目が覚めた初めにレテミアが感じたのは、額に触れた人肌の温もりだった。
暖かいのに、熱い。
額をそっと撫でる掌の感触が心地よくて、小さな吐息が漏れた。
「ん……」
ゆっくりと瞼を上げる。見えたのは、ぼやけた輪郭の少女。
「あ……フルー、ル?」
周囲を見回せば、そこはどうやら宿の一室らしかった。
「大丈夫。ゆっくり眠っていて」
「ああ、大丈夫、なの? 本当に……?」
レテミアは不安になった。目の前にいるフルールが本当は幻なんじゃないかと思えてしまえた。
いつも、目が覚めれば、フルールはどこか別の所にいたから。必ず自分から離れてしまうから。
「ええ。……何も心配することなんてないから」
体を起こそうとしたレテミアを、フルールは押しとどめる。心配されているらしかった。
そういえば、頭が鈍く痛む。――イリスの蹴りで強く打たれたからだろうか。
フルールもその事を案じているらしく、レテミアを覗き込む青い視線はいつもより柔らかいものだった。
「喉、乾く?」
「……ん。少し」
「そ。ちょっと待ってて」
フルールが腰を上げた。あっ、とレテミアは小さな悲鳴を漏らす。
レテミアは少女の手を掴んだ。振り返ったフルールは目を丸くしている。
何でかはわからない。
ただ、フルールがどこかへ去っていくのが、本当に怖かった。
「いや。イヤよ。あなたが遠くへ行っちゃうなんて、悲しいわ」
「……もう」
少し、咎める目つきがレテミアを見つめた。だけどレテミアには甘さを持った表情に見えた。
やれやれとため息を吐きながら、フルールがベッドの端に腰を下ろす。そして悪戯っぽく笑って見せた。
「あんたってそんな甘えん坊だったっけ?」
「わからない……寒い、寒いの……」
言葉は曖昧だ。レテミアにも理解できない恐怖が、決して少女の手を離そうとしない。
「目を閉じると、どこかへ行ってしまうんじゃないかって。私を、あなたは、許さないだろうから、いつか必ずどこかにって――」
「――ぐだぐだ言ってんじゃないわよ」
声は途中で遮られた。
ぎょっとしたのはレテミアだ。
なにせ、女の目の前には少女の顔がいっぱいに映っていたのだから。
口を塞がれ、触れる唇の感触が、そのまま舌が口内に入ってきて。
それは、だから。
つまり……ディープキス、というやつで。
「ぁ……」
「ん……」
長い、熱の感触。柔軟な舌が口内のあちこちをまさぐっていく。
鼻から漏れる吐息がどうにも艶かしくて、わけもわからないままレテミアの情欲が燃え上がった。
手は少女の背を撫で、そのまま下へ――柔らかい感触にそっと触れた。
ん゛、と眼を閉じて没頭していたフルールが眉間に皺を寄せる。嫌そうに唇を離すと、荒い息混じりに口を開いた。
青い瞳はじわりと涙を浮かべて潤んでいる。
「ちょっと、手つき。尻なでないで」
「ご、ごめんなさい。つい……」
「ったく、淫乱悪魔が」
唾液まみれの口元をフルールは拭った。
「な、なんで……」
「別に。なんか、したくなったから」
理由になってない……。
色々と半殺しにされたレテミアがしょんぼりしていると、フルールはベッドから離れてしまう。
「あ……」
「飲み物持ってくるだけよ! じっとしてなさい! いいわね!」
そう言ってフルールは部屋を出た。レテミアは待つことしか出来ない。
数分は、そうやって待っていただろうか。
控えめな音を立てて扉は開き、フルールが顔を出した。
「ねえ、レテ、レテミア?」
「なあに?」
見つめる先。少女は部屋に入ってくる。
「髪……梳いてくれない?」
その手にあるのは、一つのブラシだった。
フルールはベッドの上にぺたんと座って、背を晒す。
レテミアが長くなった金髪をひと房握ると、少女の耳元が僅かに覗けた。
「……」
抉れた傷跡。何も無い、ただひたすらに空洞な場所。
かつてあった長耳は、すでにそこには無い。
だけどレテミアは何も言わなかった。
フルールが、何も言わないからだ。
「いつぶりなのかしら」
レテミアは嬉しそうな声を上げながら、ブラシで丁寧に少女の金髪を梳いていく。
「あなたの髪に触るの……」
「さあ。数年くらいじゃない?」
「ふふ。かもねぇ」
『あの日』、フルールとレテミアとの関係が破綻した日から、フルールは何だって自分でやるようになっていた。髪を梳くのだってそうだ。
だから、レテミアは本当に何年ぶりかの感覚を味わっている事になる。
「人に髪を梳いてもらうのって、あー、気持ちいいわねー」
実に心地良さそうな弾んだ声を、レテミアは目を丸くして聞いていた。
「本当にどうしちゃったの? 機嫌良すぎよあなた」
「別にー」
フルールの言葉はどこかはぐらかしているような気がする。その優しさが、レテミアには辛かった。
