とっさの判断でレテミアが氷製の繭を作らなければ、おそらくユウリもリーナルも――更に言えば亡骸のヴィエですら炭と化していた。
それほど苛烈な炎は、今もなおがむしゃらに振るわれ続けている。たった一人の赤い女を中心にして。
「……二人とも、その繭から絶対に出ないで。間違いなく死ぬわ」
イリスの自暴自棄な暴走は、それゆえに何も見ていないのだろう。レテミア達が猛火を凌いだことにも気づいていない。ユウリはそっとヴィエを抱きしめながら、こくこくと頷いた。
レテミアはリーナルに目線を一つ向け――リーナルが自身の娘の肩を抱き寄せるのを見てから――氷殻から飛び出る。
「これがなにかわかるか!」
イリスの声は誰に向けたものかもわからない。しいて言うならそれは全世界に向けての絶叫であり、怒りだった。
「破壊の熱だ! 炎が何を生んだ!? 火を得た生命は何を作った……!」
女が右腕で空を薙ぐ。それだけで大地が爆発し灼熱と化す。
女が左足で地を踏みつける。それだけで女の周囲の全てが赤く染まる。
「与える者への感謝を忘れて、誰もが『自分の力で生きている』などと驕る!
――じゃあ何のために!? 私は太陽を、昼をなぜ作り出した!? 恐怖しか寄こさない者たちのために、どうして立ち上がる必要がある!?」
激震に次ぐ激震。レテミアはわずかな隙間を縫うように動き、イリスへと肉薄。氷の義腕は鋭い刃となって女の首を掻っ切ろうとするが、
「お前も、私もッ――何のために生まれたんだよ!!!!」
既に気づいていたのか。イリスは背後から迫る褐色の女へと振り返り、怒りの形相で睨み上げた。それだけでレテミアの義腕が爆発する。勢いで吹き飛ぶレテミアが苦渋の表情と共に権能を振るった。
異常な数の火の粉が舞う空中、出現する巨大な氷槌。重量に沿って叩き下ろされる一撃を、イリスはしかと見つめ――右腕を空へと突き上げた。
たったそれだけの行為。レテミアはイリスの粉砕を確信する。
ガキ、という亀裂の入る音。
数秒の後には宙に浮かぶ槌が砕け散る。超密度の氷塊が、たった一つの拳に負けた。レテミアには驚愕する余裕もなかった。
これが、第一の生命――否、
星に最も祝され、期待され、裏切られた者の力。
座を冠することなく感情のみですべてを超越している異常そのもの。不死であり絶対存在である彼女に、既存の法則など通じないのだ。
「私もあなたも確かに理由なんて持っていなかったわ。ただ星の憂いから作られた、慈悲の存在よ」
「だけど、お前にはあるんだろ。愛が……理由が! 私には何にもない! 理由なんて何一つ!」
頭を抱えた女の懊悩は、自身の右腕が燃えていることにすら気づいていない。皮膚を食い破り生まれ続ける炎がイリスの髪を燃やしていく。赤錆の髪を、まさしく紅蓮の輝きへと。
「そうだ……空っぽなら、それでいい、それならまだ許しはある。空虚な穴にはなんだって詰められるんだから……価値も地位も何もかも!」
やがてイリスは虚ろな声と共に顔を上げた。もはや彼女は何も見てはいなかった。赤い瞳はただ、忘我の涙と共に歪んだ決意を燃やしだす。
「私が、なろう。なるんだ……。
世を平定する王者に! 覇者に――
歪んだ笑みがイリスの口元を覆った。
それは、小さな子供がくだらない幻想を夢見るような、そんな笑みでもあって――だけどあまりにも壊れていた。
「“神”は自らが子孫の驕りに絶望し星を去った。優しさはいつだって裏切られる――ならば世は常に冷え冷えとしていればいい」
激烈な感情は底冷えするほどの覚悟によって裏打ちされ、どうしようもないほどに硬度な意志を作り上げる。熱した鉄は形状を変え、叩き終えられてしまった。
イリスは、ようやく、レテミアを見定める。
自らの敵を――願望のために潰すべき障害を。
「私は全ての生命を燃やし尽くす。その上でもう一度やり直すさ……今度こそ、今度こそな」
「世界は冷たいだけではなかったのよ、イリス――!」
「――だが熱いだけじゃないか!」
女が吠えれば大地が爆ぜた。荒れ狂う土くれを交差した腕で受け流しながら、レテミアは歯噛みする。
もはや女の心は壊れかけている。そして狂えば狂うほどに力を増す状態にある。
「全ての感情が激烈に燃え上がるだけだ! 何も、何もッ、静かにあろうとはできない! 私も、貴様もッ、所詮は熱そのものでしかないというのに今更――!」
――どうすればいい? どうすれば、この途方もない因果を断ち切れる?
