今日は待ちに待ったカイチョーとの模擬レースの日だった。
あのカイチョーと一緒に走れる。それだけでボクの調子は絶好調! ……だったんだけど。
模擬レースがもうすぐ始まる! って時になって初めてボクは不安になった。
褒められるのが好きだった。そしてボクはサイキョーだから走れば皆がボクだけを見て、ボクだけを褒めてくれてた。
でも、今日相手するのはカイチョーだ。
無敗のクラシック三冠。それだけじゃない。たくさんのG1レースを勝ってきたあの”皇帝”シンボリルドルフが相手だ。
つい最近、選抜レースで声をかけてくれた若い男のトレーナーに2500mのタイムを計ってもらってほめてもらったあの日。
カイチョーがあとからやってきて同じ2500mのタイムを計った。
結果はカイチョーの方が2秒速かった。
当たり前だと思った。むしろさすがはカイチョーだ! って憧れのカイチョーの凄さがなんだか誇らしかった。
だけど、そのカイチョーと直接勝負する。
そんな当たり前のことに気が付いて、初めてボクはレースが終わった後のボクがどうなるかを考えた。
もし、カイチョーに負けたら? ボクは誰かに褒められるのかな?
カイチョーのタイムも図ってくれたあの若い男のトレーナーが声をかけてくれたけど、なんて答えたかもよく覚えてない。
とにかく不安で、いてもたってもいられなくてスタートラインへ向かったのだけは覚えてる。
そんな生まれて初めてかもしれない感覚にモヤモヤしてたら、どこからかソライロツバサがボクたちの傍に歩いてきた。
一体何の用だと思えば、私もレースに混ぜてくれなんて言い出した。
ふざけないでよ! と思った。ボクは今日をずっと楽しみにしてたのに、水を差すようなことをしないでよ! って。
でも、結局ツバサは食い下がってカイチョーが折れることになった。
気に入らなかった。ボクよりも遅いクセに、カイチョーと一緒に走ろうなんて思ってるのが。
絶対に負けるもんかって思った。また選抜レースの時みたいに分からせてやろうとも思った。
レースが始まってからはずっとツバサと並んで走ってた。ボクにとってはそこまでキツイペースじゃない。
でも、ツバサにとってはちょっと辛いのかもしれなかった。
カイチョーが後ろにいるボク達を見て、ほんの少しだけペースを落とす。それがツバサを見てだってことは分かったし、ツバサも気づいたのか怖い顔をしてたのがチラッと見えた。
何にしてもこのままカイチョーに前にいられたら勝てない。
だから、ボクは早めに仕掛けることにした。このペースだったら早めに仕掛けたって十分走り切れると踏んだから。
だけど、ツバサの方がほんの少しだけ仕掛けるのが速かった。ハナ差でも前をとられた。
「行かせないよ!」
そう言ってボクもペースを上げる。ツバサに並びなおす。カイチョーの背中が少しずつ近づいてきた。
でも、カイチョーはすごかった。ボクたちがペースを上げたのを見てから、ボクたちよりももっと速く走りだしたんだ。
縮まらない差に焦りが生まれる。だけど、ここでカッとなってペースを上げてもいいことはない。
やるなら最終直線で一気にフルスピードまで加速して追いすがる。それが今のボクに取れる最善。
そうして最後のスパートをかけた。ツバサも同じタイミングでスパートしてきたから、ボクたちは並んだままカイチョーとの距離を詰めていった。
これ以上ないスピードで走った。追いつける! って思った。
「譲らんと言ったはずだ!」
なのに、カイチョーのスパートはボクたちなんかよりずっと速かった。
今の今まで……もしかしたら今でさえ本気じゃないのかもしれない。
その圧倒的な実力差に、ボクはただビックリしてた。
だけど……。
「ッ……ざっけんなあああああああああ!!」
頭を揺らすような叫び声にハッと我に返る。
ツバサが、これ以上ないスピードで走っていたボクの前に出た。
負ける。カイチョーだけじゃなくて、ツバサにも。
ふざけるな、っていうのはボクのセリフだ!
