一週間ほど後のことだ。
フルールが、いつものメイド姿でイリスの前に立っている。緊張からから小さな両手はロングスカートの裾をきゅっと握っていた。そんなフルールを、椅子に座るイリスはじっと見つめている。
「えっと……」
ぴくぴくと所在なさげに揺れる長耳。困ったように目線はあちらこちらを向いていて、ふらふらとさ迷っていた青い視線は最後に悪魔の女を――レテミアを見つめた。
小さく頷くレテミア。フルールは一度目を瞑ってから、うん、と首を振る。
そして目を開けば、満開の花が咲き誇るような、こぼれるような笑顔が浮かんだ。
「こんにちは、いりす様。フルールは……今日も、ええと、げんき? です!」
言えた! とフルールが嬉しそうにその場で跳ねる。喜々に揺れる笑顔を見て、イリスが「おー」と感嘆の声を漏らした。
なにせイリスは、フルールがまともな言葉をしゃべったのを初めて聞くのだ。
「ほー。すごいじゃないか。やるなあレテミア」
「ふふん。でしょう?」
レテミアが軽く胸を張り、ひらひらと手を伸ばす。それに気づいたフルールがレテミアに近づけば、レテミアの伸ばした手は綺麗にフルールの頭へと納まった。少女の小さな頭をなでる手つきはゆっくりで、慈愛がまざまざと感じられるものだ。
「フルールは、賢いのよねえ」
「えへへー。ほめられたー」
フルールに言葉を教えると決めて一週間。もともと賢いのだろうフルールは、誰かに何かを教えたことのないレテミアの教育でも、従順に吸収していった。喃語を話す以前のフルールはなく、何を言われているのかも十分に理解している様子だ。
「あのね、いりす様。れてみぁはね、すごいんだー」
「ふぅん? どこが?」
こんなやる気なしに、とイリスの赤い目がレテミアを見る。うるさいわね、とレテミアは唇をひん曲げた。
「れてみゃあは、わたしに本をよんでくれたの!」
「それなら私でもできるよ。今日は私が読んでやろうか?」
「えっと……」
にやにやとイリスが嫌らしく表情を作る。そんなイリスの嫌がらせをまっすぐに受け止めたフルールは、困ったように目を伏せた。しゅんと長耳も垂れてしまう。
「ちょっと。フルールを困らせないでよ。まだ難しいことは言葉にしにくいんだから」
「ふーん? まだまだということか」
うーうー唸って考え続けるフルールを、イリスはどこか冷えた眼差しで見つめていた。
それは、玩具を見る目だ。
やがてイリスは何かに納得したのか、一度頷いた。
「うん。よし、いいんじゃないか」
「? 何がよ」
「お前にフルールを‟貸す”よ」
貸す、という言葉。所有者は相変わらずイリスであって、レテミアは気分でそれを使っているだけのこと。その事実を忘れたわけでもないが、レテミアは何となく嫌な気分になった。
胸中にかかる重いもや。その理由を探ろうとして、レテミアはよくわからない感情に引っ張られていることに気づく。
「無知なまま弄ぶのも嫌いじゃないけど、知恵を蓄え恐怖を知った少女を弄ぶ方が、私は好きだな」
「……相変わらず変な趣味してるのねえ」
イリスとの会話はそう打ち切って、きょとんとしているフルールを見た。
少女の青い瞳は純粋にあるがままを受け止めている――痛みを、まだ知らない。
「? なんの話、れてみあ?」
「いいえ、なんでもないわ。……イリスがね、あなたを私のお手伝いにしてくれるんですって」
「! ほんとー?」
「ええ、本当」
「やったー!」
レテミアは知っている。イリスという女の、飢餓と暴力を。
今は人をからかえるだけの穏やかさを保てているようだが、それがいつまで持つのかレテミアにはわからない。一度火の点いた油が灰を被らないと勢いを止めないように、イリスの性は対象を壊すまで落ち着かない。
そういう生き物だ。
