フルールを奪還してから、ひと月か二月ほどの時間が経過していた。
この頃になるとフルールの様子もだいぶ回復しており、ある程度簡単な言葉なら話せる程度には立ち直ってもいた。それでも薬物汚染の影響が濃いのか、心理的な要因か、レテミアにしか話しかけないが……。
「れ、て」
「なあに? フルール」
「さむぃ……」
少女の言葉はぶつ切りで、舌足らずで、それが一層レテミアに幼いころのフルールを思い起こさせる。純真無垢だったころの一人の少女を。
ここはどこかの街の宿の一室。レテミアはどこの町だろうとどうでもよかった。とにかく、暖房の効いた暖かい室内なのだ。それでもベッドの端に腰掛ける少女は、体を寒そうに震わせている。瞳孔の収縮がいまだおかしな瞳は、不安定に揺れていた。
同じようにして隣に腰掛けているレテミアは、にっこりと笑って少女を抱きしめた。
「ほら、こうしたら暖かいんじゃないかしら?」
「うん……あ、った、かい……」
拘束するかのように抱きしめる少女の体。その匂い。柔らかさ。レテミアは生まれたての小動物のような震えをするフルールを抱きしめ続けた。そうしている内に少女はゆっくりと眠りに落ち、すぅすぅと可愛らしい寝息を立て始める。
「……よし」
寝ている少女にならどんないたずらだって許される――今のフルールは盲目的に今の己を信頼している。だから、何をしたって……。そんな邪な考えを振り払ったレテミアは、そっと、フルールをベッドに寝かせてしっかりと毛布を掛けた。んん、とむずがる少女の額を撫でれば、ちょうど部屋の扉が開く。
「ただいま戻りました」
言ってから、ベッドでこんこんと眠る少女の姿に「失礼しました」と小声になる女――リーナル。腰に挿した直剣ががちゃがちゃと音を立てる。
レテミアは、訊いた。
「それで――どうだったの?」
「間違いないようです。鉄錆色の長髪に、赤い瞳の女。……以前通った街で目撃されています」
ふうん、とレテミアは頷いた。
リーナルは貴族の一人だ。それもそれなりの位のある貴族で、その権力は計り知れない。諜報員を各街に忍ばせ、情報の収集を頼んであった。
そして、獣が釣れた――そういうことだ。
「さすがね。人間もやるものだわ」
「諜報活動は貴族のたしなみですので」
目を伏せて言うリーナルは、実にけろりとしている。恐らくユウリには見せていない『顔』なのだろう。室内にはユウリとヴィエの姿はない。
「近々、決戦ですね」
「無理しないことね。貴女はしょせんただの人間だもの」
「あらまぁ、お優しい」
くすくすと笑ったリーナルは、やがて不思議そうに首を傾げた。部屋中を見まわしてからレテミアに尋ねてくる。
「ところで、ユーリリアとあの子は?」
「あの二人なら、少し出て行くと言っていたけれど」
リーナルが返ってくる一時間ほど前の事だ。ユウリとヴィエは二人して部屋を出て行った。どうせ観光だろうと高を括っていたレテミアは居場所を問いただそうとはしなかったし、ヴィエがいるのだから問題も起こらないと考えていた。
母親も納得したらしい。「そうですか」と頷けば、椅子に座って剣の手入れを始めた。レテミアも眠っているフルールに向き直り、そのあどけなさをじっと見つめては時たま頭をなでる。
「……」
「……」
そんな静かな時間が、どれほど過ぎたことだろう。
どれだけ経っても二人は帰ってこない。道草にしては長すぎる。
リーナルが我慢ならないといった様子で椅子から立ち上がった。
「遅い」
「あの二人なら、というかヴィエがいるなら、危険なことはないと思うけど……」
「ですが遅すぎます」
自身の娘のことだからだろう。リーナルは忙しなく室内を歩き回った。その焦りも当然だろう、彼女はユウリ救出のためにレテミアの旅に同行していたのだから。
ふと、リーナルは動きを止める。
「あの二人……まさか……――勝手に接触を!!」
リーナルの、驚きに満ちた声。
残念ながら女の予想は当たっていた。
ヴィエの転移があれば、街から街への移動は実にたやすい。だからこそ、ユウリはヴィエの提案にも乗った。
『きっと、あの街にいると思うのです』
そんなあやふやな、だけど確信を持ったヴィエの言葉をユウリは信じていた。――だからこそ今、ここに
「……何の用だ」
女の声はどこか、しわがれていた。瞳も沼に沈んだように暗い。
場所は街の喫茶店。街中でイリスを見つけたヴィエとユウリが、女を手ごろな座れる場所に誘った形だった。
