0
赤。
地面も、壁も、植物も、空も、月も全てが赤く染まっている。
其処には生命と呼べるものは存在しない。ほんの数瞬前までいたかのような痕跡を残して消失している。
赤で染まった世界を、ただ『彼』は観測している。
風が吹く。雨が降る。雪が積もる。その繰り返しを経ても、世界は変わらない。風化もしない。
まるで、赤い世界と雪や雨の降る現象は別のもののようだ。
そして。
ガラリ、と世界がステンドガラスの如く崩れた。赤い空も、赤い月も、群生するビル群も同じもののように崩れ去る。
不思議なことに、立つ地面すら崩れたというのに、視点は同じ位置にあった。
唯一の色が消えた世界は、『無』とでもいうべき世界だった。
文字通り、其処には何もない。
何処かの哲学者が言った、「深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているのだ」なんて言葉があるが、此処には見つめる者も、見つめ返す者もいない。
『無』が何処までも広がる空間を、ただ『彼』は観測している。
酷く寒い。
温度を感じる感覚器官はないはずなのに、『彼』は体を思わず自分の腕で抱こうとし、腕や体の概念がないことに改めて気づく。
それに、思わず『彼』は窒息するような感覚を覚えた。
此処は苦しい。
此処は寒い。
苦しい。寒い。苦しい。寒い。
それしか浮かばない。
そして──
1
「────ッ」
ずきん、と頭に痛みが走る。
一瞬、視界が白く染まる。
痛みで目が覚めたのか。起きた瞬間に痛みが走ったのか。ともかく、自分が寝ていたベッドの近くにあった棚に手を伸ばし、薬瓶を取り、中の丸薬を飲み込む。喉が渇いているせいか、形容し難い味が口内を支配する。即効性は期待できないが、この痛みを引きずって今日を過ごすよりマシだ。
二時間ほど経ち、漸くまともに頭が働くようになった。倦怠感も嘘のように消えている。
「本当に、酷い有様だ」
思わず、詩季は呟く。
時折あることだ。夢の内容自体は覚えていないが、目覚めて感じるのは酷い寒気と孤独感だ。そして稀に走る頭痛。医者にもかかったが、脳や体に異常はないらしい。出来るのは対処療法だけだ。取り敢えず民間で出回る頭痛薬(それでも薬局でしか買えないような強いものだが)で対処出来たのが唯一の救いだ。
この痛みを抱えたまま、ガランサスに仕事はこなせなかっただろうから。
顔を洗い、冷蔵庫の携帯食料を食べた辺りで、思い出した。
暫く、ガランサスの管轄から外れ、一人のリコリスと行動をともにする。
錦木千束。
リコリスのトップランカー。一騎当千の能力を持ちながら、DA本部から左遷された少女。
彼女のデータはある程度は閲覧した。
四方八方から放たれる銃撃を避け、正確な射撃で相手を制圧する映像。一人でテロリストが根城にしている廃墟から一時間足らずで何事もなかったかのように出てくる映像。
後者は窓の外を飛行するドローンによる映像だったが、前者は天井に仕掛けられたカメラや、演習に参加していた全員がつけていたボディカメラの映像も含まれていたため、様々な視点から見ることができた。
反応速度や反射神経がずば抜けて速い。もはや未来予知でもしているのでは、と思うほどだ。
真正面から戦っても、勝ち目はない。アレが銃口と引き金を引く指を見て避けているのか、銃弾を見て避けているのか。本当に未来を見ているのかはわからないが、そんな人間が銃弾より速く動けない人間の振るうナイフなど、避けるのは容易いだろう。
勝ち目があるとすれば、不意討ちか騙し討ちだ。其処まで思考した時点で、考えるのを止める。彼女はしばらくの相棒とでもいうべき存在であり、殺害対象ではない。
潜入して誰かを殺せ、というのなら最初から命令すればいい。その方がやりやすい。
それがないのならば、少なくとも自分に指示を出す指示役はその意図はないのだろう。
というより、正面からの殴り合いならもっと適任者がいる。
「さて、行くか」
ガランサスが支給した青い学生服を着て、マンションを出る。
照らす日光。一瞬、黒い『線』が映し出されるが、すぐに消える。
あれから約4年だ。ある程度はこの眼も制御できるようになってきた。少なくとも、意識さえしていれば『線』は見なくても済む。
世界は死で満ち溢れている。それを視覚を通して感じられる詩季の眼と脳には常に負担がかかる。脳と眼を休めるには、適度の休息が必要だ。一番効率的な休息は言うに及ばず睡眠だ。睡眠の必要性の天秤が、詩季と一般人にとってあまりにも違う。
