愛とは、なんだろう。
人類愛といった規模の大きいものから、恋愛といった個人間で発生するものまで、種類は多岐に渡る。対象は自分、他人、生物、非生物、この世界にある物で、愛されていないものなど無いといって過言ではないだろう。
では、愛とは何か。定義は? 発生期限は? 存在する意味は?
たとえば性欲と結びつけるならば、愛なんてものは必要ないだろう。たとえば動物愛護団体を獣姦マニアだと思うことなんてないだろうし、子どもを愛しているからといって近親相姦までする親は一般的ではない。もちろん、皆無ではないということは承知だ。それでも、結びつけるには実例と同様に、例外もまた多すぎる。
要するに、愛情は利己的感情とは大変相性が悪い。自分の獣欲の発散、ないし子孫繁栄のための機能とまとめてしまうならば、無機物を愛する者などはまったくもって説明不能だろう。
愛とはなにか。発明者であるホモ・サピエンスの生態から考察するならば、それは共存のための手段というのが、一番しっくりくる気がする。男女の間のみならず、人間は多くの異種生物、非生物の恩恵を受け取って生きている。なればこそ、愛という感情を発明することにより、自分たちの存続に不可欠な要素を保護し、末永く互いの不足を補い合う循環構図を作り上げてきたのである。
しかしここに、愛を知らず、唯我独尊を貫く存在がいた。
曰く、己以外は皆、己に利用されるために存在する道具なのだ、と。
ゆえにそれは、誰に対しても見下すことを許さない。逆さに
一種のサイコパス、なのだろう。人の感情を知識として知ってはいても、理解できたことが一度もない。そして多くのサイコパスがそうであるように、頭脳面においてはその他と一線を画する。
しかし逆十字には、とある呪いが与えられていた。
生まれつき、数々の死病に犯されるという呪いだ。明確に呪術が使われたということではないが、呪いのように、逆十字の一族は生まれたときから死病を複数抱えて生きていた。
優秀で、かつ他人を道具としか認識しない逆十字は考える。この絶望的な状況から脱する方法を。然して彼らは、夢を現実に持ち出すという技術を作り上げた。
邯鄲と呼ばれる多層構造になっている夢を攻略することにより、盧生と呼ばれる、夢を自在に現実に持ち出せる存在に成るのだ。この邯鄲、および逆十字に接触した人間は、これまで四名。
たとえば、魔王を志す男がいた。
彼は安全と便利に満ちた社会の中、次第に勇気を失っていく人を救うべく。己が勇気を奮い立たせる魔王とならんとした。
たとえば、継ぐ者であろうとする男がいた。
彼は安全と便利に満ちた社会の中、それを作り上げた先達に敬意を示し、己やその後続も引き継ぐに足る者たれと願った。
たとえば、死を想う女がいた。
彼女は不平等に満ちた社会の中、死こそが唯一の平等だと悟り、やがて死ぬことを踏まえて全力で生きることを重視した。
たとえば、夢を見る男がいた。
彼は争いが尽きることのない社会の中、阿片で酩酊することが救いだと悟り、全人類を己の阿片窟へと招いて争いのない世界を目指した。
彼らは盧生となり、皆が皆、それぞれの形で逆十字に親愛を向けた。
だが逆十字は、彼ら盧生に親愛を向けることは一度たりともなかった。同様に、逆十字が盧生となることもまた、一度たりともなかった。
当然である。盧生とはすなわち、邯鄲を攻略することで悟りを開いた、人類の
かくして逆十字の血筋は盧生へ至ることなく、悲願を叶えることもなく、絶えていった。
逆十字がいなくなれば当然、盧生も生まれることはなくなる。
以上が、盧生と逆十字のこれまでの歴史である。これにて邯鄲の夢を舞台にした物語は、幕を閉じる。閉じる、はずだった。
平成に起こった大規模な朔が、歴史を乱し、異物の混入を許した。可能性世界という存在を、容認してしまったのである。しかも、現実に夢を持ち出せるという特権を持つ盧生が。
他の盧生ならば、ありえなかったかもしれない。時空間跳躍も、せいぜいが因果も時間もごちゃごちゃになる朔という期間のみ。だが、第四の盧生――夢を叶えることに一点特化した最優の盧生がそれを行えばどうなるか。
夢は叶えられ、可能世界というものが樹立する。そしてなにより、混入した異物はとてつもなく強大だったゆえに、第四盧生が封じられ、連座で“それ”が消滅する直前にこの世界に根を下ろして定住してしまったのである。
これにより、本来終わるはずだった物語が動き始めることとなる。
邯鄲の起源という、最大の謎にして蛇足のような真実。だが決して無駄ということはないだろう。ときとして、物語の幕間、蛇足の部分にこそ、物語の核心はあるものなのだから。
―――邯鄲、撃滅すべし。
ぜったいこってりする内容に、濃いメンツを集めたばかりではなく、夢主を登場させようって決めたの誰ですか。私ですか。
二週間に一回ペースで更新できるよう頑張るつもりであります。