「あの、あの、ヴィエは……ヴィエは、イリスさまに知ってほしいのです。色々な事を……」
机の上。イリスの前に置かれたコーヒーがゆらゆらと湯気を立てている。イリスの視線はそこにだけ集中していた。
その頑なな態度の理由を察せないヴィエとユウリではない。――それでも来たのだ、ヴィエは意を決するように目をつむりながら、肩から提げた鞄から紙袋を一つ女に差し出した。
「あの、これっ」
新聞紙を利用した紙袋はほんのりと油が染みている。押し付けられる形で受け取ったイリスの手のひらに、じんわりとした温もりが伝わった。
「これ、ヴィエが作ったものなのです。クッキー……ユウリに作り方、教わって……で、でもっ、ヴィエが一人で作ったのです!」
「……まだ暖かいな。焼きたて、か」
ヴィエもユウリもイリスを見つめている。女はちらと赤い視線を二人に送り、またすぐに俯いた。
紙袋を開く。そっと。黒と白のクッキーからはバターと小麦の香りが漂う。
「食べろと?」
「……はい」
『……』と無言でクッキーをつまむイリス。毒だとかを心配する様子はなく、静かに食べだす。
「ヴィエちゃんは、旅が好きなんです」
イリスは聞いているのかいないのか、クッキーを食べ続けている。
「だからイリスさんにも同じ経験をしてほしいって言ってました。……ね? ヴィエちゃん」
こくこくと頷くヴィエ。
ふうん、とイリスはあいまいな声を漏らす。気づけば焼いたばかりのクッキーは全て食べられていた。彼女は味の感想一つ言わずに、丁寧に折りたたんだ紙袋をヴィエに返す。
「それが、お前が旅で学んだものか。ヴィエ」
「はい……きっとイリスさまにとっては大したことがなくても、ヴィエにとってはかけがえのない思い出なのです。とっても、楽しい、素敵な……」
胸の前で両手を組み合わせるヴィエは、本当に楽しそうな笑顔を浮かべた。
主人から逃げ出して後の再会とは思えないほど朗らかで、柔らかくて。
イリスは誰がヴィエをこうまで変えたのか、考える必要すらなく理解できていた。
「そうか。君は……そしてヴィエは、私を助けたいんだな?」
言葉は、納得を滲ませる響きでもって呟かれた。ユウリも、ヴィエも、同じように頷く。
「どうにか、なると思うんです。きっと。私にはあなた達の詳しい事情を知らないけれど……言葉は、あるから」
「贖えない罪は罪ではないよ。それは絶望と呼ぶべきだ」
「それでも……!」
頑なな心をほぐそうとして、ユウリが意気込んだ瞬間だった。
「――昔な、私はレテミアに殺されたんだ」
訳も分からないまま……突然。
「そしてあいつはかつて私の下にいたフルールを連れて、旅に出た」
女の表情は泣きそうなほど崩れていた。帰りの遅い夫を待つ、そんな弱々しい表情。イリスが決して見せない『女らしい顔』に、ユウリの声は止まっていた。
「私はそれでも、それでも信じてたさ。きっと何か勘違いをしているのだと。語り合えば……また会えば、きっとまた元の腐れ縁を――――曖昧で壊しがたい友愛を取り戻せるんだって信じてたんだ」
「……」
「だけどな。再会したときレテミアは、フルールをすでに選びきっていた。私は気づけば二人にとって恐ろしい怪物に成り果てていた」
それは、ユウリもヴィエも、初めて聞く過去だった。イリスは具体的な内容を避けるように目をそらしているが、それでもこれまでの出来事からおおよその想像はつく。
「…………フルールの両耳を千切った。ヴィエ、お前と同じ神の娘の長耳を、だ。私はあの娘を今でも恨んでいるし、だからこそこうして奴らの後を追っている。……まさかそっちからやって来るとは思わなかったが」
ユウリは理解した。
これは、どちらが正義でどちらが悪だとか、二極の問題ではないのだと。
「――だけどお前の耳を取らなかったのは何故だと思う?」
それはユウリが聞く中では、初めてイリスがヴィエに向けた、優しい声音だった。そしておそらくヴィエにとっても同じなのだろう、少女は顔をこわばらせて固まってしまう。
「愛じゃない。優しさでもない。――お前を道具だと、断定しているからだ」
「……」
「お前の同種によって様々なものを失った。その戒めなんだよ、お前を拾った理由なんて。……道具として有用だから傍に置いただけのこと」
たったそれだけだ。そこには感情の入り込む余地すらない。
「ヴィエ。お前の
「それでもヴィエは、イリスさまのことが…………」
「ふん」
イリスは最後まで聞こうとはしなかった。ヴィエも、大事な言葉を紡げずにいる。