レテミアは考える。氷塊を、氷槍を、氷剣をイリスへと叩きつけながら。その全てが無に帰し溶けた氷すら蒸発するのを何度見ても、諦めることさえせずに。
「そうやって暴力でしか解決しようとしないから――だから全てが私達から離れたのよ!」
レテミアにはわからない。どれだけの言葉を投げかけても、きっとイリスには通じないだろうと気づいていた。
当然だろう。レテミアは、未だフルールを失ってはいない。少女の絶対的な価値に気づいていたから、イリスのような過ちを犯さずに済んでしまっていた。
だからこそ、イリスは自嘲のような愚者をなじるような、そんな笑みを浮かべて吠えられる。
「ふハッ。そうだな、そうだったなァ! 誰にだって理解できないさ……! ああそうだ、そうだろうよ! これが私だから、こんなのが私だから、こんな私を理解することなど――」
「――分かり合えないと知っているのに、どうして!」
言葉は遠い。それでも、イリスの鼓膜を打つに足る声量だった。
イリスが権能を止め、声の主をゆっくりと見やる。錆びついた玩具のような動きは、現実を拒絶する様そのものだった。
それでもユウリは叫ぶことを止めなかった。
「どうして貴女は戦うことを選ぶんですか!」
「――」
リーナルが止めるのも無視して、ユウリは氷の繭を抜け出てしまう。人間の彼女にはとても耐えきれない熱気が、灼熱がユウリを襲った。もはや大地に人間の踏める場所などどこにもないというのに。
じわりと首筋に浮く汗が、苦渋の表情が女の限界を示していた。
ユウリは、それでもヴィエの亡骸を抱きしめながら、前へと進む。
「分かり合えなくて当然じゃないですか! 私もフルールさんもレテミアさんもヴィエちゃんだって、イリスさんではないんです! 誰もが誰かになることなんて絶対に不可能なんです!」
「ユウ、リ。でも、でもな」
「人も、亜種も、みんな生きています! あなただって! ヴィエちゃんだって……!」
ユウリの履いている靴の底が溶けだした。流れる汗が涙と混じって女の表情をぐしゃぐしゃにした。
「ヴィエちゃんは、言葉を選びましたよ……? あなたに自分の事を理解してほしいから、言葉にしたんですよ?」
靴が溶け、ユウリは靴下まで溶けだしていることを、足裏から忍び寄る熱から察していた。
熱いのではなく、痛い。
だけど、でも、抱きしめるヴィエは決してその瞼を上げることはない――。
「私もそうしたいと思います。人の手は、誰かを殴るにはあまりにも複雑な形をしているから」
だから余計にユウリは少女を抱きしめて、前進した。
リーナルが邪魔しても、イリスが恐れるように首を横に振っても。
「だから私も貴女に何度だって語りかけます……!」
「……ッ! だったら何だ!? 痛ければ止めていいのか! 苦しければ諦めていいとでも言うのか!? ――そんなわけない! そんなわけがないだろう!! 生きるという事は、そんなにッ、簡単なことじゃなかった……!」
イリスは苦しそうに吠えた。言葉は熱を爆発を生まない。その隙に、決死の表情をしたリーナルがユウリを抱える。レテミアは再度二人の周囲に氷の繭を作った。
「誰もが苦しみながら死ぬ世界を、知っているかい?
誰もが凍え、震えながら縮こまっていく虚しさを知っているか?
