いつ彼女と出会ったのか、ヴィエはもう覚えていない。
『あなたは……?』
『お前の飼い主だ』
ずっと眠り続けていたヴィエを起こした彼女。
ヴィエをヴィエを名づけた彼女。
彼女はその名を“油”を指すのだと言った。
彼女はヴィエにとっての名付け親で、すべてだった。
決して彼女がヴィエに優しいわけではなかったし、甘いわけでもなかった。むしろその行いは大半が厳しく冷徹なものだった。
それでも、ヴィエにとっては彼女こそがすべてだった。
厳しさは愛で、
冷たさも愛だと。
ヴィエは知っていた。そうだと信じていた。
だから、彼女が――――イリスが、ユウリを飼うことを許したとき、本当に嬉しかったのだ。
本当に嬉しくて嬉しくて、ただ、それだけだった。
「んん」
眼を閉じていたヴィエが、むずむずと唇を揺らした。
朝。ひんやりとした冷気が室内に充満している。
寒い……。
ヴィエは「うー」と呻きながら寝返りを打ち、すぐ隣の人物に抱きついた。
「う……」
ヴィエと同じベッドで眠っていた女が苦しそうな声を上げる。気にせずヴィエはさらに抱きついた。
幼い両腕に首を絞められつつある女の顔は、眼を閉じているもののかなり青い。やがて限界が来たのか「苦しい……」と呻いてそっとヴィエの両腕を引き剥がすと、そのままのっそりと仰向けになった。二人で共用している枕に顔を埋めてしまう。
女――ユウリはそのままぐったりしていたかと思うと、五分後にはすやすやと寝息を立て始めた。ヴィエはというと、瞼を重く上下させてうとうとしている。
そのうちヴィエが完全に目を覚まし、体を起こした。
「ユウリ。あさです、あさなのです」
未だに枕に顔を埋めて寝ているユウリを揺する。女は面倒そうに首を振った。
「起きたくない……」
「むー。わがままなのです」
べちべちとユウリの頭を叩くヴィエ。しばらく黙っていたユウリも、渋々体を起こす。
開いた瞳はどんよりと曇っていた。
「軟禁生活……半月目、か……」
ユウリは、
ぼうっとした目でユウリは横を向く。
そこにはぺたんと座ってあくびをするヴィエがいて、その奥では大きな窓が一つ。
雪がしんしんと降っていた。
そして、うっそうと広がる森があった。
――それだけしかなかった。
「ユウリ?」
やがてユウリの視線に気付いたヴィエがこてんと首を傾げる。青く丸い瞳は純粋なまま女を映していた。
ユウリは、なんでもない、と首を横に振る。
「おはよ、ヴィエちゃん」
「おはようございますです、ユウリ」
二人は微笑みあうと、同時にあくびをした。
「寒いのです……」
「今日も冷えるね」
暖炉の薪に火をつけ、室内が十分に暖かくなってから二人は動き出した。
まずやる事といえばヴィエの金髪の手入れだ。
少女の髪は長く、そしてふわふわと綿あめのように膨らんでいる。毎朝しっかりとブラシで梳かさないといけない。
そしてその仕事はユウリがしていた。ヴィエにねだられるからだ。
「んふふ……」
「ヴィエちゃん、変な顔になってるわ」
化粧台の前で椅子に座るヴィエはにまにまと気味の悪い笑みを浮かべている。脚の高い椅子のせいか、ヴィエの両足はぱたぱたと宙を揺れていた。
ゆっくりとブラシを動かすユウリを、鏡越しにヴィエは見つめる。
「今までこんなにじっくりと髪のお手入れをしてくれたのは、ユウリが初めてです!」
「そうなの。てっきりイリスさんがしていると思ってたけど」
「イリスさまはとっても厳しいおかたなのです」
つまりイリスはヴィエの世話を放棄していたということだ。それは、イリスのヴィエに対する態度を見れば納得できる部分も多い。
イリスは所有物であるヴィエに対して冷徹だ。
「……」