やがて沈黙は当たり前のように、三人に降りかかった。
ヴィエとユウリが夢見た希望はあっけなく砕けてしまい、それでも諦めきれないと、二人は目線で物語る。イリスは、そんな視線がどうしても煩わしかった。
「――今更だな」
言葉は、唐突。
「今更なんだよ、ユウリ」
女はせせら笑っていた。全てを。
「なあ。覚えているか。君と出会ったときの事を」
「……ええ、今でも鮮明に」
「そうか。嬉しいな」
イリスは決してヴィエを見ていなかった。ただユウリだけを見ている。
「私は言ったな。同じだと思ったから、と」
訂正するよ。
「だから――君とてやはり、私ではなかったんだ。王ではなく、貴き“個”だった」
イリスは少しだけ寂しそうに
「ユウリ……ヴィエ。私を救おうとするな。助けようとするな。私には、美しすぎる」
ユウリが何かを言う前に、女は項垂れる。赤錆の髪で表情のすべてを隠し、また同時に外界のすべてを拒絶した。
「王は……やはり常に孤独だ。孤独を強いられるのではなく、孤独を選んでしまう」
「イリスさま……」
ヴィエの辛そうな声を、イリスは聞き届けなかった。
「破綻だ。もとからそれしかなかったんだ」
上がる顔。暗色の哂い顔。破滅を信じ、それ以外を見れなくなってしまった者の表情。
ユウリは、自身の選択を間違いだとは思っていない。ヴィエをイリスの下から連れ出しともに旅をしたことは、決して間違いではないと信じている。だけど一瞬だけ後悔を感じた。
誰か一人がイリスをこうまで壊してしまったのではない――誰も彼もが、イリスの背を破滅へと押し続けたのだ。
「……イリス、さん」
「なんだい?」
ぎゅっと、ユウリは胸の前で手を組む。祈りをささげる聖女に似た仕草には、恐れはない。
「私は……あなたを、救いたいって、今でも思います」
「ふふ。そうか。そんな君が好きだよ、ユウリ」
女は今度こそその頬を柔らかく緩めて見せた。ユウリはその表情が決して何かを変えることはできないとわかってしまった。
もう、後戻りは、出来ないのだろうか――。もう手を尽くしてしまったのだろうか。ユウリは考える。自然と、隣に座るヴィエの手を握りしめながら。
だけど、直後のことだ。
「――【招聘:
空間ごと裂くような
それは的確にユウリとイリスの間を引き裂き、テーブルを真っ二つに切断する。同時にイリスの右腕が肘から先を切り落とされた。
「――」
視界に零れるように出現した血の赤。ユウリが呆然とするよりも早く、イリスが彼女を無事な左手で突き飛ばす。自然と手を握り合っていたヴィエもユウリとともに吹き飛び、床を転がった。
当然、喫茶店は騒然となる。突然女の腕が切断された事実に悲鳴がたちまちに上がり、客も店員も皆が外へと逃げだした。
残されたのはユウリとヴィエ、そして血を流すイリス。――殺気立つ静寂へと変化した店内へと、入ってくる人物は一人。
その者は左右別種の二刀を握っている。左は薄ら青く輝く長剣、右は黄金の柄に十一の宝石がちりばめられた豪奢な剣。
「それは……“神”の遺物か」
「王剣と、そうお呼びください」
女だった。長い金髪を後ろで結い、身動きのしやすい格好をした、長身の女。怜悧な青の瞳は一瞬だけ心配そうにユウリを見て、すぐに殺意をもってイリスへと目を移す。
「お母さん――」
「下がっていなさい」
母は……リーナルは剣を構えて娘に言った。
リーナルの掲げる剣の美しさに、色とりどりの宝石が見せる輝きに、イリスは目を細める。未だ血を流す右腕をまったく意に介さずに。
「たかが腕如き、どうしたという」
鼻を鳴らして、視線で切断部位をひと撫で。それだけで断面から肉が生まれ、骨が生え、神経が繋がり、筋肉が元に戻る。――あっという間に腕は再生していた。
「愚かだな人類。それは剣ではなく、遺物へ至る鍵だよ」
「ならば尚のこと。あなたの体を砕き開いて見せましょう」
「ふん……価値もわからんくせに賢しらな」
不死性の顕現にリーナルは眉一つ動かさない。二人がにらみ合いを続け、ユウリとヴィエが固唾をのんで二人の行方を見守る中。
――室内に、もう一人、来訪する。
「レテミア」
ひっそりと入ってきた黒い女は何も言わなかった。ただ、女の黒髪が風もなく波打ち、そしてどこからか氷塊がいくつも出現する。それ一つで人体を粉々にできるだけの密度を持った、氷が、何個も。
剣と、氷。殺意だけが支配する空間で、イリスはユウリを見た。
そして、小さく微笑んだ。
これが現実なんだと諭すかのように……。
「お前を、殺すよ――」