目を閉じて、ゆっくりと胸いっぱいに息を吸ってから吐き出す。
目を開ける。目の前には誰もいないターフがある。
一歩前へ出て、いつでも走り出せる体勢を取る。
それと同じくらいのタイミングで、左の方から二つ同じように芝を踏みしめる音が聞こえた。
結局、私は大外スタートにはならなかった。
代わりに、枠番は3番。一番外側だ。内側からテイオー、ルドルフ会長、私の順で並んでいる。
内枠の柵の更に内側に立っている学園の教官がホイッスルを手に持つ。アレが鳴ったらスタートだ。
じんわりと背中が熱を持つような感触がする。左側から今までの模擬レースとは比べ物にならない程のプレッシャーを感じる。
でも、そのプレッシャーがかえって私のテンションを上げる。
スゥっと教官が息を吸う音が聞こえた。グッと拳を握る。
短く、鋭いホイッスルの音が私の耳に突き刺さった。
同時に、地面を蹴飛ばしてコースへ飛び出す。
レース内容は2500m。デビュー前のウマ娘には長めの長距離と言っていいかもしれない。
先頭はシンボリルドルフ会長。その後追うように私とテイオーが並んで走る。
ペースはほどほどよりちょっと速いくらい。このペースだと終盤にスパートをかけたらゴール前で失速するかもしれない、それくらい。
前を行くルドルフ会長がチラリと後ろを見る。位置確認の為……いや、違う。
私の顔を見てほんの少しだけペースが落ちた。それが何を意味するか、分かった瞬間カッと頭に血が上る。
怒りのままにペースを上げようとするのを、奥歯を思い切り噛みしめてこらえた。
落ち着け。分かってたことでしょ。相手はあの皇帝だ。私達が全力を出し切れるようにペースを調整することなんて簡単にできておかしくない。
でも、
じゃあどうする。出来ることなんてあるかも分からない。
レースは進む。もう折り返しだ。テイオーもルドルフ会長も動かない。
いっそ早めに仕掛ける? ダメだ、そんなことをしてもゴール前で失速するだけ。
……いや、行けるかも?
思い出せ。テイオーと走った選抜レースのことを。
あの時は2000mと距離は違ったけど、早めに仕掛けた。
ゴールでキッチリスタミナを使いきれると踏んだあの場所でスパートをかけて、それでもテイオーに追いつかれてからもう一段スピードを上げられた。
もし、もし同じことが今回でも出来たら?
いや、やるぞ。それでほんの少しでもルドルフ会長の余裕を消せるなら。
残り今の位置から計算して、残りは800m。仕掛けるなら、もうすぐだ。
息は大分上がってきてる。スパートをかけて、そのスピードを維持できるかどうかはかなり怪しい。
それでも、やる。負けるつもりでこのレースに混ざったわけじゃない!
「ッ……よし!」
ペースを上げる。ゴールまではあと600mくらいか。
「行かせないよ!」
そんな声と共にテイオーが私の隣に並んできた。不意を突いたつもりはないけど、それでもすぐに対応してくる辺りテイオーも同じようなことを考えていたのかもしれない。
私達がペースを上げたのに気づいたルドルフ会長が私の方を見る。
「譲らんぞ!」
ルドルフ会長はペースを上げた私達よりもさらにスピードを上げてリードを保ってくる。
ゴールまで後400m。直線に入る。
さあ、覚悟を決めろ。もう一回、
「ゼッ…ゼッ……ふッ……!」
「はぁっ、はぁっ……! まだまだぁっ!!」
ありったけの力で地面を蹴って加速し、前だけを見る。
それでも。
「譲らんと言ったはずだ!」
届かない。離れる。前にもこんな光景を見た。
「ッ……ざっけんなあああああああああ!!」
もっと、もっとだ! もっと地面を蹴飛ばして……!
走れ、前へ! いや、前へ跳べ!! ゴールした後のことは考えるな!!
ゴールまで後200m! 1㎝でもこの差を縮めろ!
胸が苦しい。肺が、心臓が破れそうだ。
足が重い。今からでも力を抜いて楽になりたい。
でもそれ以上に、悠々と前を走るあの姿に腹が立つ!
「こん……のぉぉぉぉぉ!!」
だから忘れてた。
私の隣にトウカイテイオーがいることを。
チラリと視界に入った鹿毛色の髪。
そこに居るのが誰だか分かっていたのに、それでも私はソレを見て一瞬意識がソッチに行ってしまった。
今まで見たことのない、余裕なんてこれっぽっちも感じられない歯を食いしばった必死な表情。
コイツ、こんな顔するんだなんて場違いにも思ってしまって。
ハッとしたときにはもう集中力は完全に切れちゃって。
後はもう、失速して天才二人に置いて行かれるだけのあっけない終わりだった。
ゴール板を駆け抜けて、フラフラになりながらクールダウンに一周走る。
もうルドルフ会長もテイオーも走り終わっていて、会長の傍にはたくさんの生徒達が集まってワイワイしていた。
テイオーは……見えないけどきっとどこかにいるんだと思う。
あるもの全部を吐き出して、今は何も考えられなかった。
フラフラしながら、ゴール板をもう一回通り過ぎてしばらく言ったところで芝の上に仰向けに倒れこむ。
結局勝てなかった。分かってたことだけど。
それでも、やっぱり悔しいものは悔しくて。
喉がきゅっと締め付けられるようなあの感覚が来る。
もっと、もっと強くなりたい。
いつかはあの二人に本気を出させて、その上で勝てるくらいの速さが欲しい。
「ツバサ!!」
聞きなれた声。でも、いつもよりなんだか焦ってるような声。
ゆっくりとそっちへと目を向けると、青鹿毛色の髪をハーフアップにした黄金色の目のウマ娘。
「フー……?」
フードゥルアルクが心配そうな顔をして私に駆け寄ってきてた。
「大丈夫!? 先生呼ぶ?」
「え……? あー、ううん。大丈夫」
あんまりフーを心配させまいと、笑顔を作る。
でも、疲れて上手く笑えなかったかもしれない。
「ねえ、フー?」
「どうしたの?」
「部屋までおんぶして」
私の言葉に、フーは一瞬キョトンとしてから仕方ないなって言いたげに笑って私に手を差し伸べる。
その手を取って起き上がってから、かがんでくれたフーの背中に覆いかぶさった。
そんな私を軽々と背負って、フーは歩き出す。流石ウマ娘のパワー。
「明日のデザート頂戴ね」
「それは断固拒否……」
「じゃあここでおろそっかなー」
「この人でなし―」
そんななんて事のないおしゃべりをしてた時、ぷつりと何かが切れるような感じがした。
目の前がはっきり見えなくなって、ぽたぽたと涙がこぼれる。
「また負けちゃった……!」
「うん」
「悔しいよ……! 勝ちたかったんだ……!」
「そうだね」
「強くなりたい……! もっと、もっと……!」
「なろう。誰にも負けないくらいに」
フーの背中に顔をうずめながら、私は泣いた。
選抜レースの日の分も合わせて、いっぱい泣いた。