「ん…………」
少女は自分のうめき声で目を覚ました。ぼんやりとした視界は、覚えのない天井を映す。首を横に向ければすぐ近くの椅子に座る浅黒の女がいて、彼女は手紙を静かに読んでいた。
「レテミア」
「あ、フルール。起きたのね。体調は?」
「普通……」
ずいぶん寝ていたらしい。頭がガンガンと痛むが、それくらいだ。
ゆっくりと体を起こしたフルールは、肩にかかる自身の金髪を煩わしく思った。いつの間にかだいぶ伸びている。
「あたし、どれくらい寝てたの?」
「ええと……二日くらいかしら? 死んじゃったかと思った」
ふーん、と相槌を打ったフルールは、ベッドの脇に置かれている紙箱へと手を伸ばした。中から煙草を一本取りだす。煙草を口に咥えたまま、ライターライターと探し回っていると、甲斐甲斐しくレテミアが火をつけてくれる。
「どうぞ」
「ん」
こくりと頷き煙草を吸い始めるフルール。数日ぶりの味とにおいが心地よい。
ようやく落ち着けたフルールは、レテミアが読んでいる手紙が気になった。表には差出人の名前が書いてある――ユーリリア、と。
「……ユウリ、は?」
「実家らしいわ。イリスもね」
レテミアが顔を上げてひらひらと手紙を揺らす。近況が書かれているらしい。フルールは、煙草を吸いながら曖昧に頷いた。
そうか。イリスが、ユウリと共に。
「ユウリは、すごいわ。あのイリスが人の言う事を聞くだなんてよっぽどよ。きっと……恋をしたのね」
「けっ。今更すぎでしょ」
そう毒づくものの、フルールはイリスを貶す気にはなれなかった。あの女が人並みの『まともさ』を得られたのなら、それが何よりだろう。
「でも、そう。イリスが恋を、ね」
「……炎だけじゃなかったのよ」
レテミアはどこか夢見心地に言う。彼女なりに、かつての友の成長が嬉しいのかもしれない。
「熱ばかりがイリスを衝き動かしていたわけじゃなくて。そう、きっとイリスにだって氷を溶かせるだけの……暖かい心があった。ううん、そんな心にさせてくれる誰かを見つけられたのね、私と同じで」
「……」
誰も善人ではないとフルールは思っている。レテミアとて悪い部分はあるし、自分だってそうだろう。そんな善人、少女はユウリくらいしか知らない。
「イリスが、あたしが思うほどイカれた女じゃなかったとするなら……誰が悪いって話でも、ないのかもしれない」
「でもあなたやユウリがいなかったら、きっと私とイリスは、どっちかが死ぬまで殺しあってたでしょうね」
「運命ねー……人と、その邂逅が作る」
イリスが悪人ではないとして――いや、悪であることには変わりはないが、それとてまだ救える悪だったとしたなら。
そしてあの女が本当に救われたなら。
「……あたしとあんたが続けてきたこの旅は、なんだったのかしらね」
逃避行の旅を何年も続けてきた。ひたすらに歩き続ける旅に終わりなんてなくて、たどり着ける場所なんてないと思っていた。
だけど突然、こうして追われる必要がなくなったら。
――これから、どうすればいいんだろう。
「理由もない、旅だもの」
レテミアは手紙を机の上に置くと、ぽつりと言った。膝をそろえて椅子に座る彼女は、どこか雰囲気が堅い。その理由もフルールには察することができた。
「……終わりは唐突かもしれないわね」
フルールは、わざと目をそらす。煙草に没頭するふりをする。
「私もあなたも、とても長い時間を……意固地になり続けていた気がする」
「……」
レテミアはそれでも少女を見つめた。浅黒い肌は微動だにしない。
「私があなたを犯したとき――私は愛を確信し、あなたは痛みを知った」
それは贖いようのない間違いで、あまりにも深い傷となってしまったのだ。決して癒えない傷はだからこそ二人の間に残り続けた。何年も、何十年も、何百年でも……。
