朝食までもうしばらく時間があるとのことなので、侍女に紅茶を淹れるよう頼むことにした。幼馴染の侍女がいれる紅茶は格別に美味しいのだ。
ユウリの自室の前で、侍女は小首をかしげる。
「では、とっても美味しい紅茶を淹れるので、待ちわびていてくださいねっ。ユーリリアお嬢様?」
「ええ。お願い。楽しみ」
満面の笑みで侍女は頭を下げる。ユウリが手を振れば、鼻歌交じりに調理室へと歩いていった。久々の紅茶だと思うとユウリも自然と頬が緩む。
気持ちのいい朝だなあ――そう思いながら、ユウリは部屋の扉を開けて。
そこに、赤褐色の髪と赤い目をした女と。
ふわふわの金髪をした少女がいた。
「や」
手を上げる長身の女。ユウリは喉から悲鳴が漏れ出るのを止められなかった。
――イリス。そして、ヴィエ。
二人が、なぜか、ユウリの部屋にいる。
「……な、何の用ですか」
「そう警戒するなよ。取って食わんさ」
どこから入ってきたのか。警戒を滲ませるユウリに、イリスは軽く笑うだけだ。確かにその態度には敵意は感じられない。ユウリには、であるが。
と。ユウリが突然のことに部屋の前で固まっていると、イリスの隣にいたヴィエが我慢できない様子でこちらに駆け寄ってきた。
「ユーウーリーっ!」
止まることもせずにユウリに突進。そのままユウリの腰に抱き着くヴィエ。ぐりぐりと押し付けられる小さな額の感触が、こそばゆい。
「会いたかったです……!」
「そ、そう。ヴィエちゃん、お久しぶり」
はい! と元気よくヴィエは挨拶をする。そしてまた抱き着いてきた。ヴィエの純粋さは、彼女の凶暴性がわかっていたとしても、ユウリには邪険に扱えないだけのものだった。そっとヴィエの小さな背中を撫でるユウリを、イリスは目を細めて見やる。
「ヴィエがどうしても会いたいと言うのでな。ついでに来た」
「……遊びに来るなら、ちゃんと玄関から入ってきてください」
「おお? 言うじゃないか。ふふん、次からそうするよ」
言外に笑われている。そうわかっても、ユウリは特にそこを突かない。相手は亜種、その王だ。藪を突いて出てくるのは蛇どころではない。そしてイリスが所詮ただの人間であるユウリ一人の言葉に耳を傾けるとも思えなかった。
「ユウリ、ユウリっ。ユウリのおうちは大きいですね!」
人を食った態度のイリスとは対照的で、純粋にヴィエは興奮しきった様子だ。
ユウリの部屋のあちらこちらを見まわしては、わー、だとか、すごい、と呟きを漏らしている。思わずユウリも緊張を解いて笑んでしまうほど。
そんなヴィエをたしなめるように、イリスは冷たく一言、
「ヴィエ。行け」
「あ、はい。……ユウリ、残念ですけど、また後で会いましょうねー」
名を呼ばれたヴィエは、どこかしゅんとした様子でユウリに手を振り、とんとんと右の靴の踵を鳴らす。それだけでヴィエの周囲に小さな円陣が生まれ、ヴィエの姿を消してしまった。
「今のは――ヴィエちゃんは、どこへ」
「別に私が行ってもいいけど、なに、ヴィエ一人でも十分だろう。あれは役に立つ」
ユウリとイリスの言葉はかみ合わない。イリスの真意を探ろうとしたユウリは、すぐに彼女の意図に気づいた。
「……『ついでに』? そう、言いましたね、イリスさん」
「ああ。ここにいるのだろう? フルールたちが」
「……」
「安心してくれよ。別に、君やその家族たちに危害は加えない。私の目的はフルールだけだ」
だから『ついで』なんだよ、とイリスは付け足した。本当に目的はフルールだけなのだとユウリにはなんとなくわかる。彼女らの事情までは知らないが、きっと。
「だが、あいつと真っ向からぶつかれば、影響は測りしれないな?」
「何が言いたいんですか」
「――フルールを説得してくれないか?」
何を、とユウリは女の心の奥底を覗き込むように見つめる。
「説得できないなら、どこか被害が出ても問題のない場所まで誘導してほしい」
「……」
「約束してくれるなら、ヴィエを呼び戻そう。まだ時間の余裕はあるよ」
ユウリは答えない。答えをすぐさま返すにはあまりにも酷な提案だった。
じっと佇むユウリの心情をわかっているのか、イリスは腰に手を当てて頬を歪める。好戦的な笑みで、鋭い八重歯が覗けた。
「ヴィエは愚かな娘だよ? 加減を知らない。街を一つ壊滅させたそうじゃないか」
「……脅し、ですか」
「だな」
イリス本人はユウリや屋敷の者達に危害を加える気がない。だが、いまだ精神の未熟なヴィエでは、彼女の呼び出す怪物たちは、何をするかわからない――そう言っている。そしてヴィエを手懐けているのは誰なのかも、十分にユウリは理解している。
今、この屋敷全体の運命が、ユウリの発言にかかっているのだ。
その事実を理解しても尚、ユウリの背に震えは走らなかった。――ユウリは浅く息を吐き、そっと目をつむる。
「……できません」
「ほう、――なぜ?」
イリスの声が鋭くなるのがわかった。瞼を上げる勇気はない。だけど、言葉に怯えも臆しも浮かばない。
「フルールさんには、恩があるからです。そして、私が、貴族の娘だからです。貴族は恩義を忘れない。報いることはあっても仇にすることなど、ありえません」
「……」
ふうん、とイリスが声を漏らした。それは遊び相手が先に帰ってしまったときのような、そんな、冷たさをもった声音だった。
「――義を貫くと、そう言うわけだ」
「はい」
ユウリはそっと目を開く。
イリスが笑みを消して己を見つめていた。
皆既月食の瞳はいつ見ても美しい。その、艶めく赤錆色の髪も。冷涼な顔立ちも。
「ふうん? そうか、そうか、そういうものかユウリ、君は……私のためには動けないと、そういうことか」
ああ。誰も彼も私を孤独にさせるんだ――。
そんな小さな呟きをしたイリスは、一転、急に嬉しそうな笑顔になる。以前よりも親し気にユウリを見つめた。
「強くなったな。以前より。なおさら君を連れていきたくなった。……だけど残念だな」
瞬間。
風を感じた――そして息の詰まるような痛み。
見れば鳩尾に女の拳が埋まっている。いつの間にか、目の前に、女が立っていた。常人のユウリでは決して目視できない動き。人外の証。
イリスは笑っている。
「なあに少し眠っていればいい」
「――っ、ぁ」
「そのうちにすべてを終わらせる。そうしたら、私の城で茶でも飲もう」
その場に崩れ落ちかけるユウリを、イリスはそっと支える。
息苦しさをともなう痛みにユウリが動けないでいると、イリスが「体は貧弱なんだなあ」と小さくせせら笑って、ユウリを近くの椅子に座らせた。決して肉体的に頑強というわけではないユウリは、そのまま意識が遠のくのを理解した。
イリスが手を振って部屋を出ていく。
じゃあな、と動いた唇。ユウリは何も言えない。身を震わせて意識を手放さないようしがみつくことしか出来ない。
声は、吐息交じりに、かすれながら出た。
「フルール、さん……っ」