男が駆ける。殺人鬼に出くわしたという男の足取りは早く、恐れているような、焦っているような、そんな印象を受けた。
男の後ろをフルールとユウリが走っていた。体力のないユウリは必然的に男とフルールから距離を離されているが、なんとかはぐれないように食いついている様子だ。
「こっちだ! こっちに来てくれ! 早く!」
振り返った男が焦燥の表情で叫んだ。わかってるわよ! というフルールの威勢のいい声に、ひー、と息を切らしながらユウリが表情を辛く歪める。
数分、走っただろうか。
ユウリはどこをどう走ったかも分からないまま、気づけば人影の一切ない、路地裏にたどり着いていた。
ぜえはあと荒い息をしながら両ひざに手をつくユウリに対して、フルールはヘビースモーカーだというのにまったく息切れしていない。それどころかユウリに向けて拳を握り、
「よっしヤるわよユウリ!」
「はっはい!」
などとやる気を高めている。これにはユウリも頷くほかない。
ところで路地裏には八人ほどの男たちがたむろしているだけで、血の気も何も無いのだが……。
「ん?」
さすがにフルールもおかしいと思ったのか、路地裏のあちこちを見まわしては首をかしげている。
「あんたたち、殺人鬼どこよ」
「へへ、姐さん、鈍いなあ……」
フルール達を誘導していた男がへらへらと笑いながら、たむろしていた男達の方へと戻っていく。薄ら笑いは暗がりの中でいやに粘ついて見える。
「ま、確かにこの街では最近殺人事件が起きててな。それで領主さまも確かに殺人鬼への懸賞金を出してる。ああ、それは事実だよ……」
突然始まった長話に、うん? とフルールが首を傾げた。少女の右足は自然と地面を叩き始める。――貧乏揺すり。
「けどな、俺達もよ、あんたみてぇな小娘に馬鹿にされぱなっしじゃ困るんだよなァ……」
ガンガンガンガンと石畳を叩き続けるフルールの右足に目もくれず、男は一つ小さな溜めを作った。そして、「つまり」と前置き、くわッ、と目を見開くと、
「――騙されたんだよ、馬鹿が!」
「あ゛あ゛ん?」
言葉を聞いた瞬間だ。
低い声と共に少女の体が動き、馬鹿にしきった表情の男へと跳躍――そして宙で蹴りの姿勢を取ったフルールの右足が、男の股間に直撃する。
吸い込まれるような鮮やかさを持った跳び蹴り。男達がその残虐さに凍り付いた。
「ひぇ……」
とはフルールの背後にいるユウリの悲鳴である。
ふぐ、と内またになって崩れ落ちる男。そして軽やかに着地した後、煙草の火を揺らめかせながら男に歩み寄り、その胸倉を掴みあげるフルール。
「おい。誰が、誰を、騙したって?」
「うっ、ぐ。いや、あの」
「ちゃんと喋りなさいよゴルァ! そのまま女に変えてやるわよ!」
「ひぃぃ……」
ざわざわ……と男たちが戸惑いの表情で武器を構える。仲間である男がフルールの暴力圏内にいるので、手出しができないらしい。それに気づいたフルールがニヤリと笑った。
「あんた達、一度だけじゃなく二度もあたしに喧嘩売るとはいい度胸してるじゃないのよ」
それは、肉食獣が兎を追い詰めたときの笑みに似ている。ひぃぃ……と胸倉を掴まれている男が小さな悲鳴を上げるも、フルールは声高々と宣言した。
「ボッコボコにしてやるからね!」
そこから先はまさに地獄の光景だった。フルールの攻撃には容赦がない。基本的に股間が潰され失神していく男達にユウリは、うわあ、と少し引いた。
荒事に巻き込まれないようにとユウリは一歩後ろへ下がる。丁度、路地裏から体が抜ける位置だったこともあり、ユウリの視界は一気に開けた。
「! ユウリ!」
と、そんなユウリに声を掛ける者が一人。音の方にユウリが目を向ければ、そ子に居たのは背丈の小さな幼女――金髪に青い瞳、人形めいた可憐さ。
つい先ほど出会ってばかりの、ヴィエだ。
「ヴィエちゃん」
「また会えました! ヴィエは、うれしいです!」
満面の笑みでヴィエはユウリの腰に抱き着く。ひゃ、とユウリが驚いた様子で体を跳ねさせると、ヴィエはにこにこと笑いながら体を離した。
「え、ええ、さっきぶり。どうしたの? ヴィエちゃん」
「探しものがみつかったのです!」
言うヴィエは上機嫌なままだ。探し物? とユウリが首をかしげても、ヴィエは何も言わない。ただユウリに向けて微笑みを向けて、
「ユウリ、ここは危なくなりますよ? 少し離れてたほうがいいです――」
だって、
「ヴィエは、あの女を捕まえなければならないのです」
そう言ってヴィエが指し示す先。
そこには、男の一人の胸倉を掴み上げ、拳を握るフルールがいた。
「みつけました」
その言葉は冷気の中で響く鈴の音のよう。
澄み切った無垢な声音に、その場の誰もが目を向けた。
男達も、ユウリも、そしてフルールも。
「ようやくみつけました。ああ、本当に、ながい時間がかかりました……」
その言葉はどこか疲れが滲んでいるようだった。ユウリにはまるで長い旅に疲れ切った旅人の潤いを失った声のように聞こえる。
そんなヴィエが見つめる先、男達をボコボコにしていたフルールの表情は、驚愕で染まり切っている。まるで死神でも目にしたかのように――。
「常に拠点を変え、逃げ続けるあなたを追うのは、とても骨の折れることでした」
「あんたまさか……イリスの……!」
「幾星霜の時をこえ、ここに主たる契約の履行を――」
とんとん、とヴィエは右足の踵で大地を叩く。
それだけでヴィエを中心に温い風が吹き、なにか、あやふやな物体が広がり出でた。
幼女の足元を中心に出現したのは、幾層にも重なる円陣だった。
橙色に燃える、明らかに尋常のものではない光の帯。異様な文字が羅列されたそれは、それこそ物語の中にしか無いような魔法陣で――。
「【
円陣より出現するものが一つ。
腕――いや、脚。それも肉食動物が持つよりも数倍は太く強靭な前足だ。鋭い爪が石畳を抉る。
「こいつは……‼‼」
その瞳は四つ。
その体は灰色。
獅子のごとき鬣を生やした獣の面。太く、隆々とした四つ脚。体躯はただそこにあるだけでヴィエの二倍はある。
幼女の隣に並び立ったその獣は、喉を低く鳴らし、ヴィエの指差した先――フルールのみを、睨みつけた。
「やりなさい、シュラク」
言葉の瞬間だ。
「――ッ」
感情の挟む余地もなく、フルールが横へ飛び跳ねる。少女の元いた場所を豪風がすり抜け、そして、フルールの背後にいる男達へと直撃した。
音をすり潰すかのような衝撃が辺り一帯を駆け巡り。
そして、男達が、肉片と化して飛び散った。