確かな力はあるのに誰も救えない苦痛を知っているのか。
必ず誰かを見殺しにしなければならない辛さを知ってるか!?」
それは、王者だからこその苦痛だった。そしてその場の誰もが王にはなれず、
イリスは十分に理解している。全てを。己が孤独を。向けられている恐怖も怒りも何もかもを。
それでも、
「それでもさぁ、」とイリスは言葉を繋げるほかなかった。
「私は――私なりに、全てを救いたかったんだよ……」
救いたかった。
辛苦なんて負わせたくなかった。
誰だって、寒いのは、嫌いだから。
「ただ……あまりにも、私という生き物は歪んでいたんだ」
わかっている。
もし、誰かを大事にできる自分がいたならこんな事には――ヴィエは死ななかったんだろう。過去さえ違えばこんな結果はなかったのだろう。
「星がもっとまともに私を作ったなら。私がこんな狂った衝動をもっていなかったら! 私が愚かでさえなければ!!!!」
だけど、そんな幻想に縋ってしまえば、それはもはや救いようのない愚か者でしかないのだ。
「――私に恋人がいたら!?」
何か変わっていたのかもしれない。
「――私にも親がいたら!?」
何かが変わっていたのかもしれない。
「――私を愛してくれる誰かを、私が正しく愛せたなら!?」
きっと、何かが、変わっていた。
それでもそんなもの、無価値なのだとイリスは気付いている。ヴィエの死に顔を見た瞬間に気付かされてしまった。
「そんな仮定、意味はないだろ! ないんだよ!!!!」
自分は自分だ。時に成功し、時に間違えてしまった現在しかない。全てが、そういう生き方しか許されない存在だろう。
「叫ぶだけで生きれるのなら、私はもっと賢い! ――できないからこうしている! こうして殺意を、怒りを、炎に変えて紛らわすしか知らない魔王だからッ!!」
イリスが、空へと手を伸ばす。吹雪が埋め尽くす黒き空へと。
なんら明かりを見せない極寒の大地に、一つ、変化が起きる――。
「だから私はこのやり方しかしらないんだよ……ユウリ……」
それは極小さな光と熱だった。球状の、ふつふつと沸き立つ熱が、イリスの手のひらの上にあった。
原始的で小規模な太陽。その子供の拳ほどの小ささの中にはあまりにも過剰すぎる熱と光が秘められていて――それが、更に増える。
一つ。二つ。三つ。四つ、五つ、六つ……気づけばイリスの手のひらには
「……ッ! ユウリ、リーナル、下がって!」
レテミアが咄嗟に叫び、前へと進む。同時に権能を振りかざし大量の氷を生んだ。レテミアの前方に生まれた何十層もの氷の壁。その大きさ、零下の凍てつきは、もはや氷河に等しい。
それでもイリスはユウリに向けて、微笑んだ。
「命は、燃えるだけだろう?」
――すべての太陽が、放たれる。女の殺意が氷を溶かす。
「なんて熱量……!」
「だから死ね! 全て! 全て遍く命よ! 私の炎で炭となれ――ッッッ!!!!!!」
その殺意はあまりにも大きすぎた。
膨大な熱量が大地を氷の盾を溶かし続ける。どれだけレテミアが氷壁を作ろうと間に合わない。戴冠者をも圧倒するほどの強制的な権能の執行――どれだけの負荷が掛かるのか。レテミアはイリスの怒りを、覚悟を知った。
そして、無理だ、とも。
どれだけ力を取り戻そうと、己ではイリスの炎を受け止めきれない――背後にいるユウリ達を守り切れない。
「 」
言葉もなくして、レテミアは死を悟った。何もかもを諦め放棄しかけた。
だけど、女の背中が僅かに曲がった瞬間。
「れてみぁ」
レテミアは、希望という言葉を知った。
極小の太陽と氷河の狭間。縫うように入り込んでくる、その少女。ふらふらとした足取りにどうして気づけなかったのか。ユウリもリーナルもレテミアも、イリスでさえも目を見張った。
「フルール、どうして――」
歩いて、来たのか。たった一人で。こんなにも恐ろしい空間に?
何故――。
「ぁ、なた、が」
少女が手をかざす。いくつもの極大の熱へと。それだけで少女の前方に巨大な、それこそイリスの生み出した熱と同等の炎が出現した。
熱を、炎が阻む。食らっていく。
「あなたが――あいして、くれたから」
「――」
少女は決してレテミアを振り返らない。その瘦せほそった背中はとても貧しくて、脆そうで――だけどフルールは立ち続けていた。いまだに見えない恐怖に襲われながらも、必死に。
足は、震え続けている。
「ずっと、ず、っと、そばに、いてくれたから」
――もう何も、怖くなんてないの。
「あなたが、いた、から、
――きっと怖い事ばかりの世の中でも、平気なのよ。
「あなたを、あい、してる、の」
「――――」
もはや女が何かを言葉にする必要なんて、なかった。
レテミアの頬をぬるい滴が滑り落ちる。それは世界中を占める熱気よりもはるかに熱く感じられた。太陽ですら、この涙を枯れさせることなど出来ないのだと、そう確信できた。
……ああ、だからなのか。
フルールが旅をしたがった理由を、常に二人で居続けた理由を。
彼女はずっと理由を示し続けていたのだ。
「わたしは――生きたい」
その背中は決して弱々しくなんかなかった。何ものにも犯されていなかった。
少女は、そして、静かに息を吸う。
「【
――直後に起きた現象の全てが、奇跡そのもの。
言葉と同時。
フルールを中心に黄金色の粒子が世界を舞った。砂金にも似て、だが幻想的すぎる輝きは、風に漂い広がっていく。
それは、黄金色の海原にも似て。
凍てつき、砕かれ、溶かされた大地が正常に戻される。崩壊した街並みが全て一斉に修復される。石畳があり、街灯があり、家々の立ち並ぶ世界が一気に広がって――更には。
「私の腕が…………嘘、でしょ」
イリスに断たれたレテミアの右腕。根元から失われた肉体が、黄金色の粒子に触れただけで再生した。一切の後遺症もなく。
呆然と右手を動かす女を放って、その粒子はフルールをも包む。
黄金に包まれる少女に、変化はすぐ起きた。
病的だった肌の白さに熱が戻り、薄らと桜色の色づく。
たゆたう長い金髪に艶が戻り、陽光を受けずともまばゆく輝いた。
「綺麗……」
ユウリが思わず漏らした通りだと、その場の誰もが思った。
肉体の、再構成が行われている。
人間が新陳代謝によって成長するように、少女の体はたった今、確かに生きようとしていた。
それは決して不浄などではなく。
――言うなれば、灰の中から生まれる不死鳥そのもの。
「死以外のすべてを根絶し否定する奇跡……? そんなもの、可能なのか? それはまるで、苛烈な炎ではなくて――温もりじゃないか」
イリスが呆然と声を上げたのは、あまりにも隔絶した能力の違いを理解してしまったからだ。
死はただ生へ至る通過点。腐ることも廃れることすら、いいや、そういう過程を経たからこそ、少女はようやく先へと進めた。イリスのように、原初へと還るための炎とは根本から違う。
「毒こそが文化……」
ぽつりと、彼女は呟く。
その声音。
その荒い口調。
奇跡だと、レテミアは思った。
「熱こそが文明……! ――だとしても!」
少女――フルールは、全力で中指を空へと突きたてる。
まさしく天を突き破る勢いで!
