妖怪の賢者、八雲紫。
幻想郷が生まれたときからその在り方を見守ってきた大妖怪。幻想郷で、彼女の名を知らぬ者はいない。
彼女を知るものは揃って彼女をこう表す。うさんくさい、と。何を考えているのか分からず何を企んでいるのかも分からない。思わせぶりな態度と意味ありげな言葉で相手を試すような目で見る神出鬼没のBB……大妖怪。
「…………」
「紫様?どうかしましたか?」
「ちょっと今、不快な表現をされかけたような……」
「はあ?」
「……なんでもないわ。それよりも藍、そちらの様子はどうなっているのかしら?」
八雲紫は己の式、八雲藍に尋ねる。主からの問いかけに藍は頭を低くして応えた。
「はい、既に事後処理は終わり、今のところ問題なくおおむね順調に進んでいます。これでとりあえずこちらに心配はないでしょう」
「そう、ご苦労様」
「いえ、それよりも今は……」
「次代の巫女、ね」
八雲紫はため息をはく。八雲藍はその仕草に己の主が珍しく本気で困っていると察した。
「まだ、新しい巫女は決まりませんか?」
「少なくとも今すぐに巫女を務めることのできる人材は見つかっていないわね」
「……そうですか」
次代の巫女の選出。それは今後の幻想郷を左右する重大な決定である。それゆえに博麗の巫女は八雲紫自身が厳選し代々巫女に据えて来るのが本来の形である。幻想郷を愛する彼女にとって巫女の選別に妥協は許されない。しかしそれは裏を返せば巫女に相応しい者がいなければ博麗の巫女は決まらないということでもある。
それゆえに八雲紫は珍しく考え込んでいた。幻想郷のためにも、そして巫女自身のためにも出来るだけ早く巫女を見つけなくては……。
「……そういえば例の子は今どうしているのかしら?」
紫はそういえばと人里が勝手に祭り上げた仮初めの博麗を思い出した。紫は博麗の代理に干渉するつもりはなかった。人間の弱さゆえの一時的な処置。紫は人間の強さを認めている反面その弱さも知っていた。故に代理を黙認し、会うこともなかった。
「彼ならば今は人里にて療養しているようです」
「あら、とうとう耐え切れずに倒れてしまったのかしら?」
博麗の巫女は重責だ。その分その立場に要求される役割も大きい。代理に選ばれた少年は多少の力を持っているがその程度で博麗が務まれば紫自身巫女選びに苦労はしない。
弱小妖怪相手に奮闘しているひしがきではどう足掻こうが潰れるのは時間の問題。一度潰れてしまえば人々はまた不安に駆られ暴走する。紫としても人里が恐慌状態に陥るのは望ましくはないので対策は用意してある。特にひしがきが潰れようとも何の問題も無かった。
「いえ、風見幽香と遭遇したようで、命に別状はありませんがひどく蹂躙されて人里に運ばれたようです」
「……ふぅん」
紫は意外そうに唸った。
「彼女はなぜ止めを刺さなかったのかしら?」
「さあ、それは私にも分かりません」
「…………」
もちろん、ひしがきの実力で風見幽香から逃げるなど不可能である。にもかかわらず彼はまたも大妖怪相手に生き残った。その理由は定かではない。しばらくは使い物にならないだろうが人里が恐慌することはないだろう。多少不安定になるだろうが、そこは里の上の人間がどうにかするだろう。
「ふふっ……」
主の微笑みに藍はまた何か新しい企みでも思いついたのだろう察した。そして何時もこの方に振り回されている身として、ほんの僅かにこの方の掌で踊ることになるであろう少年に同情した。
「藍」
「はい」
「また、お願いがあるのだけれど」
八雲藍は用件も聞かぬまま、また頭を下げる。
「承知しました」
幸運なことにひしがきが発見されたのは風見幽香が去ってから一時間も経っていない時だった。里の外部を定期的に見回る退治屋達によって人里に運び込まれたひしがきは息こそしているものの全身が血にまみれ体中のあちこちが不自然に曲がり潰れていた。
知らせを受けた人里の上役、里長は人里のあらゆる伝手を持ってひしがきの治療を行った。たかが人間の医療と侮るなかれ、人里は長い間幻想郷で保たれてきた人間の社会である。時に妖怪による被害もあった中で伝えられていきた医療は決して低いものではない。
また此処は幻想郷。そこには様々な効能を持つ霊草、魔草がありそれによって作られる霊薬、秘薬も存在する。里長を含めた人里の上役はその人脈を持ってひしがき体に治療にあたった。
また僅かに意識の戻ったひしがきから風見幽香によって襲われた事を聞いた里長は里にひしがきが負傷した理由を説明した。曰くひしがきは里を襲おうとした風見幽香と交戦した。曰く風見幽香は退治できなかったがひしがきと戦い満足した風見幽香は去っていった。
多少の脚色をつけることにより里長は人里の危機が去った事を伝えた。それによって人里に安心感を与えたのだ。また体を張って里を守ったということでひしがきが治療するためにしばらく不在になるという正当な理由を作った。風見幽香を退かせたという脚色をしなかったのは彼女の反感を買いたくなかったためである。
こうして里の医療の粋を結集し治療されたひしがきの体は日に日に回復していった。本人の意思を除いたまま。
気が付いたら、人里に戻っていた。実家ではなく里長の家に運ばれた俺は手厚い…と言っていいか微妙なところだが治療を受けた。おそらくは俺が受けた治療はこの里における最高のもの。周りが焦るままに次々に薬を飲まされ塗りたくられ治療を施された。ただその効能は確かなものであの時は見るも無残な姿だった俺の体はが急速に癒されていくのを感じた。
そして、一通りの治療が施された後、里長がやってきた。
「具合はどうじゃ?」
「………」
