ヴィエが『シュラク』と呼んだ巨獣。
一度だってユウリは見たことがない。絵本の中に出てくるような、悪い使い魔じみたその姿を……。
そして、惨殺された男達の返り血を浴びて鈍く輝く灰色の肉体を。
「――」
強烈な血の赤と、すえた異臭を放つ内臓のピンク色。
ユウリの目がそれをとらえた瞬間、彼女の足は力を失った。ふらりと揺れた体はそのまま地に落ち、生まれたばかりの小鹿のように震えることしか出来ない。
『――――――!!!!』
路地裏の中では、男たちの死体を前に興奮しきった様子の獣が一匹。まだ多少は原型をとどめている人間の足や腕をむさぼりだしている。
「あ、こら、シュラク。ヴィエの言う事を聞きなさい!」
ヴィエが指さすも、獣はまるで言う事を聞かない。ただ、ただ、人を食い続けるのみ。
欠損した人体を見るのも、それが食われる光景も、ユウリは初めて見る。女の胃が強烈な拒絶反応を示し、内臓が反転したかのようにすべてを吐き出そうとした瞬間だ。
「ちょ、ユウリあんた大丈夫?」
そう小声で問いかけてきたのは、いつの間にか隣にいたフルールだった。彼女の表情には、目の前で人殺しが行われたというのに、まるで動じていない。
ユウリだけだ。
ヴィエも、フルールも、まるで気にしていないのに。ユウリだけが蒼い顔をして震え続けている。
「え、ええと……その……」
「……何よ、あんた立てないの?」
フルールが呆れたように肩を竦めた。
少女の右手にはいつの間にかリボルバー式の拳銃が握られている。銃口も大きくなければ、弾丸も普通のもの。子象並みの体躯がある
そんなもので、あの化け物を殺すつもりなのだろうか。
ユウリは喘ぐように呼吸をしながら少女を見る。
――フルールは、ユウリを見ていなかった。表情をしかめて、ただ前だけを……怪物だけを見ていた。
「こんぐらいでびびってんじゃないわよ馬鹿ねあんた。世の中もっと惨いのよ」
「でも……こんなの……!」
「さっさと立ちなさい。そして逃げなさい。あんたに出来ることを、今やりなさい」
ヴィエはというと
フルールは立つ。逃げることもせずに。ただ、ユウリの前に立つのだ。
「フルール、さん……私の事は気にせず……」
「だーッ! むかつくわねユウリ! 今最ッ高に殺したいわユウリ!」
フルールが大声をあげ、全力で石畳を踏みつけた。
その叫びと叩かれた石畳の反響が、ヴィエと
――幼い青の視線と、灰の四ツ目。
ユウリは本能的に竦んでしまう。小さな悲鳴をこぼしてしまう。逃げたいと、そう思い、だけど足が動かなくて。
「大事なことは!!!! 自分が生きてるか死んでるか! ――それだけでしょ!」
フルールが拳銃を構えた。ヴィエが少女を指さした。
獣が前脚に力を蓄える。それは瞬間の制動であり、瞬間の後に訪れる惨状を意味する。
引き金を引くよりも早い行動にフルールが舌打ち。口にくわえた煙草を吐き出しながら、ユウリを抱えて横に飛ぶ。神業的な反応速度がもたらしたのは、シュラクの突進を回避したという事実。
「死にたいなら勝手に死になさい! あんたが死にたいっていうなら、生きれないっていうなら、あたしが殺してやるわよッ!」
突進の速度を殺しきれなかったシュラクが反対側の道にある家屋へと激突。激震と共に建築物が木っ端微塵になり、その中に埋もれる事になったシュラクが鈍いうめき声をあげた。その隙にフルールは再度銃を構える。
「――それでも、それでもねユウリ」
背後から聞こえるのは「立ち上がりなさい、シュラク!」という幼い声。フルールはそちらを無視して倒壊した家屋のみに集中する。
「生きたいなら――まだここに居たいなら、立ちなさい!」
ユウリは、見た。
怪物ではない。ヴィエでもない。
フルールを、だ。自分よりも背が低くて、煙草ばかり吸っていて、言葉遣いがとても汚い少女の背中を――常に己より前に立ち続けた者の背中は、どうにも大きく感じられた。
