「れてみゃあー。朝、あさだよ? おきなきゃ!」
朝。
レテミアは誰かに揺すられて起きる。それが最近の目覚めだった。
だけどわざと寝た振りをして、起こそうとする侍女を困らせるのが寝起きのレテミアの小さな楽しみだった。
「れてみゃあー。れてみぁ~。……もう!」
やがて起きないレテミアに見かねたのか、誰かか跨ってくる。そして――脇を、小さな手指がくすぐってきた。
「きゃっ、ちょ、ちょっと、くすぐったいって、うふふ……」
思わず笑い転げてしまうレテミアは、そのまま目を開けて降参のポーズをした。
目の前にあるのはフルールのちょっとした怒り顔だ。
「起きてるじゃない! れての嘘つき!」
「ごめん、ごめんなさいね? つい楽しくって」
「もー」
ぷくーっと頬を膨らませたフルールは、すでに寝間着から着替えてメイド姿になっている。ひょいとベッドから出ると、くるぶしまであるロングスカートで跨っていたため出来た皺をたたいて伸ばし、微笑みを刻んだ。
「ほら、お風呂、はいろ? 髪すいてあげるから」
「ええお願い」
最近は、すこぶる調子がいい。そうレテミアは思う。朝の風呂も憂鬱ではなくなったし、誰かに髪を梳かれる感覚も嫌いではなくなった。
「あなたになら、間違えて髪を引き抜いてしまっても平気だわ」
「んー? なに?」
「なんでもない」
客室には客人用の浴室が備え付けられている。その手前の脱衣所でレテミアが全裸になれば、フルールはロングスカートの裾を絞って濡れないようにしてから、浴室へとついてきた。お湯は張られている――レテミアが寝ている間に用意したのだろう。自堕落な生活を送っているレテミアと違って、フルールはまじめだ。
浴槽に体を預けるレテミアの背後では、んしょんしょ、と彼女の長い黒髪を丁寧に洗うフルールがいる。
「今日はね、れて」
洗髪後、花の油を手になじませてゆっくりと髪全体になじませていくフルール。ほんのりとした花の蜜の香りがして、レテミアの表情は穏やかだった。だが、
「いりす様からお仕事をたのまれてるの。だから一緒にいられないのよ?」
「あら、そう……」
そう、フルールが少しだけ残念そうに言えば、心地よさげに閉じられていた瞼も上がる。黒い瞳は少しの間だけ寂しさを映した。
「ごめんねー」
「いいのよ。お仕事、頑張ってね」
「うん!」
元気の良い答えにレテミアは微笑んだ。
ところで。
「ね、ねっ。私の名前呼んでみて?」
「……? れて?」
「あら、まあ」
『れてみゃあ』でも『れてみぁ』でもなく、れて、と呼ばれている。そんな小さな事実がレテミアの心を躍らせる。
「ヘン、かな?」
「いいえ。いいのよ」
くすくすと笑ったレテミアは、フルールを呼んだ。なに? と気構えもせずに顔を寄せるフルールへと手を伸ばし――その長耳をそっとつまむ。
「ひゃあ。……耳なでるのやめて!」
「ごめんなさい、ごめんなさいね」
もー、と怒るフルールが、単純に可愛かった。
朝食を終えればフルールは先ほど言ったとおりに姿を消してしまった。名残惜しそうに、だけど意外とあっさりとレテミアの部屋から出ていったフルール。その後ろ姿の残滓をぼーっと眺めていたレテミアは、ベッドの上で伸びをした。
「あーあ。暇ねえ……」
ここ何日かはずっとフルールが側にいる状態だった。
だからだろうか、久々の孤独を味わっている気がする。
誰もいない客室はこんなにも広かったのだろうか。
「フルールはお仕事でいないし……」
しばらくは私が借りれるんじゃなかったのかしら……。そうぼやいたレテミアは、一人きりで部屋に閉じこもることが何となく嫌で、陰鬱な感じがして、城の廊下へと出た。
特にすることもない。
けど、部屋にずっと篭っているよりかはマシだ。
城の廊下から見下ろした中庭では、今日も豪奢な花畑が広がる。年々広がる寒波にも負けずに咲き誇る美しい花々。手入れをする侍女たちは忙しそうにしている。
なんとなく彼女たちの仕事ぶりを眺めていたレテミアは、どうせだし……とイリスの部屋へと向かうことにした。
「イリスのことだし、どうせ暇してるでしょ」
執務や政を完全に放棄しているレテミアと違って、領土を持ちその運営を行っているイリスには仕事もあるのだが、そんな事は気にせずにレテミアは部屋に赴くことにした。イリスなら快活な笑顔で受け入れてくれるだろうという軽い考えで。
その日はとても良い天気で、快晴だった。
分厚い雲は流れてしまったのか空には青色しかなく、太陽は光り輝き続けている。
冬の中にある陽だまりの時間。日差しの差し込む廊下をレテミアが歩いている時。
――そんな時のこと。
『――――!!!!』と、少女の悲鳴が屋敷中に広がって、
直後、爆音。
次いでぐらりと屋敷が――大地が揺れる。
突然のことに転びかけたレテミアは、
足早に駆ける廊下。
困惑した様子で若い侍女たちが立ち止まっている中で、古株だろう年上の侍女たちは
とある部屋の前には、そんな古株の侍女たちが何人か集まっている。話し込んでいる様子だったが、レテミアの姿に気づくと彼女たちの一人が話しかけてくる。
