唐突に客室へ訪れた人物――それはクイナだった。
彼は焦った様子で言っていた。
クイナは『口を滑らしてしまった』と謝って、この屋敷からすぐにでも逃げ出すようにと。
フルールにはわけがわからなかった。
なにが、どうして、逃げ出すなどということに繋がるのか。
クイナは言った。
『お祖父さまは優しい方だけど、決して美しい方ではないから』
――と。そして、フルールの持つ尖った長耳が、どれほどの価値を持つのかも。
フルールにはわけがわからなかった。
『耳断ち奴隷』なんて言葉は知らない。
教えてもらえなかった。
遺種が凡種にとってどのような扱いを受けているかなんて知らない。
教えてもらえなかった。
何も、何一つ、レテミアは――。
そうしてクイナは死んでしまった。
レテミアと、フルール。二人の間に転がる凍えた少年、その死体。
部屋に入ってきたレテミアは死んだ眼をしていた。冷え続けて光を失った瞳で、フルールを急かすクイナをじっと見たのだ。――そしてそれだけで少年は殺された。
悪魔の女は何も言わない。あるのは疲れきった女の顔だけだ。
「わたしのせい……なのね? れて」
「……」
ためらいがちなフルールの言葉に、レテミアは何も言わなかった。それは少女の言葉を待っている優しさでもあり、会話を拒絶する氷じみた心そのものだ。
「わたしが、わたしがくいなを助けるって言ったから……こんなことになったんだ」
フルールは何かを知っていた。レテミアはそれを察していたが、何も言わないことを選んだ。
『罪』には丁度いい『罰』だと思ったのだ。
「わたしのせいで――れてが、人を、殺してしまったの?」
そこまで言われて、ようやくレテミアは首を横に振る。重く、歪むように。
否定の仕草。それでもフルールのようにうまく言葉を繕うことは出来そうに無い。
「仕方ないの」
「だって……おかしいよ」
「あなたは悪くないわ」
「ちがうよ。悪いのはわたし」
「そんなはずない。こんな人間たちなんて、生きている意味はなかったの」
レテミアの黒い目はフルール以外の全ての生命を悪と断じようとしていた。フルールにはそれが恐ろしかった。
かつて、レテミアはとても静かで穏やかな目をしていたのに――。
「そんなこと、言わないで……」
「価値のない命がどうして優先されなければならないの? どうして、価値のあるあなたを後回しにしなくてはいけないの?」
レテミアは本気だった。
何もかもを言葉どおりに考えていた。フルールだけを選びたいと思い、フルール以外を選びたくないと思っていた。そして、そんな選択がとてもとても正しく思えて仕方がないのだ。
間違っていない。間違ってなどいるものか。常にそうやって選択し続けてきた。
レテミアは、氷河を閉じるために選択した命がある。生き残れない者達をすべて切り捨てた過去がある。――他者を捨てる覚悟を、王の決断を、群集はどうにも恐れを交えて見つめていた。だから孤独は蔓延った。
だから、レテミアは、フルールだけは失いたくないと思って全て殺したのに……。
「わたし、れてが好き。優しいれてが好きなの……」
「――――」
何人も殺した。
レテミアには追手と追手ではない者の区別をしている暇などなかった。だから判断のために頭を使うよりも先に力を行使し続けた。フルールを疑わしく見ていた者は全て殺してきたのだ。
星のためではないわがままな力の行使に恐れはあった――あったはずなのに、今はもう何も感じない。
今日は数百人を一夜に凍りつかせてしまって。それでもレテミアの心はフルールだけを求めていて。
ああ、そうだろうな。
その通りだ。
フルールに言葉を教え、彼女のために本を読み、彼女と共に生きた時間と比べれば、今のレテミアは恐ろしい怪物でしかない。
「今の私は……、優しくないのね?」
「……」
恩着せがましいってことは、わかっている。
自己満足だ。全て、何もかも。
フルールを守りたいという心も。そのために犯したすべての罪も。ただ、ただ、レテミアの自己満足。
友を裏切る事をフルールは許さないと思う。
誰かのために誰かを殺す事をフルールは許さないと思う。
だけど……どこかで、許してくれるはずだとも思っていた。
何故ならレテミアの行動のすべてが、フルールのためだったのだから。
……。
……。
……。
なのに――――どうして。
どうして!