ふわふわの髪を梳く動きが鈍くなった。
イリスのことを考えると、ユウリは気が重くなる。人外の強さを持つ彼女はどうもユウリを気に入っているが、いつ気が触れるかもわからない。ヴィエにも言えることだが……。
そんなイリスは、基本的にヴィエやユウリとは別の部屋に居るらしい。
『らしい』としか言えないのは、ほとんどイリスと会わないからだった。せいぜい夕食時に顔を合わせる程度で、それ以外の時間に城内で出くわすことは一切無い。イリスについて聞こうにもこの城には侍女が一人もいないらしく、どうしようもない。
「静かなお城よね、本当に」
この城に侍女や小間使いと呼べるような存在は居ない。だから城の中庭にある花壇は枯れて雑草だらけだし、城内の使われていない部屋も廊下も埃だらけだ。料理とてユウリが作っている始末。
城の周囲にあるものとて森のみという有様で、一体どうやって今まで生活してきたのか謎である。
城として機能していない。
「イリスさまは群れることがおきらいなのです。そういうところも、かっこいいですよね!」
「そ、そうね」
適当に相槌を打つと、ヴィエはむふーと満足げに鼻を鳴らす。
まあとにかくヴィエの機嫌は良い。ユウリがこの城で軟禁生活を送るようになってからはずっとそうだ。
だから、つい、ユウリは言った。
「ねえヴィエちゃん。私のお願い、聞いてくれる?」
「ユウリのお願いでしたら!」
「じゃあ、私を家に帰してくれないかな……」
出来る限りの笑顔を浮かべて言ってみれば、とたんにヴィエはやれやれといった顔をしてため息をついてしまった。妙に子供らしからぬ仕草だ。
「またそれですかー……ユウリはここでの生活、不満ですか?」
「ヴィエちゃん。あのね、私はヴィエちゃんのペットじゃないの」
「でも、イリスさまは許してくれました!」
私の意志がない……、とユウリは苦い顔をする。
ヴィエの精神はやはり少女のそれとほぼ同じだ。いや、外界を知らない分もっと幼いかもしれない。そんなヴィエに論理的な事を言っても通じないのは、この半月に及ぶ軟禁生活で十分に理解していた。
なので、
「よし」
ユウリは頷き、ブラシを動かしながら笑顔を再度作った。
「ヴィエちゃん。飴、あげよっか?」
「くれるのですか!」
ぴょこん、とヴィエの長耳が跳ねる。ユウリから飴玉をもらって以来、大好物になっているらしい。
城の食料庫で見つけた飴玉を、ユウリはヴィエ用にと常に持ち歩いている。その時もちょうど一つ飴玉があった。
包装紙をはがしてユウリがにっこりしながら飴玉を見せ付ければ、長耳はぷるぷると震えた。
「わぁ……!」
ヴィエは興奮気味に頬を朱に染めて、こちらを振り向く。
そしてあーんと口を開けた。ユウリはえいやと可愛らしい口元目掛けて飴玉を軽く放る。
「んふんふ」
「美味しい?」
「ふぁい!」
頬をぷっくらと膨らませて飴玉を舐めるヴィエの目尻は緩みっぱなしだった。
これなら、いけるか――。
「ねえねえヴィエちゃん。飴よりもっと美味しくて甘いもの、私知ってるのよ」
嘘ではない。
ヴィエは飴を舐める事も忘れて目を丸くする。
「えぇ……あめよりも……」
「飴よりも」
「あめよりも」
「食べたい?」
「はい!」
ユウリはいけると確信した。その上でヴィエを騙すことに良心も痛んだが、今だけは気にすべきではない。
頬に手をあて、わざとらしくユウリは困り顔をする。
「でも困ったわ。ここには材料が無いのよ」
「ざ、材料? 一体なにが……」
「ええとね、まず砂糖と、小麦粉と、牛乳とあとは果物とか色々……」
「――か、買いにいきましょう! 今すぐ!」