「レテミア様……あの、イリス様からは事が終わるまで決して入るなと。ですが、その」
「いいの。私が行くから」
「で、ですが」
「あなた達じゃ無理よ。死にたいの?」
「……」
侍女たちは押し黙る。沈黙を肯定と受け取ったレテミアは、侍女たちを素通りして、部屋へと繋がる扉に手をかけた。
ドアノブは回る。鍵はかかっていないらしい。
そっと、ゆっくりと、レテミアは扉を開きながら、意識していつも通りの言葉を彼女に――イリスに投げかけた。
「ちょっと、なんだかすっごい音がしたんだけど大丈夫――」
赤。赤。赤。
新鮮な血の紅色。
部屋中にぶちまけられた誰かの血液。
レテミアは、言葉を失った。
「んー?」
おっとりとした、らしくない相槌の声――それは部屋の中央、ベッドの上で膝立ちになっている全裸の女から。
振り返ったその姿。
真っ赤だった。
髪も、肌も、瞳も、何もかも。
「ああ、レテミア……」
赤い瞳をやんわり緩めて笑うイリス。
レテミアは冷静に、冷静になれと心の内で努めながら、言葉を返す。
「あなた……また?」
「ああ。うん。まあ、仕方ないだろ?」
イリスは肩を竦める。いつも通りの態度はどこか虚ろだ。
そんなイリスの背後には、見るも無残な死体が一つ。
性別すら不明なほどぐちゃぐちゃになっていた。
内側から爆発したかのような、少女の死体。顔も何もわかったものではなく、特徴一つない死体――そのおおよその背丈は、フルールと、そっくりで、
「フルールを使う前座のつもりで呼んだんだ。いい娘だったんだよ。可愛い娘だった。だから、ここまでするつもりは……なかったんだけどなあ」
イリスは寂しげに爆ぜた死体を見つめる。全身を返り血の赤で染め上げながら。
「なあ、なあ、レテミア。仕方ないだろ? 仕方ないだろう?」
「……」
イリスは基本的には温和で穏やかな人格をしている。それはイリスの理性と呼べるべき部分だ。
レテミアには理解できない趣味をしていても、それは、イリスの本能からにじみ出る
――愛情が歪んでいるということ。
「私はこういう生き物なんだ……だから、なあ、仕方ないじゃないか」
簡単に言えば、破壊衝動と呼べる。
イリスに宿る破壊衝動は発作的なもので、それ事態は誰でも持ち合わせている普遍的なものだ。人の苦しむ顔を見て喜ぶ者もいる。レテミアは永い生の時間でそんな人間をたくさん見てきたから、一定の理解を持っている。
だが、そんな衝動に、イリスやレテミアのような奇跡を手繰る力が加わればどうなるか――その結果があの死体だ。
「……久々に見たわ」
「ふは。お前は、ずっと自分の城にいたからな」
これでも大分落ち着いた方なのだろう。それは彼女の運営する領地や城の平和さを見ればよくわかる。
イリスの趣味は劣悪だが、決して悪人というわけではない。でなければレテミアは彼女の友人をやっていない。
「大丈夫よ」
「何が」
「私は理解しているもの。今更どうとも思わないから」
「……ああ」
血まみれの体で、イリスは嬉しそうに笑った。孤独が解けていく微笑みは、やはり不安定なものだった。
「お前だけは……友人でいてくれる」
だから……。
だからどうかいつまでも私の友人でいてくれ。
――そう、祈るような呟きが聞こえて、レテミアは小さく頷いていた。
「じゃあ、とりあえずその真っ赤な体を綺麗にしてきたらどう? その後で紅茶でも飲みましょう」
「ああ、そうだな、そうする」
イリスのことを侍女にまかせ、一人客室へと歩くレテミア。
その速度は最初はとても遅く、そして徐々に徐々に早くなっていって――やがて駆け足で部屋に入り込んだ。
バタン、と強く音を立てて扉を閉める。
そのまま扉に背中を預けて深い息を吸い込んだ。
「――」
どくどくと心臓は早まる。収まりそうにない。
嫌な想像ばかりが脳内を駆け巡っていく。
一体何十年ぶりに、イリスの事後を見たのかわからない――だからだろうか。
レテミアは気楽に考えていた。
きっと、フルールなら、大丈夫だと。イリスもそこまで壊さない、と。
だけどそれはあまりにも軽い展望だった。
目蓋を閉じれば、脳裏に浮かぶのはイリスの愛情や衝動や性欲をぶつけられた見知らぬ少女の死体。
――顔も性別すら判断不可能なほど破壊され、細切れと化してしまった姿。
……どうしても、重なる。
見たこともない少女と、フルールが。
「このままじゃ…………」
レテミアはイリスの友人だ。
たとえ異常な愛情、趣味、衝動があったとしても、それらを理解したうえで彼女と付き合ってこれた。それは両者が共に等しく亜種の王であったということもあるし、どちらもが孤独だったから、という理由もある。
だけど――レテミアは見つけてしまった。孤独を癒す存在を。失いたくない存在を。
そして、イリスも。
「このままだと、フルールが、死ぬ――?」
レテミアは泣きたいほどにとても悲しい気持ちになった。
なぜなら、彼女の心は決まっていたからだ。