ひらひらと舞う枯葉。乱立する木々に、荒い獣道。決して歩きやすいとは言えない森の中では、膝が動くたびに熱のわだかまりを生み、歩く気力を奪っていく。
そして――遠い。
何がといわれると、他の全員がだ。
「ヴィエちゃん待ってー…………」
声に、ヴィエの長耳がぴくぴくっと反応した。元気に振り向いた少女は十歩ほど先にいる。
歩き疲れたユウリがヴィエの元にたどり着くと、少女は深い溜息を吐いた。
「ユウリおそいのです……」
割と真剣にヴィエが呆れていた。リーナルも苦笑している。
「あなた、昔から体を動かす事だけは本当に駄目だったものね」
「ぜー……ぜー……」
ユウリは反論することすら諦めて荒い息を吐いている。そんなユウリの様子を、少し先を歩いていたレテミアは振り返った。
「あともうちょっと歩けば街に着くけど、無理そうねぇ」
レテミアは視線を森の先へと向け、ついで空を見上げた。
今日は朝から歩き続けている。街と街の距離がそれなりに開いていたからだ。レテミアもリーナルもヴィエも平気そうだったが、唯一一般人のユウリだけは疲れきっていた。まあ無理もない。ユウリ以外、全員人外みたいなものだ。
冷えた空気が澄んだ夕焼けと、薄らと浮かびつつある星を映す。誰もが吐く息は白く、凍えていた。
ちらと抱える少女を見れば、伸びきった髪から覗く瞳は眠たげで。
よし。とレテミアは決めた。
「今日は野宿にしましょう」
「わ、わかりました……すみません、私のせいで」
「大丈夫ですよ!」
と、ヴィエ。満面の笑みでユウリに言った。
「ユウリがとろくて運動音痴なことはみんな知っていますから!」
「うううう……」
見た目ではかなり年下なヴィエに身体能力で負けていることに、ユウリは本気で泣きたくなった。そんなユウリは「うーうー言う癖なおしなさい」とリーナルに窘められ更にしょんぼりした。
「ユーリリア。薪を集めてきましょう。あと、近くの川で水も汲みたいわね」
「わかった。薪集めは任せて!」
「あら、あら。急に元気になるのねあなた」
「フルールさん達と旅してたときの私の仕事、それだけだったから……」
悲壮な顔で言われてはさすがのリーナルもくすくすと笑ってしまった。
今度焚火の起こし方教えてあげます、と娘の機嫌を取り持ちながらリーナルらは森の奥へと消えていってしまう。親子の会話に、ヴィエは割り入る隙間がなかった。
ヴィエは振り向き、レテミアを見た。女はフルールを木のほとりにそっと置くと、その隣に腰掛けた。レテミアに抱えられ続けていたからか、すでにフルールはうとうとと船を漕ぎ出している。自然と少女がレテミアの肩にもたれかかると、浅黒の女はにっこりと嬉しそうに笑ってフルールを抱き寄せた。
ちなみにヴィエの方を見ようとはしない。
「あ、あの」
ヴィエとレテミア、そしてフルールは何度か争いあった仲だ。それにヴィエの主はイリスであって、イリスはレテミアの敵だった。
ヴィエとてレテミアと仲良くできると考えるほど愚かではない。ヴィエはあくまでユウリに誘われたから、ユウリと共に居たいだけなのだから。レテミアとてヴィエのそういう考え方は理解できているのだろう、適切な距離を保ち必要以上に近づこうとはしなかった。
そうだと知っていて尚、ユウリが居ない今だからこそ、少女は女に問いかける。
「これから、どうするのですか」
「どうするって?」
言葉は冬の冷気より切れ味がある。ヴィエはそっと両手を胸の前で重ね合わせた。
「きっと……イリスさまは追いかけてくるのです。だからいつまでも逃げる事は、不可能なのです」
「知ってる」
むずがるフルールの頭をゆっくりと撫で、背中の中ほどまで伸びた彼女の金髪を指先で弄びながら、レテミアはヴィエでは無くどこか遠くを見つめた。それは旅人がする、漠然とした未来を受け入れる静かな瞳だ。
「どこかで待ち構えなくちゃね」
「そ、それは……イリスさまと戦う、ということですか?」
「ええ」
ヴィエは、ああ……、と小さく漏らす。それはヴィエが考える中で最悪の展開だった。
「イリスさまは、悪いお人ではないのです」
「そう。でも、私の敵よ」
レテミアの言葉は揺るがない。イリスとこの女はそれこそ何千年何億年と共に過ごした、そういう間柄だと聞いている。だというのに女が見せる表情にはおよそ血の通った暖かさがなかった。
「もしも
イリスから詳しい事は教えられていない。でも、何となく、わかる。
きっとどうしようもない事なのだろう。どうしようもないから、終わりは悲惨なことになる。
ヴィエは何も言えなくなった。
女の決意は、あまりに凍りすぎている。
「あなたはどうして付いてきたの?」
レテミアの質問に、ヴィエは困惑をあらわにする。単純な答えしか用意できないからだ。
「それは……ユウリが、いたから……」
「でもイリスの味方でもある……違う?」
「……」
ヴィエが押し黙って俯くと、レテミアはそれ以上のことを言わなかった。
「あなたはイリスに依存しているのね」
「依存……?」
「そう。昔、私がフルールにそうしていたように」
今もかもね、とレテミアは笑って隣のフルールに顔を寄せた。額と額が触れ合う。少女の頬を長い指が撫でる、細くて病的に白い首を手が踊る。
いっその事キスをするのではないかとヴィエはどきどきしたが、レテミアは決して唇を重ねようとはしなかった。