甘いものに弱いヴィエは慌てた様子で立ち上がる。そんなヴィエの小ぶりな肩を、ユウリはそっと押し戻した。
「とりあえず、髪、綺麗にしよっか?」
「う、うー。……はやくしてくださいね?」
ヴィエは懇願を上目遣いにしてユウリを見つめる。はいはいとユウリは笑って、またブラシを動かした。
ユウリもヴィエも本格的な冬の季節ということもあり、しっかりと着込んでから城を出た。ヴィエは当然のように首周りをぶかぶかのマフラーを巻いて耳元まで隠している。
といっても城の周りは森だらけで、買い出しに行くにしてはあまりに不向きな立地である。
なので、こういう時はヴィエが役立つのだ。
「むっふっふー。ユウリ、感謝してくださいね~」
「ありがとね、ヴィエちゃん」
手を繋ぎながら苦笑すれば、ヴィエは胸を張って右の踵を打ち鳴らした。ヴィエを中心に現れる橙の円陣。複雑な紋様に未知の言語。
ずぶずぶとユウリとヴィエの体はその円陣の中に沈んでいって――視界は一瞬、暗く染まる。
秒の間隙。
直後にはユウリの両耳が人々の雑踏の音を聞いていた。視界は回復し、自身がどこかもわからない街の、路地裏に立っていることを告げる。
「本当に跳べちゃうんだ……すごいなあ」
「うふふ、ふー。すごいでしょう!」
「すごいすごい、ヴィエちゃんすごい」
手放しに褒めるとヴィエの顔が赤くなる。金髪とマフラーで隠れているが、きっと耳まで赤いことだろう。
二人はさっそく街中へと繰り出し、食材探しを始めた。といっても小麦粉や砂糖などは大体同じ店に揃っている事が多いし、買出しそのものは順調だった。
「ところでなにを作るのです?」
「……えっと。パンケーキ、ってわかるかしら」
「???」
ユウリが適当な事を言うと、ヴィエはよくわからないと疑問を顔で表す。純粋な表情にユウリは笑みを浮かべて、同時に心が痛むのを感じていた。
――城を抜け出るのは実に簡単なことだ。実際ユウリも何度か城を脱走している。
それでも軟禁生活を続けていたのは、あまりに森が広大すぎて街にたどり着けなかったからだ。ならば転移が可能なヴィエに頼めば手っ取り早いのは当然の事。そして、ヴィエと共に街へ行くのは本当に簡単なことだった。
「わー。色んなものがあるんですねー……」
ヴィエは今、陳列棚に並ぶ色とりどりのお菓子に目を奪われている。店内をきょろきょろと見回す少女は背後に立つユウリが陰鬱な顔をしていることにも気付かない。
ユウリが姿を消せば少女はどうするのだろう。戸惑うだろうか。困惑するのだろうか。ひょっとして……泣く、のだろうか。
それでも、ずっと前から決めた事だ。
そっと、ユウリは店を出た。
「ごめんねヴィエちゃん……」
独り言と共に、ユウリは走り出した。決して一度も振り返らずに。
この街がどこにあるの街なのかはわからない。家との距離も、何もかもがだ。
ただ、どれだけ離れていたとしても、ユウリは家に帰れるとなぜか確信していた。彼女が経験した旅の記憶がそう感じさせていた。
……何分、走り続けただろうか。
「ぜっ、ぜっ、ぜっ……」
荒い息を吐きながら、震える手で壁に触る。そのまま体を押し付け預ける。
ずるずると腰を下ろして、どこかもわからない街の路地裏の冷たさを感じた。
「久々に……走った、せいで、息が……」
とにかく、これできっとヴィエは撒けた。今のうちにどこかで地図を買って、最低限でいいから旅の支度を整えよう。お金は城にあったものを持ってきているから、足りるはずだ……。
なんにせよまた移動しなければ。街も、そこまで広いわけではないから。
と、ユウリが腰を上げようとした時だ。
「ユウリ? どうしたのです? そんなところへうずくまって」