同情ではなく、一定の理解をレテミアはイリスに向けて持っている。だから彼女の性質について何かを言うつもりはなく。
――しいて言えば。
「じゃあ、フルール。私の部屋に行きましょうか」
「わかった! わたし、なんでもするねー」
フルールがイリスによって破壊されても、きっと、特に何も感じないのだろう。
イリスと別れた後は二人して昼寝をして時間をつぶした。夕食の後は、お風呂に入って、そうしてしまうと暇な時間が訪れる。
夜のこと。
レテミアにあてがわれた客室は広い。嫌みを感じるほどの豪奢な調度品の数々は、イリスらしい趣向と言えた。天蓋付きのベッドに寝転がるレテミアを、丁度部屋の掃除をし終えたフルールが呼ぶ。
「んー。れてみゃあー」
「レテミア」
「れてみぁー」
「違う。で、なに?」
もはやわざと間違えているのではないだろうか。まあ、呼びづらい名前かもしれないが。
レテミアは上体を起こす。箒を手にしたフルールがきれいな眉を八の字にしていた。
「わたしは、なにをすればいいの?」
「そーねえ……」
あごに人差し指を当ててレテミアは考え込んだ。掃除はフルールが何も言わなくてもやってしまったし、明日着る服まで選んでくれていた。
箒を片付けて隣に座ったフルールを、レテミアは見下ろした。
「なに、しましょうか?」
「んー。れてみあもわからない?」
「ええ。だから貴女のしたいことをしてあげるわよ」
ほんとお? とくりくりした丸い瞳がレテミアを見上げる。幼い無垢さにレテミアは自然と頷いてしまう。わあい、と飛び跳ねるようにベッドを出たフルールが、部屋にある本棚から一冊絵本を抜き取ってくる。
ベッドのせりに座るレテミアの膝の上に、小さな体が乗って来た。体はとても軽い。首を巡らせてこちらを見上げてくる。
「れてみあ! ほん読んで?」
「はいはい」
絵本はどこにでもあるような、王子と姫が出会い恋をするというもの。ありふれた恋物語も、少女にとっては目新しいのだろう。青色にキラキラと輝く瞳と、時折こちらを振り向く少女の次のページを急かす表情。
「れてみあー? どうしたの?」
「んーん、なんでもないわ」
またこちらを見つめてくる瞳。はやくはやくと腕を叩く少女。レテミアはフルールの頭を撫でながら考える。
恋、愛――か。
もし絵本の中のように、ありふれた恋愛でもしていたら、何か変わったのだろうか。
「私が男だったらなあ……」
「んー? なにか、こまってる?」
「ふふ。そうね、とっても困ってるわ。でもあなたが悪いのよ? あなたが女の子だからいけないの」
「ええー? わたし、なにもしてないのに……」
しょんぼりするフルールがおかしくて、レテミアはつい笑ってしまった。そのうちに絵本も丁度読み終わる。
さて、そろそろ夜もいい時間だ。膝の上でフルールも欠伸をしている。
「ごめんなさいね。ほら、もう寒いから、寝ましょう?」
「うん。わたし、あっためてあげるねー」
「あら」
レテミアもフルールも夜着になってベッドに横になった。暖かい布団と、隣には小さな少女。平熱が高いのか、フルールが側にいるだけで心地よい。
「あったかい。フルール、あなた、体温高いのねぇ……」
「んふふー。でしょう! なんたってわたしは、太陽、だもの!」
一体どういう意味なのかレテミアにはわからないが、気にすることでもないだろう。
目を閉じれば、小さな吐息は隣から。
ああ、いいな、とレテミアは思った。
昼はイリスとくだらない雑談をして、その後フルールと一緒に昼寝をして、夕食を食べて。絵本を読み、隣にいる少女を眺めて、やがて眠る。
その日、レテミアはとてもよく眠ることが出来た。
本当に久しぶりの熟睡だった。
ずっと続けばいい。
こんな日が、永遠に――。