なんなんだよ! 勝手にレースに混ざってきて! ずっとボクの隣で走ってきて!
最後はボクよりも速くゴールするつもりなの!?
……認めない! 認めるもんか!
「こん……のぉぉぉぉぉ!!」
そこから先は必死になって足も腕も動かして走った。
カイチョーに負けるかもとか。レース終わった後はどうなるのとか。そんなのは頭に残ってなかった。
とにかく誰よりも前に出なきゃ。それしか頭に残ってなかった。
だけど、結局カイチョーには届かなかった。
「はは、流石はカイチョー……」
ボクの息も絶え絶えな呟きは、カイチョーには届かなかったと思う。
だって、ギャラリー席にいた皆がカイチョーに駆け寄ってワイワイ騒いでたから。
ボクが負けた。カイチョーが勝った。
だから、目の前のこの光景は当たり前のものだ。ボクが憧れたカイチョーのあるべき姿だ。
頭では分かってる。
なのに、胸の内側がイガイガする。
いつものカッコいいカイチョーを見ているはずなのに。
いつもみたいにボクも皆に混ざってカイチョーすごいね! って言いに行けばいいのに。
ボクの足は動かなかった。まるで映画を見ているみたいに、ボクとカイチョーの間に越えられない線があるような。
「……大丈夫かい?」
「えっ? あ……」
レース前に声をかけてくれたトレーナーだった。
なんだか心配そうな顔をしてボクのことを見つめている。
「ううん! なんでもない」
ダメだ、ここで弱気なところを見せちゃ。ボクはムテキのトウカイテイオー様なんだ。
そう思おうとすればするほど、目の前のトレーナーの顔が見られなくなる。
「なんでも、ないよ……」
結局、ボクはその場を逃げる様に立ち去ることしかできなかった。
その日の夜。寮でじっとしてられなくなったボクは学園の外を走ってた。
いつもだったらいくらか走ればスッキリするのに、今日に限ってはずっと胸の内側のイガイガが取れない。
走って走って……もうヘトヘトになったけどスッキリしない。
「はぁっ、はぁっ……! もう……! なんでだよぉ……!」
足を止める。クタクタだけど、それがまた胸のイガイガを刺激する。
「トウカイテイオー? こんな時間にどうしたんだ?」
ふと、ボクを呼ぶ声がした。
そっちを見れば、昼間のトレーナーだった。
「あ、キミ……」
やめてよ、その心配そうな目。今そんな目で見られると、余計にイガイガするでしょ。
「今、おしゃべりしたい気分じゃないんだ。じゃあね」
だから離れたかった。走ってしまえば、トレーナーは追いついてこれない。
なのに、ボクの足は言うことを聞いてくれなかった。
「っ!?」
足がもつれて、その場に転ぶ。
「大丈夫か!?」
トレーナーが駆け寄ってくる。差し伸べられた手を乱暴に払って、立ち上がった。
「ふんっ! こんなのたいしたことないよ。ボクはランニングに戻るから、邪魔しないで!」
これでまた一人で走れる。そう思ったのに。
「これ以上無理したらダメだ!」
トレーナーがボクの前で通せんぼしてきた。
その瞬間、プチンと何かが切れるような感じがして。
「――うるさいなあ、偉そーに! どいてよ!! まだボクのトレーナーでも何でもないくせにっ!」
こぶしを握り締めてお腹の底から目の前のトレーナーを怒鳴りつけた。
邪魔しないでよ。放っておいてよ! キミにボクの何が―ー。
「どかないっ!!」
ビリビリと体が震えるくらいの、ボクの怒鳴り声よりもずっとずっと大きな声。
目の前を見れば、ものすごく怒ったような顔をしたトレーナーがボクをにらみつけていた。
その姿に、急に心がしぼんでいく。
「う……な、なんだよ……」
怖い。意味が分からない。なんでボクが怒られなくっちゃいけないの。
「ぐすっ……なんだよぉ……怖い顔しないでよぉ……!」
もう何が何だか分からない。
ただ、ボクはみっともなくその場で泣くしかできなかった。