「依存するというのはね、ぴったりとくっ付いて離れないことなの。離れたくても離れられなくて、引き剥がそうとしたらそれだけで痛みが生まれる」
睦まじいというよりも扇情的な仕草。それでもフルールが目を開くことはない。
レテミアは寂しそうに笑って体を離した。
「あなたと私は、同じなのかもしれない」
でもね、違うところが一つだけ。
「――私は決着のつけ方を知っている。すべてへ」
女が恐々とフルールの手に己の手を重ね合わせた事を、それでもレテミアが白い手を握ろうとしなかった事を、ヴィエは見逃さなかった。
「いつまでも何も考えずに生きることへの、清算をすべき時なのだと思うわ」
彼女はもう既に終わりを知っている。ヴィエには直感でそれがわかった。
その『終わり』というものは、きっとレテミアにとって悲しい選択で、だけど――
ああ。すごいな。
「あなたは……強いのですね」
「褒めても何も出ないわよ」
ヴィエにはその決意が、覚悟が、ただひたすらに羨ましかった。
冬の森、それも宵闇の中だ。
生命の全てを拒むほどに世界が寒くて、それに寝袋の中に居ても土の固さが気になって仕方がなくて。
『あなたはイリスに依存しているのね』
だからヴィエはもそもそと体を起こした。
夜番をしているユウリが目を丸くする。
「ヴィエちゃん? どうしたの?」
「なんでもないのです」
寝袋から一度出たヴィエは、焚火を絶やさないよう枝で火を突付くユウリの隣に近寄った。橙色の灯りが不安定に揺れて、隣のユウリの表情を濃くする。
彼女は困り顔になって、やがて微笑んだ。
「……紅茶でも淹れる? 安物だけど砂糖をね、たっぷりいれたら甘いのよ」
「それは欲しいのです」
わかったわ、と得意げな顔になってユウリは湯を沸かし始める。動きはてきぱきとしていて、慣れきった見事なものだ。ヴィエが感嘆でため息を吐けば、余計にユウリが誇らしそうに胸を張る。へへんと笑うのが無性に悔しくて、ヴィエは女の膝をべちべちと叩いた。上半身だけ寝袋から出ているユウリはくすぐったそうに笑った。
やがて沸騰したお湯をカップに注ぎ、ティーパックを一つ。
そして砂糖を三杯。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
じわじわと溶け出す茜色。覗き込めば美しく水面が輝いて、立ち上る湯気と共に華やかな香りがした。
「はいどうぞ」
「あ、ありがとうなのです」
カップごと受け取って、ふーふーと息を何度も吹きかけてから、一口。
口内を溶かすような熱の塊。びっくりして肩を震わせてしまう。ユウリが背中を撫でてくれて、ヴィエは次の一口を非常にゆっくりと飲んだ。
甘くて、熱い。ただそれだけのものが美味しかった。
「おいしい?」
「……おいしい」
「そう。よかった」
ぱちぱちと焚火が爆ぜる。ユウリも自分のカップにお湯を注ぎ、熱々のコーヒーを作りだしていた。
焦った様子のない、穏やかな動き。
焚火が照らす優しい横顔。
彼女の揺れる金髪は燃えるように輝いて、そっと耳にかける仕草につい見惚れた。
「いつも、ユウリはこういう事をしているのですか?」
「野宿のこと? んー。フルールさん達と旅をして居た時は、順番に変わっていたかなあ」
「夜通し起きてて、その、つらくないのですか?」
「実を言うとね……つらいのよ」
寒いし眠いし暇だもの。
「でも、嫌いじゃないわ。夜更かししているみたいで楽しいから」
と、ユウリは悪戯を隠す子供のように無邪気な顔をする。いつものユウリらしくない表情は歳よりも幼げで、楽しそうだった。
ヴィエはようやく実感できた。
「そっかあ……」
「? ヴィエちゃん?」
ユウリは、はっきり言ってとろい。
足も遅いし運動音痴だし、正直ヴィエよりも弱い。
だけど彼女は料理がそこそこ得意だった。
いつも甘いお菓子を作ってくれた。
笑顔の優しい人だった。
城にいた頃のユウリは笑っていて、だけど寂しそうだったのをヴィエは忘れていない。
旅の思い出を語る時だけはいつも楽しげで、面白そうで、ヴィエはそんなユウリを見たことがなかったから、少しだけ嫉妬した。自分といる時は決してそんな表情を見せなかったからだ。
華やかで活き活きとした表情。
だから、ああ、なんとなく分かった気がする。
「ヴィエは、ユウリと旅をしているんですね……」
ヴィエが知らなかったもの。ユウリは知っていたもの。これが、この静けさと寒さが、それだ。
きっとイリスは知らない。彼女は強いから。
――そうだ。
少女は決意した。レテミアのように。知らないと言うなら、伝えればいい。
色々なことが思い浮かぶ。イリスにしてやりたいこと、して欲しいことが、たくさん。
そこにはきっとユウリもいる。
たまらなくなって、ヴィエはユウリの名を呼んだ。
「ユウリっ」
強く、強く。
「なあに、ヴィエちゃん」
名を呼ばれること。イリスが付けた名をユウリが呼んで、彼女が笑顔で、受け入れてくれること。
それだけが嬉しくて。
「いいことっ、いいことを思いついたのですっ。きっと、きっと――」
真っ暗な夜の森。焚火の明かりだけがヴィエとユウリを照らしている。ヴィエが笑顔になってユウリに抱きつき、ユウリは驚きながらも少女を受け入れる。
そこから先で語られたのは、おとぎ話のような世界のこと。
希望を前提とした未来だ。
ヴィエは、彼女なりに、イリスを救うつもりでいた。
きっと間違いは正せるのだと信じていた。
幻想だなんて露ほどにも思わなかった。