声は横から。呆然として見上げれば、そこには紙袋を一つ抱えた少女がいた。
ヴィエは不思議そうにユウリを見つめている。
「ユウリのいっていた材料は買い揃えましたねー! これで、美味しいもの、食べれるんですよねー?」
「ヴィエちゃん……」
「? なんでしょう」
「足、速いのね……」
ユウリはややあってから腰を上げ、ヴィエから紙袋を受け取った。少女が差し出した片手を握り締め、少し疲れた顔を――どこかほっとしたような顔を、曖昧な笑い顔にする。
「でも探したんですよ? 急にいなくなって……」
「よ、よく見つかったわね」
「ヴィエはユウリに“におい”をつけているのでー」
におい? ユウリが首を傾げてもヴィエは笑うだけだ。腕を鼻に寄せて匂いを嗅いでもさして変わった感じはしない。
どうにもユウリには理解できない領域で、ヴィエは話をしている。
そして、とにかく、ユウリの脱走作戦は失敗に終わったという事だ。
これまでも何度か脱走しようとして失敗してはヴィエに見つかっている。
「もうどうしようもないのかなあ……」
ユウリは思わず呟いてしまった。手を繋いで隣を歩くヴィエが「?」と見上げてくる。ユウリは笑って見せて、前を向いた。
いつの間にか時間は過ぎて、地平線へと太陽は沈んでいく。
あかね色に染まる世界を、ユウリはじっと見つめた。
「ねえ、ヴィエちゃん」
「なんですか?」
助けが来るのかどうかもわからない。もしかしたらこのまま一生、あの城でイリスとヴィエの三人で過ごすことになるのかもしれない。
貴族のしがらみもなく。
辛苦は欠片もなく。
「世界はね、とっても広いの。ヴィエちゃんの知らない事がたくさんあるのよ」
「ヴィエの、知らないこと?」
それはとても気楽なことで、そしてぬるま湯のようなものなのだろう。
だけどユウリは覚えている。忘れられそうにない。
旅はいつも辛い事ばかりだったのだ。
「砂埃は咳をしたくなるし、朝はとても寒いし、夜の森は怖かったし、野宿はとってもつらいものだわ」
貴族の娘として当然のように享受していた恵みのすべてが外の世界にはなかった。だからユウリが思い出す旅の記憶はいつも苦い。
だとしても、『それでも』と、ユウリには思えるのだ。
「でもね、ほら……夕日はとっても綺麗なの」
ヴィエは静かに夕日を見つめる。ユウリと同じように、眩しそうに目を細めて。
旅をしていた時もそうだった。何も無い草原を歩く夕暮れ、へとへとになりながら歩いて、それでも見上げた夕日はとても美しかった。
「夜、冷えた森の中でね、焚火を囲んで飲むコーヒーはとても美味しかった」
野宿のとき、寝袋ではなかなか寝付けなかったとき、夜番のフルールが歌ってくれた子守唄が懐かしい。今ではユウリがヴィエに聞かせる側になっている。その事実にユウリがくすりと笑った。
ヴィエはそんな女の柔らかい笑みを、眩しそうに見つめている。
「ねえ、ヴィエちゃん。私はヴィエちゃんとも旅をしてみたいな」
それは本心だ。嘘ではない。
もしヴィエが望みイリスが許すのであれば、イリスと共に三人で旅に出るのも悪くないとユウリは思う。
逃げ帰るための旅では、決してない。
「でも、でも……」
気付けば握る手が、ぶるぶると震えていた。ヴィエはマフラーに口元を埋め、しょんぼりとした様子で地面を見つめている。
「ヴィエの世界はあそこだから……イリスさまのおそば、だから……」
少女の言葉は頑なだった。しかし、迷いも相応に秘めているとユウリにはわかった。
「ヴィエは、
そう、とユウリは静かに頷いた。
ユウリはしばらく脱走を諦める事にした。
ヴィエのこと。
そしてイリスのこと。
二人の事を、解決しなければならない気がした。