でも、トレーナーはそんなボクの傍で困ったようにボクをなだめてくれた。
しばらく泣いて、段々と気持ちが落ち着いてきた。
「落ち着いた?」
トレーナーが優しくボクの頭をなでる。子ども扱いされてるみたいでちょっと気に入らなかったけど、もう振り払うつもりにはなれなかった。
「うん……でも……まだ、わかんないまんまだ」
「わからない?」
トレーナーがボクの言葉に不思議そうな顔をする。
この人だったら、話してもいいのかな。なんとなく、そんなことを考えた。
「胸の、内側のとこがね。レースの後からずっと、イガイガしてるんだ」
右手を胸の前に持ってきて、汗でぬれた体操服をキュッと掴む。
「ううん……レースの前からだ。あの子が……ソライロツバサがボクたちのレースに飛び入り参加してきた時から……」
「ああ、あの栗毛色の髪の……」
「そうそう。でさ、レースが終わった後……カイチョーが皆から声援を浴びてるのを見て、もっとイガイガするようになったの」
そうだ。皆から褒められる、ボクの憧れるカッコいいカイチョーを目の前にしていたはずなのに。
「変だよね。ボクが憧れたカイチョーが目の前にいたのに……1番強くて、1番早くて、1番すごい。1番皆に褒め称えられてる」
初めて日本ダービーを見に行ったその日、ボクの目の前を駆け抜けていったあのカッコいい姿。
それからカイチョーのレースを見に行くたびに、カイチョーはボクの期待を超える走りを、強さを、速さを見せつけてくれた。
そうして周りの誰もが認めて、褒め称える絶対の”皇帝”……それがボクの憧れたシンボリルドルフっていうウマ娘だ。
いつかは、ボクもあんな風になりたい。
「カイチョーはボクが目指す姿そのものなんだ。そんなカイチョーを今日も見たはずなのに……」
胸のイガイガが痛い。
さっきまでどっかに言っていたムカムカした気持ちがまた戻ってきた。
「大体! 何なのさツバサは! 今日はボクとカイチョーの模擬レースだったじゃんか!」
そうだ。混ぜてほしいなんて言い出したツバサを見て、なんかイラっとしたのがそもそもの始まりなんだ。
「ずっとずっとボクの隣で並んで走ってきて! ナマイキにボクよりも前に出ようと……」
その瞬間、レースの時の記憶がブワッと頭の中にあふれ出した。
そうだ。レースの最後。ありったけのスパートをかけたのにそれでもカイチョーに離されかかったあの時。
ボクは一瞬諦めた。勝とうって気持ちが消えてた。負けたって仕方がないって思った。だって相手はあのカイチョーなんだから。
でも、ツバサはそうじゃなかった。ふざけるな! って声を張り上げて、最後まで加速しようとした。
そんなツバサを見て、ボクは負けたくないって強く思って……それで最後あそこからもう一回加速できたんだ。
もし、あの時ツバサがいなかったら。
そしたら、ボクは……。
ポタリ、ポタリとジャージに涙がこぼれる。
一度は止まった涙が、まだあふれ出した。
「そっかあ……」
ああ、このイガイガがなんなのか。その理由がちょっとだけわかった気がする。
「ボク……負けちゃったんだぁ……」
カイチョーに負けた。そして、ソライロツバサにも負けた。
カイチョー相手に、ひるむことなく全力を出し続けられたツバサ。同じことを、ボクは出来なかった。
確かに先にゴール板を駆け抜けたのはボクだ。
でも、それだけなんだ。スパートのタイミングはツバサの方が早かった。もしも実力が全く同じで、同じレース展開になったら……。
こんな想像に意味なんてない。分かってる。だけど、そう考えずにはいられない。
試合に勝って、勝負に負ける。今のボクにふさわしい言葉を選ぶならこれしかない。
悔しい。悔しい!
カイチョー以外のウマ娘に、初めて負けた。負かされた。少なくとも、ボクはそう思わされてる。
「う”ぅ”~~……!」
俯いて、ジャージをギュッと掴む。
そうしてまた、ボクはしばらく静かに泣いた。