「私ね。フルール。私……ずっと、終わり方を考えていたの」
「『終わり方』?」
「ええ。私とあなたの、全てへ、決着をつける方法……」
イリスとの因果を断ち、全てを終えた上でようやく始められる、正しい終幕。
薬物に侵されたフルールを見てから、レテミアはそればかりを考えていた。
「私はやっぱり許されない罪を犯したのよ。あなたを歪めてしまったの。だから、だからね……」
告げることへの恐怖はもちろんあった。失ってしまうかもしれないことへの恐れなんて、何度も何度も考えた。
それでも――これは、正しい事だと、思うのだ。
「別れましょう。フルール」
レテミアは一粒だけ涙を流し、それでも表情を変えることはなかった。
フルールは何も言わないし、レテミアの方も見ない。
ただ静かにタバコを吸い続けている。
「過去を見ないために前を見続ける旅はもうお終い。これからは、これからのことを考えたいのよ……」
レテミアには少女の考えがわからなかった。無言で煙草を吸うフルールは今、ひょっとしたらその無表情の奥で様々なことを考えているのかもしれない。どの道沈黙は怖かった。
つい、顔を伏せて視線を下げてしまう。丁度その時、ベッドが軋んだ。フルールがベッドから出たらしい。
「私なんかよりもね、ほら、きっとユウリと一緒にいた方が幸せなのかもしれない。だから、だからね、私より――えっ。ちょ」
喋っている途中で腕をがっちりと捕まれる。ぐいと、強く引っ張られ、バランスを取れないままレテミアはベッドに放り投げられた。
ぼすん、とレテミアの体重でベッドが揺れる。目を白黒させているレテミアの視界には――覆いかぶさる、フルールの顔が。
「…………」
「…………ふ、るーる?」
少女は何も言わない。
人を疑うような半眼で、女をじっと見つめている。
え、え、と身を投げ出されたまま困惑しているレテミア。状況が理解できずにいると、フルールは、静かに顔を寄せてきた。
「ぁ……ちょ、ぇ」
「いいからじっとしてて」
レテミアは反射的に体を逸らそうとして、ベッドの上だと今更のように気づく。
そのまま、二人の唇は重なった。
目を瞠るレテミア。フルールを押しのけようとしても、腕に力が入らない。それよりも、あぁ、柔らかい唇が……。
どうしてか体がこわばって、自分から動くことが出来ない。フルールは唇を離さず、そのまま舌を忍び込ませてくる。
ぁ――と思わずレテミアが吐息交じりの声を上げれば、あっという間に口内を蹂躙された。何度も何度も熱い塊が絡まって来る。その柔らかさと、目の前で感じる少女の小さな鼻息と、蕩けるような心地よさ。
そしていつも感じた煙草の匂いが、一気にレテミアの官能を搔き立てた。
腰が、更にその奥が、熱くなる。
訳も分からないまま無我夢中になって、もっとして欲しいとフルールの背に両手を回した瞬間――フルールは舌を引っ込め顔を離してしまった。
「ふん。相変わらず無駄にでかい胸してんのね。体に当たってすんごい邪魔だったわ!」
「ちょ……な、なんなのよ……」
流れで自分の胸を揉んでくるフルールに、レテミアはいっそ恐怖すら覚える。確かずいぶん昔にも、こうやってフルールがキスをしてきたことはあった。けど、それ以降一度もキスなんてされていないし、何よりキスだけだと中途半端に燃え上がるから、その、辛い。
「あの……やるなら最後までしてくれると嬉しいのだけど」
「はぁ? 勝手にムラっとしてたら?」
「は、半殺し……!」
レテミアが半泣きになってそう詰っても、つーんとフルールは顔をそらしてしまう。結局レテミアの期待も無視して少女はベッドから飛び出てしまった。
一体、なんだったのだろう。たまにフルールの行動がわからない。
「ほら、はやくしなさい。旅の支度よ」