ああ、やはり。
適度な休みは必要だな、と。
思わず、詩季はそう思うのだ。
2
喫茶リコリコ。
外見も看板も普通の店。其処が指示されたDAの支部だった。ドアの前にある立て看板には本日臨時休業と書いてあった。
念のためにノックをし、詩季は扉を開ける。カウンターには、二人の人物がいた。
カウンターの奥で洗い物をしている褐色の肌をした、和装の男。
その男は此方は此方を視ると、「来たか」と言うと、詩季の眼の前に立った、。
「お初にお目にかかります。ガランサスから転属となりました。雪城詩季といいます。どうぞよろしく」
「私はミカ。此処の管理人をしている者だ。敬語もさんつけもいらん」
そう言い、詩季が伸ばした手をミカを握り握手をする。
体格のせいか、かなり大きな掌だった。そして、銃を握ってきた人間特有の感触だ。
「わかった。それで、カウンターに座ってるアレは?」
詩季が指を指した方には、芸能人の結婚報道でおいおいと泣きながら、朝から酒盛りをする如何にも残念な女性筆頭、という雰囲気を纏った女性がいた。
「ああ。アレは...」
「アレとか言うな!中原ミズキ。一応協力者ってところよ」
ミズキと名乗った女性は、キッ、と此方を睨んだ後、再び空いたグラスに酒を注ぎは始めた。自称協力者が朝から酒盛りとはどうなのだろう。
そう思っていると、入口の方からなにやら騒がしい声が聞こえた。
ドアが開く。客の来店を告げるベルが鳴る。
赤いリボンと、ボブカットの白髪。オレンジに似た、赤い瞳。
何もかもが、詩季と正反対の、和服を着た少女だった。
「先生ー!頼まれたもの買ってきたよって...えーと、どちらさん?」
「三日前に話したガランサスだ。今日から二人は相棒になる。仲良くな」
「君がそうなんだ!」
ミカがそう言うと、少女は荷物をテーブルの上に置き、詩季の目の前に立つ。あまりの勢いに、思わず詩季はのけ反りそうになった。
「よろしくね相棒!千束でーす。気軽に名前で呼んでねー」
「あ、ああ。雪城詩季。よろしくお願いします。千束、さん?」
「さん付けも敬語もいらないって。これから一緒に働く相棒なんだしさ!」
「...わかった。千束」
「よろしい。それで歳は?」
「14歳だ」
「じゃあ同い年だね!じゃあじゃあ──」
「千束。そろそろ仕事だ。着替えてこい」
千束のテンションについて行けず困惑する詩季に、ミカが助け船を出した。「はーい」という返事を返して、千束は詩季の手を放し、カウンターの奥に引っ込む。
「思っていたのと違ったか?」
ミカはコーヒーの入ったコーヒーカップを差し出しながらそう言った。
「ああ。演習や実戦記録は見たけど、ああいう性格なのは思ってもみなかった」
それが、詩季の率直な感想だった。何処にでもいる普通の子供。リコリスだとは思えない性格だった。
ただ、
(死の『線』が、やけに多いな)
普通の人間に見える『線』は4本から6本。対して、千束の『線』の数は10本以上。そのどれもが心臓の辺りを通っていた。
「ミカ。千束は持病めいたものを持っているのか?」
「.......何故、そう思う」
「単純な勘だ。どうにも、早死にしそうな相が見えた」
少し、ミカの顔に陰りが見えたのを、詩季は見逃さなかった。やはり、千束は何か病気の類にかかっているのか。だが、それにしては、振る舞いは普通の人間と変わらない。本人が取り繕っているだけなのか。本人にミカが知らせていないのか。それとも──
「着替え終わったよー...どったの先生。そんな暗い顔して」
「いや、なんでもない。千束。これを組長に渡してくれ」
赤い制服を纏った千束がカウンターから出てきた。
ミカは何事もなかったかのように、なにかが入った紙袋を千束に渡す。やはり本人の前では言いたくはないらしい。
「じゃあ詩季。行こう」
「ああ、わかった」
飲み終えたコーヒーカップをカウンターに置いて千束についていく。喫茶リコリコとしての仕事なのか、それともリコリスとしての仕事かはわからないがともかく、それが詩季の仕事だった。
解説
・詩季が見た夢
詩季の家系の異能者が見る世界。何もかも赤い世界であり、崩壊する、という点では一致しているが、その後に見るものは個人によって違う。
多くの異能者はその夢に悩まされ、場合によっては狂い、自殺することもある。