宙を舞う砂粒ほどに小さな氷は、雪のように軽やかで、だけど透き通った宝石のように輝いていた。
瞬間的に砕け散り氷粒と化した城。そして森。もはや野ざらしの大地には寒さを凌ぐ場所などどこにもない。
ユウリはヴィエの手を引き歩きながら、真っ白い息を吐く。
先を歩く女が剣を片手に不安そうな目をして振り返った。
「ユーリリア、本当に大丈夫? 寒そうだわ」
ユウリを本名で呼ぶ女は、ちらとユウリの隣に目線を動かした。切れ長の青い瞳はユウリに手を引かれるまま歩く、焦燥に駆られた顔のヴィエを映す。少女の肩には先ほど女がユウリに貸したコートが羽織られている。ユウリがヴィエが冷えるからと少女に羽織らせたのだ。
冬用のワンピースと言えど生地は薄い。むき出しの首を震わせながら、ユウリは気丈に笑顔を浮かべてみせる。
「ううん。平気。そんなこと言ったらお母さんだって……」
「私は平気よ」
ユウリに母と呼ばれた女――リーナルは上品に唇を緩めた。
後ろで一つに結われた髪も、旅人風の地味な服装も、いつものリーナルらしい格好ではなかったが。それでもいつもユウリが屋敷で見ていた笑みだ。その事実にユウリは懐かしさを覚えた。
「お母さん、どうして……」
「ずっとあなたを探していたの。――レテミアさんもね」
それでもこんなに時間が掛かってしまった。とリーナルはひっそりと悔しさを滲ませて独り言を漏らす。
リーナルは透明な雪の舞う野ざらしの地で、黒い人影を目指して歩を速める。恐らくレテミアだ。ユウリも後に続いた。
「行きましょ。ヴィエちゃん……」
「は、はい……」
ユウリはヴィエの手を引いた。少女は目まぐるしく変わり状況をただ飲み込むことが精一杯で、現状に対して心が追いつけていないような、そんな戸惑いだけの表情をして、前を見た。
――イリスの部屋へと至る方角を、静かに。
黒い女に駆け寄ると、丁度レテミアは誰かに自前のコートを着せている最中だった。
「レテミアさん!」
「あら、ユウリ。無事だったのね」
「はい! ところであの、フルールさんは?」
「……」
レテミアは何も言わない。あれ? とユウリが首を傾げた。いつも一緒に行動していたのだ、ここに居るはずだろう。きょとんとした顔をユウリがしていると、レテミアは苦しそうに呟いた。
「ここに、いるわ」
自らのコートを着せたその人物。レテミアの視線は、そこに集中している。だが当のフルールはというと、だらりと伸びた髪が表情を完全に隠していた。素足で立つフルールはよくよく見れば、レテミアのコート意外何も着ていない。こんなに寒いのに、病的に白い太股を晒しきっている。その太股だって枯れ枝のように細い。
ふらふらと揺れるフルールの体。数分立っているだけで彼女の足は限界を迎えている。
見るに堪えないとリーナルが目を瞑り、レテミアはそっと少女を抱えた。
「フルー……ル……さん……?」
「……」
言葉は急激にしぼむ。声に反応したのか、レテミアに抱き支えられた少女の目が、ユウリのほうを向いた。
――瞳は何一つ映さない。
ぞっとするほど色のない瞳。死んだ表情。
だらりと開いた口からは唾液がどろどろと零れ落ちる。
「ぁああ…………ぁ、ぅ……」
ぱさついた髪は伸びきっていて、レテミアのコートで隠された肢体は見える部分だけでもあまりに貧しかった。
それは、劇物に侵された末路そのもの。
廃人がそこにいた。
「……、……。……」
『おもちゃ』。
イリスは壊れても気にしない気楽さで言葉を選んでいた。
その一言が、現実と直結する。想像すらしていなかった光景にユウリは何も言えなくなった。同じようにレテミアも下唇を噛んで、じっと耐えていた。
「あ、あの。イリスさん、は?」
「……あそこよ」
レテミアが指し示す先。――そこには拳大の破片がいくつも転がっていた。
砕けた眼球。むき出しの心臓。細かくなった肺。未だに白い、上あごから生える歯。
ひ、とユウリが小さな悲鳴を漏らしてしまうその破片群。凍ってはいるが、全て人間の破片だった。
そして何より……。
「不死身……なるほどこれは怪物だわ」
もぞもぞとそれらの破片は動き続けていた。破片同士が合わさり、繋がりあい、より大きな破片へと転じていく。まるで虫が集っていくような光景は、あまりに凄惨で、想像を絶している。
「イリスに死はない。……原初の生命を、星はあまりにも大雑把に創りすぎたの」
『星』。なんのことを指すのか、ユウリは理解できない。リーナルも同じらしく、続きを求める目でレテミアを見ていた。