「……え?」
だから、背を向けたフルールの一言が、どうしても信じられなかった。
「あんたがいないと人生つまんないのよ。……生きる理由も、楽しいと思えたことも、あんたと一緒に居たからじゃない」
なによ。一人だけ勝手に満足しちゃって、あたしは不満しかないのに……。
そう愚痴る少女の背中。不思議なことに、レテミアにはその背中が泣いているように見えた。
ぎゅっと、フルールの右手が拳を作る。
「やっと……ねじれてた部分が、元に戻ったんじゃない。ぐちゃぐちゃしてたことが解決して、これからはって、あたしは思ってるのよ」
悔しそうに握りこまれる手のひら。声だって震えている。後悔交じりの恨み言に、レテミアは目を丸くしてしまった。
そんな感情、フルールからぶつけられたことはなかったから。
「フルール……ひょっとして」
「な、なによ」
「拗ねてるの?」
「――別に、拗ねてないし」
「拗ねてるじゃない……」
未だにこちらに顔を見せないフルールが、途端に可愛らしく思えてくる。先ほどまでの湿っぽさも忘れてレテミアは笑顔になった。
「ね、ね。抱きしめてあげましょうか」
「いーらーなーいー!」
「もー。あなたって、気まぐれな猫みたい……」
ふんッ、とフルールは鼻を鳴らす。そしてようやくこちらを振り向いた。
――瞳は赤く充血している。それでも、涙を流そうとはしない。
「もっとよ。まだ、まだ世界は広いのよ。だからほら、さっさと立ちなさいよ」
「……あらまあ」
それは言うなれば、フルールなりの告白だと思った。
「そんな言葉、初めて聞いたかも」
「初めて言うんだから当然でしょ」
そうだとも。そんな言葉ですら交わし合わない関係をずっと続けてきたのだ。惰性でもなく利益があるからでもなく。ただ、ずっと二人で居るだけだった。――だけどこれからは違うのだろう。これからの、未来は。
「ほら、はやく。行きましょ」
「ええ、ええ、共に、ね?」
「……うん」
素直に頷く少女を見ると、レテミアは我慢が出来なくなった。
立ち上がる。フルールのすぐ傍まで寄っていく。
「ねえ、フルール」
「なによ――」
もう、言葉はいらない気がした。
決して情欲の乗っていない柔らかなキスは、一秒と経たずに離れる。フルールのしたまさぐるようなものとは違う、穏やかな愛情が生む行為。
「……なに勝手なことしてんのよ」
そうつぶやくフルールの頬は赤い。レテミアもきっと同じように赤いのだろう。
「フルール。あなたのことが好き。愛してる。だからずっと傍にいてね。離れないでね。絶対に、絶対に、私の事を忘れないでね」
「ふん。……勝手についてきなさいよ。別に突き放したりしないから」
つっけんどんな言葉には優しさが滲んでいた。決して目を合わせようとしないフルールの見せる、彼女なりの優しさ。向けられる感情の質に、そして何より先ほどしたばかりのキスの柔らかさに、どうしてもレテミアは我慢できなかった。
前々から思っていたが、どうにも自分は堪え性のない性格らしい。
「……あの、その」
ちょんちょん、とフルールを指先で軽くつつくレテミア。ちらちらと上目遣いになって、じーっと期待を視線に乗せる。
? と最初は何をしたいのか理解できなかったフルールも、段々と分かってしまったのだろう。最終的にはギョッとした顔を浮かべていた。
「ちょっと。本気?」
「いやその、なんか、いろいろと確信が持ててほっとしたっていうか……その、ほら? ね? ムラぁ……っと来たっていうか……」
フルールは完全に絶句している。このタイミングで普通そうなる? と言いたげな蔑みの表情にレテミアの背筋がゾクゾクした。
「私そのお……性欲、強いほうじゃない?」
「…………」
「ああっ、そんな冷たい目で見ないでっ! すっごい恥ずかしいのよ!?」