「――どうしてよ!!!!」
その叫び声は、レテミアにとっても初めてのものだった。喉を引き攣らせる大声は苦痛だけを呼ぶ。ぐちゃぐちゃな感情は何にぶつければいいのかもわからない。辛くて辛くて、レテミアはぎゅっと目を閉じた。
膝が震えてどうしようもなくて、もう、歩く事すら疲れていた。
自然とレテミアは膝を着いてしまう。
「あなただけでいいのよ。あなただけが共に居てくれればいい。私は、他の人なんてどうでもいいのに……どうして、あなたはそんなに誰かを……」
私以外の誰かを……。
「だって、仕方ないじゃない」
「……」
「わたしは……なんにも知らないもの」
え? と、レテミアは小さな疑問の声を上げた。
目の前にいる少女の、その顔にあるもの。落ち込む肩。胸元を握り締める両手。――どうして、そんなに悲しそうなのか、レテミアにはわからない。
「なんにも知らないから、すぐにあなたの迷惑になってしまって、いつもあなたを疲れさせたの」
フルールはきっと、クイナから何かを言われたのだろう。
だからこんなにもおかしなことを言う。
「なんにも知らないから……わたしは誰かに騙されて、あなたを呆れさせてしまうの」
そっと、フルールはレテミアの手を握り締める。
暖かい。熱い。
そうレテミアは思った。――フルールは逆の事を思っているのだと思えば、不思議とレテミアの心は熱で満たされた。
「れての手は……こんなに冷たくないのに……あたたかいのに」
小さな手だ。まともに拳銃も握れない。
イリスを裏切り旅に出る直前の事だ。
一度、レテミアは、護身用にと女性用の拳銃をフルールに持たせようとしたことがあった。堅牢で壊れにくいリボルバー型の拳銃を。
だけどフルールはまともに銃を撃つことが出来なかった。
狙いを合わせようとすれば大きく照準がブレ、引き金を引くときは及び腰で震えてしまう。そして的にかすりもしない自分の腕前を、フルールはごまかし気味に笑ったのだ。
そんな少女の姿を見て、レテミアは言葉にならない愛情を感じたことを、覚えている。
自分を守る力を持てないこと。
誰かを殺すための力を持てないこと。
その弱さがレテミアには美しく見えた。誰かを救うために創られたレテミアには遠かった。届かない世界を目の前に感じられて、本当に羨ましかった。
「なんにも知らないから……なにも、この世界の事を、知ろうとしなかったから、あなたを不安にさせて……それは、全部、全部――」
だから誓ったのだ。
誰も殺せない少女を、何かを殺してでも守りきろうと。その穢れ一つない心を、肉体を、何物からも守り通せるようになろうと――。
レテミアは最強に等しい。
最後に必要だったのは、覚悟だけだった。
『フルールがいつまでも笑顔でいられるように』――そのためならば何でも失えるだけの覚悟は、今でもある。
「わたしが、なんにも知らない、愚図だから!」
「――違うわ!」
否定の叫びが様々な過去を呼び起こす。短い、だけど無限に等しい時間よりも濃い過去を。
「あなたは、あなたはね? 愚かで、お馬鹿さんで、相手をする私が疲れてしまうくらい呆れるくらい純粋で……でも、でもね……」
――あなたは美しい。誰よりも。
その言葉を伝えたかった。
だというのに胸が詰まったように苦しくなって、喉が震えて、何も言えなくなった。
レテミアは初めて泣きたいと思った。伝えたい事も伝えられない苦しさを嘆きたかった。
だけど、きっと自分が嘆いたところで目の前の少女は気付いてくれない――だから。
「太陽……みたいだった」
かつて星の作り出した太陽は、
『光となって今後生まれる命を救え』。
イリスは無責任な星の命を、その責を負い、やがて
対価の見合わない重責は必ず心を砕く。
イリスは星にとっての光であろうとして、その強大すぎる力を星に生きる全ての生命から恐れられた――感謝されるべきだったのに、イリスには何も与えられなかった。イリスは故に全ての生命に対して、横暴であり刹那的な破壊衝動を持つ。
そして、それはレテミアも同じ事だ。
誰かを救おうとする者に、必ずしもその誰かが応えてくれるわけではないということ。