黒い瞳をフルールに向けながらレテミアは言う。
「私たちの立つ大地。
「生きてるってそんな、まさか」
「惑星級生命体。名は無く、明瞭な意思はなく、ただ自らの揺りかごで生きる者達への憂いと慈悲だけを持った生命……」
だから、『星』。
神を源流とした
『星』ははるか昔、劣悪な環境の中でいつか生まれ来る民らを憂い、環境調整のための命を作った。
太陽を。春を運ぶ精霊を。
「ま、星も反省したんでしょ。
レテミアは何かを馬鹿にする様子で笑い、興味を無くしたように鼻を鳴らす。
その時だ。
「――イリスさま!」
冷えた空気につんざく悲鳴。あ、とユウリが声を上げれば、手を繋いでいたはずのヴィエは既に駆け出していた。ばらばらの破片になってしまったイリスに寄り添うと、壊れたおもちゃを前に戸惑う子供のように瞳を揺らす。
悔しげに眉を歪めた表情が、強く、レテミアを睨んだ。
「あなたが……!!」
ヴィエを中心に橙の円陣は発生する。そこから太い樹木のような怪物の腕が現れ出した。
レテミアが片眉を上げ、リーナルが長剣の鞘に手を掛ける。ユウリは声にならない悲鳴を漏らした。
「やる気? いいわよ、今なら相手をしてあげる。丁度むしゃくしゃしてるの」
レテミアは余裕のある冷笑を浮かべている。雪原の王とも言うべき存在の格に、ヴィエは不利を悟り、それでも召喚を続けた。
何を――そう思ったユウリが慌ててレテミアを止めようと駆け寄れば、その動きはすぐ側の女に阻まれた。
「お母さん!?」
「下がっていなさい」
リーナルの言葉は冷たい。それは守る者を既に選び終えた人間だけが見せる冷たさだ。ユウリは歯噛みする。
誰も、ヴィエを守ろうとしない……!
「ヴィエちゃん、やめて!」
「でもその女が!」
ヴィエの怒りはレテミアに向く。ともすればユウリにすら歯を剥く炎。恐らく無力なユウリでは一瞬で殺されてしまうのだろう。
脳裏を嫌な想像が駆け巡る。
ヴィエがレテミアと殺し合い、どちらかがぼろぼろになって、血を流して、それでも立とうとするあんまりな光景を。
ユウリは、胸が辛くなった。
泣きたくなった。
「やめて、ヴィエちゃん……やめてよ。私……そんなヴィエちゃん、見たくないよぅ……」
「…………」
湿った震え声に、ヴィエが沈黙する。青い瞳だけはぎらぎらと獣のように細く、レテミアを睨みながら。
十秒か……二十秒か。
雪が風で舞うびゅうびゅうという音だけが辺りを過ぎ行く中、ヴィエの表情から険が抜けた。
「……ユウリに感謝するのです」
「あっそ」
やがて体を現しつつあった怪物は、橙の円陣の中へと帰っていく。怪物の姿が消えれば円陣も消失した。
ふんと興味も無さそうにレテミアは鼻を鳴らす。
抱き支えるフルールを愛しそうに抱えなおして、リーナルとユウリに言った。
「逃げるわよ。今のあれには何も出来ない。距離を稼ぎましょう」
「待って……待ってください……」
背を向け歩き出すレテミアを、ユウリは留めた。怪訝そうにリーナルが娘を見つめる。
ユウリは、体を取り戻そうとしている『イリスの欠片』にそっと寄り添っている、ヴィエを見つめた。ヴィエは寒さに震えながら、不安定な視線をユウリに返す。
「ヴィエちゃん! 行きましょう!」
「ユウリ……」
ヴィエはどこか恐れている様子だった。ユウリが声を上げてもそこから動こうとしない。
だけど少女の瞳には迷いが見えた。二つのどちらかを選ばなくてはいけない状況で、どちらも選べない幼さがヴィエの丸い瞳には残っていた。
「来て! あなただけでも! ここから、出て、一緒に……!」
「でも……ヴィエは、イリスさまが……」
「私ね、ヴィエちゃんと見たい景色があるの。一緒に味わいたいものがたくさんあるの!」
「でも、でも……」
酷な選択をさせることになるのは、分かっている。少女にとってイリスという存在が絶対で、選ぶべきものだということもわかっている。
変化とは、恐怖を伴うものだ。ユウリはそう知った。
旅は決して良いことばかりではなかったし、辛い事ばかりだったように思う。
それでも、だ。
ユウリはヴィエに、色んなことを知って欲しかった。
少女と共に旅をしたかった――だからそっと、ユウリは手を差し出した。
「一緒に、旅をしましょう……?」
「――」
ヴィエが目を、瞠った。
少女は側にある『イリスの欠片』をじっと見つめる。手を差し伸べ微笑むユウリを見上げる。
「約束、してくれますか……?」