顔を真っ赤にして釈明すると、フルールは生ごみを見るような目をしたまま額に手を当てた。頭痛でもするかのようにうーうー唸っている。
それでも尚レテミアがじっと期待のまなざしを向け続ければ、やがてフルールは観念したかのように、ぽつりと。
「い……いいけど」
「ほ、ほんとっ!? やったあ!」
「いいけども!」
諸手を挙げて喜ぶレテミアに、フルールは顔を近づける。
「――もしも今後、別の誰かと寝たら、今度こそ絶縁よ」
喉元に突き付けられた少女の人差し指。喉を抉りそうな爪の鋭さに、だけどレテミアは途方もなく喜びを感じた。
束縛されるという事。
それは、愛しく思われていることに他ならない。
「……ええ。約束する。私が未来永劫愛するのは、フルール。あなただけ」
「そ。なら、まあ……いいけどさぁ……」
言葉にしても誓っても、どのみちフルールは不服そうな顔をしていた。腕を組んで、むぅと唇を尖らせている。そんな表情すらも愛おしい。
ああ、とレテミアはついつい気づいてしまった。
かつて少女への愛に気づいたとき、フルールの全てが好ましかった。仕草も。声も。表情も、爪から髪の毛一本にいたるまで。それから月日が流れ、だいぶ感情は風化したと思っていた。
それでも――やはり、フルールが好きだ。それはきっとこれからも同じで、いつまでもずっと抱き続ける感情なのだろう。
「旅は……終わらないのね」
「終わりなんてきっと先よ。とても遠いところにあるに決まってる。だから、それを見るためにも……」
ぎゅっと、手を握る。それは俗にいう恋人つなぎというもの。
顔を近寄せれば、フルールは僅かに引いた。
少女の白い頬は薔薇のように赤い。それでも手を振りほどかず、決して逃げないこと。目と目が合うこと。
ただそれだけで愛おしかった。
「二人で――いつまでも――」
「――永久に、永遠に、無限の旅人で……」
指と指が絡まりあって。
そっと……二人はベッドに倒れ込んだ。
風は揺れる。
さすらう二人の髪を揺らす。砂塵が舞い、褪せた空を粒子が飛んだ。
砂粒が高く高く昇っていく。
その先に厚く重い雲なんてなくて。
太陽だけが青い空に浮かんでいた。
「そろそろ行きましょうか、フルール」
「そーね。あーあー、ここ、料理おいしかったのになあ」
「またいつでも来れるじゃない」
レテミアはくすくすと笑う。
「私達は旅人だもの。気まぐれで、風を便りに歩き続けるだけの……」
「ま、そうね。じゃ、行きましょ」
「ええ。まだ見たことのない世界へ!」
ふと、フルールは煙草を吸いたくなって、ポケットの紙箱を手に取った。
一つ煙草を口にくわえて、オイルライターに火をつける――つけようとする。
だが、何度火をつけようとしても、灯らない。
故障だろうか?
「ありゃー……」
じっと、オイルライターをフルールは見つめた。今手元にはこれしかない。レテミアに頼めば火をつけてくれるだろうけど……。
ちらりと先を歩く悪魔の女を見る。そして、うん、と一つ頷いた。
「まっいいか」
フルールはなんのためらいもなく、オイルライターを、煙草を、放り捨てる。
何故かはわからない。
確信とすら言えない不安定なものだけど。
なんとなく、煙草もギャンブルも今ならやめられる気がした。
そして少女は後ろを振り返らずに歩き出す。
ねぇ、フルール?
旅路は長くて、果てしないものだと思う。
辛い事がまたあるかもしれないわ、嫌な思いをするのかもしれない。
また喧嘩をして、あなたとの関係は悪くなってしまうのかも
でも、それでも、私は傍に居続けたいの。
何故って確信できたのだから。
いつまでも。
どこまでも。
二人きりでいること。
そして旅を続けること。
そういう形の愛だと、私は既に知っている――。
<終>