「……気遣ってくれてるのなら、別にいいのよ」
女はゆっくりと、息を吐く。それでも手だけは動かし続けた。
「どれだけ拒絶してくれてもいいの。否定されても、蔑まれても、あなたが……あなたの事を愛しているということを、わかってくれているなら」
「……」
フルールは何も答えない。
ずっと避けてきた問題だ。レテミアと彼女の、二人だけの問題。
しばらく、ブラシが髪を梳くしゅっしゅという音だけが部屋には響いた。やがてフルールは沈黙に我慢できなくなったのか、手元にある煙草をくわえて火をつける。
レテミアは冗談めかして言った。
「私、煙草は嫌いよ?」
「――それでもあんたは、あたしを愛してくれるでしょ?」
だけど、フルールは、軽々と断言する。
レテミアは小さな笑みを、ついつい作ってしまった。
ああ……そうだ。
もう何年もずっと側にいて、居つづけた。だからどれだけだってわかる――わかってくれるという、信頼が、二人には
「ね、レテ」
レテミアは振り返らない。それでいいとレテミアは思った。
泣きそうな笑顔なんて見られたくなかったから。
「――あたしは旅をするわ」
声は、柔らかい。いつもの刺々しいものではない。
それがレテミアには愛しかった。嬉しかった。抱きしめたくて、たまらなくて、うずうずして。
でも、許されないと理解している。
「いつまでも死ねないのなら、あたしはいつまでも旅をする。あんたがあたしに見せた世界を――父が作り、捨てたこの混沌を、すべて見納める」
レテミアにとってフルールは『初めて』そのものだ。彼女が与えてくれた何もかもが暖かく、かけがえのないもの。
一度壊してしまったからこそわかる価値がある。
レテミアは、もう、フルールを傷つけたくなかった。
「生きる理由なんてね……特に、ないのよ」
フルールの本心だとレテミアはすぐに気付けた。同じなのだな、とも。
星のために創られたレテミアと、同じく星のために創られたフルール。
――太陽の管理者。
ただそこにあるだけで誰かを救える器は、心を持つにしてはあまりに力が絶大すぎた。生きる理由を答えろといわれても、レテミアもフルールも、『この世界のため』としか答えられないのだから……。
「でも…………あたしは、生きたい……」
世界のための理由なら二人は持ち合わせている。だけど、個人の理由はなかった。いや、自分にはあるか――。
愛する者と共に居たいという気持ちだけでレテミアは生きてきた。そして、それはきっとこれからも変わらないのだろう。
だけどフルールは…………。
「あなたと生きたい、って思うわ」
「――」
フルールに、個人としての理由は無いはずだった。少なくともレテミアはそう思っていた。付き合わせているのだと。無理をさせ続けているのだと。そう、思っていて、だから、いつだって罪の念は消えなかったのに。
初めて、フルールは、言う。
『自分の』、『自分らしく』、生きる理由を。
「煙草を吸うの」
そんなあたしを見ててよ。
「酒を飲んで、べろべろに酔っ払うわ」
そんなあたしを笑ってね。
「博打をするわ。財布を空にしてしまうの」
そんなあたしの側にいて。ずっとよ?
「あたしはね、レテ。そうやって生きたいのよ」
レテミアの手からは気がつけばブラシが滑り落ちていた。
床に転がるブラシへと、一つ、また一つと雫がこぼれていく。ぬるい雫。レテミアは本当に良かったと思う、フルールがこっちを見ていなくて。
「あたしが腐るような事をして、それであんたがあたしを見てくれるなら、それはそれで幸せでしょ?」
ねえ、レテミア。
「そうやって生きてそうやって終われるなら。あんたの隣で生きられるのなら……」
「……っ、……ッ」
「ね、レテ、レテミア」
フルールは振り返る。後ろにいた女の表情を見据えてしまう。
『――』と、少女はしばらく目を瞠っていて。
まざまざと泣き顔を見つめられているレテミアは、それでも、泣く事しか出来なかった。
ぼろぼろぼろぼろ、涙だけが女の表情を作っていた。
「……」
「泣かないで、レテ」
やがてフルールは女の浅黒の肌をすべる雫を一滴、そっと拭う。
そうしてやんわりと仄かで穏やかな笑みを浮かべた。
「旅をしましょうよ。二人で」
その言葉が本当に本当に嬉しかったのだ。
レテミアは、涙を拭う事すらできなかった。
「……ええ。ええ、そうね、旅、しましょっか」
「何泣いてんのよ、ばかねあんた、泣く必要なんてどこにもないのに」
「だって、だってぇ……!」
何も言えそうにないのは二人ともだ。
ぎゅっと、フルールはレテミアの頭を掻き抱く。レテミアはそんな少女を抱きしめる。
両手は震えていた。