ふらふらとヴィエが歩く。ユウリは本当に嬉しそうに頷いた。
そして――ユウリの目の前に、ヴィエはたどり着いて。
「ずっと、側に……いてくれますか?」
不安げな言葉。ユウリはもう何も言わなかった。
抱きしめた少女の体は、本当に小さい。
――後悔なんてさせないから。
ヴィエにだけ聞こえる囁きへ、少女はむず痒そうに……だけど嬉しそうに、頷き返した。
――頭、が、痛……い。
――体が、寒い……。
――ああ……。
――また、生きている。
「…………」
イリスはゆっくりと体を起こした。激痛と嘔吐感と眩暈、それに酒に酔ったかのような酩酊が女の体を襲う。ただひたすらに気持ちが悪い。
これで、何度目の再生なのか。
何度でも死ねる体は便利そうに見えて、実際は心すら失うほどの苦痛に塗れていた。
ふらふらと体を揺らして、膝立ちになったイリス。そして異様な寒さの原因を理解した。
城は、すでに失われていたのだ。恐らくレテミアの能力によるものだろう。着ている服ごと破壊されたイリスは、当然だが何も着るものがない。寒さから守ってくれるものなど何もない。
「ユウリ…………」
震え、真っ青になった唇はそう呻いた。野ざらしの大地には人どころか生命の影すらなかった。
ごうごうと雪が降る。そこにあった生活の全てを埋めていってしまう。
鉄錆色の髪を揺らして、イリスは両腕で体を抱きしめた。
「……そう、か。君は、行ったか」
辺りを見回しても映るのはだだっ広い平原だけだ。氷に閉ざされ雪が舞う極寒の景色だけだ。恐らくヴィエも居ないのだろう。
あんな喧嘩別れをしたのだから、仕方がないかとイリスは思った。唇はガタガタと震えて、それでも歪な笑顔を象った。
「ああ……君がもっと心地よく暮らせるように、用意すべきだったのかなあ……」
寒さには慣れきっているつもりだった。生まれた時点で世界は氷の中にあったのだから。
『この星にいずれ生まれる命のために昼を作り光となれ』。
環境調整のために作られたモノだというのに、心など持つからいけない。
感情が期待を作る。『もしかして』と何度思ったところで全ての命は恐怖しか寄越さない。それか崇拝だけだ。
正しさを教えてくれる者など誰一人としていなかった。
『星』は決してイリスの親にはなってくれなかった。
「私はどうにも、どうにも、人付き合いがうまくいかない……いや、言い訳か……」
レテミアは『そこから先』を望まなかったからだと言った。関係の発展を求めていない者には温もりの一つも獲得できないのだと。
その通りなのだろうな、とイリスは思う。
何も得ようとせず、それでも我がままに求めてばかりの女が、何を得られた? 何を許された?
結果はこの様だ。何一つない氷獄の世界だけだ。
「ククッ」
太陽としての座は奪われた。“神”の作った太陽の方が安定していたからだ。だからイリスは役割を持たない。世界のために在ることも許されていない。
最後まで残るのは虚無だけだった。
「アハハ……は、は……」
――心には、穴がある。延々と血を吐き出し続ける穴がある。
「そう、か。そうだな。そうだろうよ、ああ、ああ、ああ! そうだなあレテミアぁ!」
げらげらとイリスは笑い転げた。何もない大地に。冷たさしかない世界に。
雪が降る。女を凍らせる。寒さが喉を引き攣らせる。
「孤独は! 孤独だけが!! 私のそばにある!!!! お前も、ユウリも、何もかもぜんぶッ――――私から……!!」
寒いのは嫌いだった。
痛いのは嫌いだった。
涙を流すのは嫌いだった。
救いを求めてばかりの命が嫌いだった。
救いを与える側にしかなれない自分が一番嫌いだった。
「……」
イリスはぼうっとした目つきで空を見上げた。分厚い雲しかない空を。
目を閉じる。
思い出したのは、かつて友だと信じていた女が、初めて自分を殺した瞬間だった。
「なにがどうして、こうも狂うのやら」
深く考える事は、もう、やめよう。
どうせ燃やすことしか出来ないのなら、それだけでいい。
厭世に生きる事も飽き飽きだ。
やり残したことなど……一つしかない。
「……燃えてなくなれ」
かつて森だった土地が一斉に爆発する。土くれが高く空を舞い上がり、灼熱が全ての氷を溶かしつくす。イリスは全身に燃えるほどの熱を感じた。寒さはもうない。
イリスはゆっくりと立ち上がる。醒めきった目で、前だけを見つめた。
「燃えてしまえばいいよ」
女は、燃え続ける大地を歩き出した。
願う事はただ一つ。
――フルールを、レテミアを、皆を、殺そう。