「だけどそれら全て、乗り越えて生きる強さこそが真理よ――!」
――太陽は確かに、降り立った。
その獰猛な笑みも。清々しいくらいの張った叫びも。決して彼女の心は損なわれなかったという事実そのもの。
彼女の全てが、間違いようもない、再起の証。
「リーナル」
「……遅い登場ですね、まったく」
やれやれとリーナルが肩を竦める。呆れたような微笑みには、常に前に立ち続けた少女への信頼があった。
「ユウリ」
「フルールさん……!」
ユウリの声音は涙で濁り切っていた。少女は一つだけ頷いて、ユウリの抱えるヴィエを見つめる。愛に生きた少女への弔いは視線に乗せた。ユウリは、嬉しがっているのか、悲しいのか、よくわからない顔をして、それでも微笑んだ。
「レテミア!」
「ええ、ええ。聞こえる……――聞こえるわ! 貴女の声が!」
褐色の女は、何度も何度も頷く。噛みしめるように、打ち震えるように。あれだけ凍えきっていた女の黒い瞳は、潤んでいた。
――そうだ。
時に彼女は危機から逃げ出す小悪党だった。平気で詐欺を行い、人から金を巻き上げ、善意を利用して楽をしようとしていた。
決してフルールという人物は善人ではない。
それでも……危機が近づく時、必ず彼女はこうして立っていた。
自分のためではなく、時に誰かを奮い立たせるために、救うために。――だからこそその小さな背中は、いつだって格好良いのだ。
「待たせたわね! このあたしが、今ここに居る! だから安心して全部任せなさい!」
フルールは、立つ。
そこに。ここに。この世界に、この場所に、この瞬間に――確かに!
「あたしは太陽の娘よ! 『豊穣を与えなさい』と、『光となりなさい』と、そうなればいいと祈られながら育ったわ!」
だけどね、
「父はこうも言ったのよ。『愛に生きなさい』と。誰かを愛する生であれとね! その愛情はきっと誰かを救えるのだからって!」
創られた命ではなく、祈りから生まれ落ちた命。可能性は一つではなく、未来を選択できるということ。イリスと同じ境遇、権能を持つ少女は己の価値を既に見定めていた。
それは覚悟と呼ぶにふさわしい、純正の感情。
「だから、全部、すべてッ、――救ってみせようじゃない!」
曇天が晴れていく。全域に広がる黄金の粒子と共に、陽の輝きは舞い降りる。
冬の凍てつきは柔らかな光が溶かしていった。
寒さで震える季節の終わりは、その熱こそが告げていく。――春の到来を。
「覚悟しなさいイリス。一発ぶん殴って目ぇ覚まさせてやるから!」
陽光を背に、フルールはただ独りの女を指さした。
それは、少女からの
「……ふ、ハ。お前はいつも面白いことを言う。そうだな、そういう不思議なところがきっとレテミアの心を溶かしたんだろうな……」
イリスは、想像できなかった言葉に、自然と口元を綻ばせていた。
好戦的で挑発的な、面白がる笑み――決して破滅に堕ちた者の浮かべる表情ではない。
「――ならやってみろよ。私を……止められるならな」
「もちろん。あたしをナメんじゃないわよ」
雲が割れ、太陽が姿を現し、暖かさに包まれる金色の世界。
神話の中にあるような、究極的に救われつつある大地の上で。
憎悪によって繰り返された物語が、終わろうとしていた。