だから、レテミアも孤独で。
「あなたは私にとっての太陽みたいなものだった」
いつも、厚い雲が空には広がっていたの。
私はずっとそんな空の下に居て、寒さばかりを味わって……。
「一人で……寂しかったのよ……。炎はどこにもなかったわ。みんなと……寄り添うこともできなかった……」
誰もがレテミアを恐れたのだ。イリスは道場と憐憫の目を向けたのだ。
氷河の時代を閉じるという事。寒気の抑制、星によって創られた命。強大な権能。
弱者はただ平伏するばかりで、恐怖の感情しかレテミアには見せなかった。感謝も何一つくれなかった。
「だけど、あなたと出会えたのよ」
「――」
「あなたが……私にやっと触れてくれたの」
初めてだった。
イリスのように傷を舐めあう関係を求めて近寄るわけではなく、ただただ純粋な好意で側に居てくれた存在は。
「氷ばかりが……寒いばかりが……この世ではなかった。ああ、よかったって――私は一人じゃないんだって……」
どれだけの時間を一人で生きれば、得られるのだろう。
フルールのような優しさを。
どれだけの時間の孤独を味わえば、触れても許されるのだろう。
フルールのような熱に。
……気がつけば、体中が熱かった。少女を見る目に異様な熱気がこもっていた。
「ええ、そう、そうね。これは――友情なんかじゃ、なくて」
どくん、どくん、と。
レテミアの鼓動は重く、切ない。
苦しみから解放されたがっている事に、レテミア自身が気付いていた。
「孤独を癒してくれたあなたへの、感謝でも、恩でも、なんでもなくて」
静謐の屋敷の中。
誰も彼もが死んでしまい静まった空間で、レテミアは、戸惑いを表情にするフルールを突如として抱きしめる。
え――と、少女の困惑げな呟きを耳元で聞いた。
その鈴の音のような吐息が女の全身をぞくぞくと震えさせた。
心が燻る。
体が燃える。
「愛情――なのよ、ね」
レテミアはまたしても『初めて』を、自覚した。
この、例えどれだけの力で抱きしめようと納まりきらない感情のことを。どれだけ言葉を紡ごうときっと伝わりきらない感情のことを。
きっとフルールは、愛を知らない。
「れ、て?」
「フルール。好き。愛してる。愛してるの」
ぐっと体を前に倒せば、軽々とレテミアが絨毯の上に倒れた。埃一つ無い掃除の行き届いた絨毯だ。今は、そのことに感謝しよう。
抱きしめる小さな体躯からは熱ばかりが感じられる。そのことが勝手にレテミアを動かす。
見下ろす少女は、レテミアを困惑した様子で見上げ続けていた。
「だから、ねえ、いいでしょ……?」
蒼い瞳はきらきらと輝いている。それはきっと部屋の照明が反射しているだけのことなのだろうけど、情欲に突き動かされるレテミアにはどうでもいいことだった。
自分がいて。
フルールが居る。
その事実だけで体中が熱に悶える。狂ったように少女を求めてしまう。――もう、恐れなど、どこにもない。
「ねえ、れて」
ぽつりと、フルールは訊く。
「なにを……するの……?」
レテミアは唇を塞いで見せた。
柔らかい感触同士がぶつかって、溶けいく熱だけを与える。舌先に触れた前歯の感触。何度か叩けば息苦しさからかフルールは口を開けた。だからレテミアは舌を舌で絡めて混ぜ込んだ。
「――!?」という吐息だけの困惑の悲鳴すらレテミアには愛しかった。
上から覆い被さる形でフルールの動きを固めたレテミアは、そのまま蹂躙する勢いでフルールの唇を奪い続けた。
「っ――」
「……、ゃ……」
十数秒はそのままでいて、やがて息苦しさからレテミアが唇を離せば、下のフルールははあはあと荒い息を吐いていた。それは初めて受ける愛情を受け止めきれない困惑そのものを表していて、だけど苦しげに眉をたわめた表情がレテミアには我慢ならなかった。
初めて理解できた感情に女は従うことを喜びとした。
腕は動く。手はねっとりと触れる。
少女の細い首を撫で、清い胸を流れ、なだらかな胸をさすり、やがて陰部に触れる。
「大丈夫。私も初めてだけど、大丈夫だから……」
きっと、
愛も情も欲もすべて。
悲鳴と、まぐわう女と少女の声。
それだけが屋敷には響き続け――――そして。