声をかける里長を俺は無言で見つめ返した。
あの時、風見幽香に会った時から、俺はどこか真っ白だった。無感情なわけではない。無関心なわけでもない。無気力なわけでもない。自分の中にあるものをぶちまけてすっきりしたのかと言われればそういうわけでもない。
ただ心の中が奇妙なほど静かだった。もしかしたらあの時、俺は壊れてしまったのかもしれない。漠然とそんな事を思った。
「……お主を治療した者たちから経過は聞いておる。ひどい状態じゃったが、体に後遺症が残ることはないそうじゃ」
「そうですか」
自分の体に異常が残らないことが喜ぶべきことなのかどうか分からない。はっきり言ってしまえば足が動かなくなるなり手が使えなくなるなりした方が、今後はゆっくり過ごせるかもしれない。……いや、それさえも希望的観測だ。
今の里には博麗が、守護者が必要だ。長い目で見れば例えいなくとも里は続くだろう。しかし、今を生きる里の人たちにとっては必要なのだ。
静かだった心がざわついた。
「しばらくは里の守護は任せます。傷が癒えたら俺は、神社に戻ります」
俺がそういうと長は驚いたようにこちらを見た。口ぶりから再び博麗の仕事に就く様言われるのは分かっていたが、さすがに自分から言われるとは思っていなかったようだ。
「……やってくれるのか?」
「やらなくていいんですか?」
「…いや、そうではないが……」
「やりますよ」
俺ははっきりとそう告げる。
「こんな、世界です。なら、仕方ないでしょう」
幻想郷。それは全てを受け入れる残酷な世界。全てを受け入れるということは何も拒絶できないと同義だ。そんな世界に生まれてしまったのなら、それも仕方ない。
「……何かできることはあるかの」
長の言葉に、しばらく考えた後こう言った。
「家の保障金、増やしておいてください。以前見たときはまだ苦しそうだった」
長は顔を苦しげに歪めた後、わかったと言って部屋から出て行った。
「………」
ひしがきは目を閉じる。静かだと、そう思った。周りの環境ではなく己の心が。
「………結」
目の前に張られた結界。無色のそれはそこにあるのかどうか分らないほどに透明で何も感じさせない。再び目を閉じる。静かな、心の中の水面。先程の沸騰するようなざわつきはない。何所までも静かな水平がある。そう感じる。
その中に、沈んでいく。飛び込むように己の中に入っていく。沈んでいくにつれ周りが暗くなる。そしてある地点で止まる。まだ暗い先があるのに、これ以上沈めなくなる。
「結」
目を開ける。そこにあった先程とは違う結界。何の術式も施していないそれは既に黒く染まっていた。以前と違うのは、その黒は以前の濁ったような黒とは違う。澄んだ黒。何一つ確証がないままに理解した。これが、正しい力の出し方だと。
「………」
その結界を眺めた後、ひしがきは再び横になった。
さっきの結界は特に何かを意図して張ったわけではない。自分の心を沈める鍛錬は以前にもやったことがあったがあんな結界は出なかった。しかし今は何となくできるような気がした。
(自分は……)
何か変わったんだろうか。変わったと言えば変っただろう。風見幽香との出会いをきっかけに、死にかけて生きたいと今までにないほど強く願った。
(だからか…?)
生存本能。それは生き物に思わぬ力を与える。限界以上の力、神懸かった直感、ありえないほどの技術。百の鍛錬よりも一つの死線。それは何かが変るには十分な理由だ。
(体が治ったら、また鍛えないとな)
しばらくは此処から動けないだろう。神社にも戻れない。戻ったらまた掃除をして必要なものを用意しなければならない。
(体が動くようになったら、家の方にも行こうかな)
そういえば弟妹から話をせがまれていた。両親にもしばらく会っていない。また、家でしばらく過ごしても罰は当たらないだろう。
取り留めのないことが次々にひしがきの頭の中をよぎっていく。里の事、家の事、博麗の事、家族の事、妖怪の事。今まで忙しすぎて考える余裕がなかった日常が思い起こされていった。
(……ああ、そうか)
それはひしがきが苦しみながらも決して捨てられなかった日常。過酷な生活の中でそれでも投げ出さなかったもの。
ひしがきの中で何かが溢れた。寂寥にも似たそれはひしがきを満たし涙になって溢れる。とてつもなくひしがきは何かが恋しくて仕方がなくなった。
「ぐ、す…ふぇぇぇ……」
ひしがきの異常であり強みでもあるのはその知識だ。その知識は一般的な現代社会のものである。それはひしがきに様々な物の捕え方や基準の元になっている。
その中に価値観がある。おそらく外の世界の誰にでもあるそれは人並みの倫理や道徳的な価値観をひしがきに与えていた。それは幻想郷で今まで暮らしていたひしがきの中には到底生まれるはずの無いものもあった。
「うぇぇぇぇぇぇ、ひっ、ぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇ」
人は人と関わらずには生きていけない。人は誰かと寄り添っていなければ生きていけない。恥ずかしくて言えない様な、しかし誰しもが持つ当然の考えが、世界にたった一人で迷子になったような不安と孤独をひしがきに与えていた。
あるいはそんな知識がなければ、荒んだ人格をひしがきは育んでいたかもしれない。何一つ寄せ付けない孤独な人間になっていたかもしれない。しかし、彼は既に人間だった。悲しいことも、苦しいことも、嬉しいことも、楽しいことも知っている。それは何所にでもいる、ただの人間だった。
「ひっく、ぅぅぅぅぅぅぅぅぅうぅぅ」
今はまだ、その声を聞いてくれる者はいなかった。
今回の重要ポイント
『今はまだ』