風見幽香。
幻想郷において最も恐ろしい妖怪はと問われたら人妖問わず多くの者がその名を挙げるだろう。
古くから幻想郷に住むこの妖怪は人里にも昔から語られている。その強さ、凶悪さは大げさなくらいに伝えられている。それはそれだけこの妖怪が危険かを表していた。
対峙して初めて分かる。あの時と同じ、強烈な死が目の前に立ちふさがるこの絶望感。
「………!!!!」
どう足掻こうが敵わない。自分の能力はもちろんこの槍でさえもこの大妖怪には何所まで通じるかは分からない。当然逃げる。もちろんただ逃げるだけでは駄目だ。逃げ切れるはずがない。
こっちだって一度大妖怪クラス相手に死線を彷徨ったのだ。万が一のための準備はしてある。問題はそれまでに時間を稼ぐ必要がある。
「ねぇ、聞いてるのかしら?」
風見幽香が再度問いかける。
一歩、こちらに踏み出した。それだけで重圧が更に重く圧し掛かる。
ヤバイ。ルーミアの時は相手が遊ぶ気だったからまだ良かったが、今の風見幽香にそんな気はない。最悪なことにどうやら彼女は不機嫌なようだ。
「何も言えないなら、そんなたいそうな口はいらないわよね」
風見幽香がそう言ったのと、さっきまで対峙していた山犬の頭が吹き飛んだのは本当に一瞬の出来事だった。
「………………………………え?」
まったくいきなりのことに頭がフリーズする。見えたのは最初風見が立っていた位置から一瞬ブレた風見の姿とその手で山犬の頭をあっさりと吹き飛ばしたところだけだった。
「………」
風見幽香と目が合う。
―――――――――――――――ぞわぁ…
「――――ッッ!!!」
死ぬ。
その時、槍を盾に出来たことは奇跡だった。気が付いたとき俺は景色を置き去りにして吹き飛んでいた。そのまま地面に叩きつけられ
グシャッ
ることなくその前に追いついた風見幽香によって傘で横から薙ぎ払われた。
「――――――――………」
もはや悲鳴を上げる暇がない。左腕は折られ今ので右腕が砕かれた。結界を張る暇もなく地面に二転三転する。
「つまらないわね」
風見幽香がそういいながら歩いて来る。
次元が違う。勝負以前に自分では彼女の敵にさえもならない。改めて自分と大妖怪との差をつき
つけられる。しかし今はそれでいい。おかげで風見幽香は余裕で歩いてくれている。
おかげで間に合った。
そして俺はそれを発動させた。
眩い発光に目を閉じて、再び目を開けるとそこはさっきとは別の場所だった。
「……ははっ、ぐっ!ごほっ、ごほっ!」
安心して思わず笑みがこぼれるが途端に口から血が出る。今更体が痛みを訴えてきた。このまま寝ていたいがそうもいかない。すぐに立ち上がり移動する。
ひしがきが用意した対大妖怪用の切り札。それは強力な武器でも特別な結界でもない。以前見た圧倒的な強さからひしがきは戦う術ではなく逃げる術を探した。それが物体転移魔法である。A地点にある物をB地点に移動させる魔法。ひしがきが身体強化以外に使用できる、数多くの魔道書から選びに選び抜いた魔法である。
しかし、この魔法は決して戦闘向きではない。どこかの戦闘民族の様に一瞬にして瞬間移動できるような魔法ではないのだ。この魔法は非情にデリケートで転移するのに専用の魔法陣を敷き転移させたい場所にまた別の魔方陣を敷かなくてはならない。
ではその基点さえ用意できていればどこかの黄色い閃光のような真似が出来るかといえばそうでもない。何度もいうがこの魔法はデリケートなのだ。まず陣で転移するものを囲む必要があるし少しでも陣が歪めば魔法は作動しない。魔方陣は固定し移動する魔法陣同士を安定して繋げなければならないため陣自体を動かすことも出来ない。また転移したい物体は転移までの数秒間動くことが出来ない。
ではひしがきは転移する陣をあの時どうやって自分を囲み描いたのか。それは結界である。ひしがきは結界で複雑怪奇な魔法陣を描くことで転移を成功させた。もちろん簡単なことではない。少しでも結界が歪めば転移は成功しない。普通に描くのでさえ細心の注意を払って用意する陣を結界で作るには高い集中力とイメージが必要となる。気の遠くなるこの作業を、ひしがきは数え切れない反復練習で習得した。
しかしはっきりいって前線で戦うのに向いた魔法ではない。そして、この魔法なかなかに魔力を消費する。それほど魔力の多くない俺はこの魔法を有効活用するより身体強化に回した方がいい。使うとしたら今回のように逃げの一手だけだろう。
先程移動した場所はあらかじめ俺が陣を敷いた場所。俺はこの陣を博麗神社と人里から少し離れた場所の2箇所に敷いている。今回移動したのは人里の方。早く体を治療しなくてはならない。
「イテェ………!」
右腕はグシャグシャだ。左腕は右ほどひどくないがおそらく折れている。肋骨も何本かイっているだろう。しかし、大妖怪と遭遇してそれで済むのなら幸運と言えるのかもしれない。いずれ、あれクラスの妖怪が里に攻めてきたら。
ぶるりと体が震える。とてもじゃないが防ぎようがない。幸い知能の高い妖怪はむやみやたらに人間を襲わないがそれでも可能性がないわけではないのだ。
嫌な想像を頭を振って飛ばす。とにかく今は早く体を直さなくては。この林を抜ければ人里はもう直ぐそこに
「あら、久しぶり」
再び、空気が凍った。
林を抜けた先、その目の前の光景に、全身から汗が噴出し、瞳孔がキュッと締まるような気がした。
「な………………………」
なんで。言葉が出ずにそれさえ言えなくなる。そこに待ち構えていた声の主、風見幽香は楽しそうに口を歪める。
「この子たちがね、教えてくれたのよ」
そう言って指をさしたのは傍らに咲いていた小さな花。花の妖怪、風見幽香。その能力は『花を操る程度の能力』。その能力は花の声を聞くことさえ出来る。
「…………………っ!」
ひしがきは我に返ると再び転移の準備に取り掛かる。戦場で思考を放棄することは即、死に繋がる。
「駄目よ」
しかし、
「はがっ!?」
軽く弾くような動作で幽香は顔面を叩く。それだけで頭から後ろに吹っ飛ぶ様に転がる。
「~~~~~ッ!」
鼻が折られ血が噴出す。目から涙が溢れ目の前の視界が滲む。それでも結界を展開し転移を成功させようとする。
「駄目だったら」
だが失敗する。
手を着いて蹲るひしがきに向けて幽香は軽やかに足で蹴り上げる。爪先が腹に突き刺さり大きく宙に飛ばされそのまま受け身も取れずに地面に叩きつけられる。
「が、は………げぇ……」
息が出来ずに無言で転げまわる。痛みで思考がまとまらない。魔法陣を構成する結界を展開することが出来ない。
「ふふふ……残念だけど、もう逃がしてあげないわ」
幽香は楽しそうに笑ってひしがきを見下ろす。
「ひ、ぁ…………」
ひしがきは幽香の目を見てかつてないほどの恐怖を感じる。心底楽しそうに、微笑む幽香。そのあまりにも綺麗な嘲笑が恐ろしくてたまらない。
「さぁ、わたしを楽しませて頂戴」
ひしがきの悪夢が始まる。