「あたしは死なないわ。生き続けるのよ。この世界を、ただ、ただ、延々とね!」
言い切ると同時に建築物の破片が吹き飛び、中から
フルールが今度こそ引き金を引く。雷管が叩かれ火薬に着火する瞬間だ、
間に合わない。そうユウリが直感で理解した時、その現象は起こった。
「
言葉は現象を生む。
フルールの端的な声音は、弾丸軌道を
それは突進を開始した
どれだけ肉体が筋肉に守られようと、剥き出しの感覚器まで鍛えられるわけではないということ――ユウリとヴィエが息を呑む。
「
『――!!!!』と目を抑えながら大地を転がった
フルールは息を継ぐ間も入れずに更に引き金を引く。ほぼ同時に射出された弾丸は三つ。それぞれが歪曲軌道を取り、
当然のように
「はッ。どんな強い魔物も目を潰されちゃザマアないわね」
ユウリの脳は、当然のように行われた
――最後にフルールが行ったのは、銃弾を撃ち込むことでもなければ、何か特別な現象を巻き起こす事でもなかった。
ただ一言、呟くのみだ。
「――爆ぜろ」
目元を抑えていた
すべてが瞬間的に爆破し、辺り一帯に血の霧と灰色の肉片が舞い上がった。
「……けッ。ただの
呆然とユウリが見る先、フルールは悠々と新しい煙草に火を点け出している。
いったい、何者なのだ、この少女は。
そういえばそうだ。数匹の魔物に襲われていた時も、フルールは拳銃一つで魔物を全滅させて見せた。普通の人間に出来るはずのないことを、たった一人で、成して見せた。――尋常ではない。
「さあ残るはあんただけよチビガキ! 年長者様に生意気なことした分痛い目見てもらうわよ!」
女の驚愕も放っておいて、フルールは背後を振り向く。
「むぅ。さすがです――が、シュラクが一匹だけとは思わないことです」
だがヴィエもフルールと同様に、尋常の領域には無い力を持っている。
幼女の靴が、踵が、とんとんと大地を叩く。橙の光の帯が――円陣が一斉に生まれる。
「【
言葉を聞いたフルールの表情が、明確にゆがんだ。煙草のフィルターを噛み切らんばかりの勢いで頬を歪め、一歩二歩、と後ろに下がっていく。
「やっばー……ちょっと面倒ねー……」
ヴィエの足元にある魔法陣。そこから現れだしたのは、先ほどの
二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七八九…………まだまだ増えていく。
それは、
つまり単体で効果がないのなら、物量で押し切ると、そう言う事だ。
ヴィエの作戦を理解したフルールが瞬間的にこちらを振り向き、未だ立ち上がれていないユウリを見た。
「ユウリ! 逃げるわよ! 速攻宿に戻って荷物まとめるわ!」
「ええっ? あの、こ、この街は……」
「知ったこっちゃないわ! あんな数相手に出来るわけないでしょーが! あたしはあたしが世界一可愛いのよ!」
「ええ……」
とは言うものの、
はやく! とフルールが急かす。慌ててユウリは
腰は軽い。足も。頭は妙な目眩も起こさない。
ユウリは先を走り出したフルールに向かって、息を切らしながら声を上げた。
「せ、せっかく! フルールさんのこと! 少しくらい格好いいなーって思ったのに! そのすぐ後にこれですか!」
「うっさいわね! カッコよさで生きられたら苦労しないわよ畜生が!」
確かにそれはその通りだ。
命の危機だというのに、思わずユウリは口を開けて笑ってしまった。
「でも、ええ、そうですね! 生きなきゃ! 死んだらそこで終わりですもの!」
「その通りよ! なに、いい感じねユウリ!?」
「あっ、こら――! 逃げるつもりですか!? ずるいです!」
路地裏から飛び出た二人の背後からは、
ユウリもフルールも、無視して全力で走り出した。