それは何の変哲もない、幸せに満ちたいつも通りの日常。
先生がいて、ミズキがいて、クルミがいて、たきながいて…百合がいる。
ミズキが店のテレビを見ながらお酒を飲んで、朝っぱらからくだを巻いていた。
先生は少し忙しそう。なんでも珍しいコーヒー豆が手に入ったらしくて、美味しい淹れ方を模索してるんだって。
クルミは…ああ、いたいた。奥で寝っ転がってゲームしてる。現代っ子め…いや、私も現代っ子か。そもそもクルミって何歳なんだろ?
たきなは今日も真面目に、せっせと開店の準備を進めてる。私の顔を見るや否や、今日も元気そうでよかったです、なんて言ってきた。あのねぇ、たきなさん。そんなちょっと一晩目を離したからって死なないからね? 私を何か別の生き物と勘違いしてない?
約束したからって言っても真面目すぎ。ね、百合もそう思うでしょ?
百合…?
──場面が、変わる。
電話の受話器を手に、顔を強張らせた先生。ゆっくり開かれた店の扉と、生気のないフキの姿。
フキが何かを言おうとして、先生に抱きしめられた。先生はよく帰って来てくれた、と言った。
泣きじゃくるフキを座らせて、先生が私の方を向く。先生、どうしたの? そんな怖い顔して。フキ、なんで泣いてるの?
先生が、ゆっくりと、私に言う。
「────────」
嘘だ、という私の言葉は、言葉にならないまま立ち消えて…
手からすり抜けていったグラスの割れる音だけが、店の中に響いた。
◆
「──千束。たきなです、入りますよ」
貰った鍵で千束のセーフハウスへ入ると、わたしはそう言いました。返事はありません。けれど、それもいつものこと。
梯子を降りて本来の居住スペースへ行き荷物を置くと、ソファーで眠っている千束の姿がありました。
(…今日は眠れたんですね)
最近ではまるで見ることのなくなった穏やかな表情。そんな彼女の様子に、気休めに過ぎないと分かっていても少しだけ安堵して、わたしは食事の準備に取り掛かります。
やがて料理が完成した頃、ちょうど千束が目を覚ましました。
「おはようございます、千束」
首だけ動かしてわたしの方を見る彼女の瞳は、わたしを映しているようで、実際には何も映してなどいないのかもしれません。
ボーっと静かにこちらを見つめ続ける千束の様子も、いつものことで…その中でもこれはまだ
千束の目に入らないよう、包丁を始めとする金属製の調理器具を素早く持ってきたバッグの中へと仕舞います。
「千束、食べなくちゃ倒れてしまいますよ」
わたしの言葉と並べられた料理を見て、千束は力なく首を横に振りました。ここ数日まともに食べていないはずなので、そろそろ身体は限界のはず。
…千束には悪いですが、一週間ほど前にやったように、最悪口移しで食べてもらうことになるかもしれません。席を立って千束の隣に座ろうとすると、千束は小さな声で「ごめんね」と言いました。ほんの一瞬だけ、光を灯した千束の瞳。それはきっと、千束が先ほどまで見ていた穏やかな夢のおかげ。そしてその夢に出てきた、あの人のおかげなのでしょう。
約束ですから、と言って千束を抱きしめると、彼女は弱弱しく、けれど自分の意思で抱きしめ返してくれました。
どうか、次に千束が見る夢も、千束に優しいものでありますように。
わたしには、そう祈るだけで精一杯でした。
「――千束、今日もダメそうか」
「…はい。食事だけはなんとか取らせましたが…」
臨時休業の札が掛けられた喫茶リコリコの店内に入ると、クルミがそう聞いてきました。
ここ最近、毎日のように交わされているやりとりです。私が答えると、クルミはそうか、とだけ言って再びノートPCへ向き直りました。
「バッグ、預かっていただいてありがとうございました」
本来、リコリスとしてあり得ない行為かもしれませんが、わたしは千束のセーフハウスを訪れるにあたって銃を始めとする武器を全てリコリコに預けていました。
一度、千束がわたしの銃を奪い取って千束自身に向けたことがあったのです。その時はなんとか事なきを得ましたが…もう一度起きないという保証はありません。千束の自宅にあった彼女自身の銃からも、非殺傷弾とは言え全て弾を抜き、調理器具や、食器まで、彼女自身を害せる物は徹底して持ち出しました。それでも千束が本気で
「毎日すまないな、たきな」
「…したいからしていることですから」
「けど、アンタだって辛いでしょ? 千束の様子ならアタシだって見にいけるんだから、たまには…」
店長へそう返せば、カウンター席に座っていたミズキさんが店長の言葉へ続けるようにして、そんなことを言いました。
「いえ、やらせてください。でないと、わたしまで…」
続く言葉は、口には出しませんでした。…一度言葉にしてしまったら歯止めが効かなくなりそうだったから。
それを最後に静まり返ってしまった店内。そんな静寂を破ったのは、何事か作業をしていたクルミでした。
「まさかあの千束がこうまでなるとはな。なぁ、ミカ。百合は千束にとってなんなんだ? 仲が良いのは見ていれば分かるが、そんなもんじゃないだろ、これは」
百合。白園百合さん。それは、わたしが出来る限り口にしないようにしていた彼女の名前で…それを聞いた店長は、ゆっくりと語り始めました。
「…百合は千束にとって、姉であり…母親のような存在だ。千束があの制服に袖を通したあの日から、二人は一緒に生きてきた。そして…私はそれをずっと見てきた。百合にとっての千束が、手のかかる妹だったのか、あるいは自分の娘のような存在かは分からないが…百合も千束のことを大切に想っていたのは間違いない」
「血の繋がらない家族か」
「ああ…」
店長の声色は、痛ましいながらもどこか穏やかで…見てきたであろうそれが、かけがえのないものだったのだろうと言うことが伺えました。
「昔から、百合は落ち着いた子だった。周りとそう何歳も変わらないのにな。百合と話していると、つい子供と話しているのだということを忘れてしまう。私ですらそうなんだ、千束やフキ…他のリコリスからすれば、百合は最も身近にいて、頼りになる存在だっただろう」
「そうね…百合は確かにそんなだわ。見た目はともかく、アンタ中身はいったい何歳なのよ、ってね」
「千束は特にそうだ。百合は、平等なあの子にしては珍しいと思ってしまうくらい千束の世話を焼いていた。この店を開いたときは…大変だったよ。千束が百合をDAから無理矢理連れてきてしまったからね。他のリコリス達が挙って店に来て…」
聞き覚えのある話でした。千束がDA本部へ来るたびに仕掛けられているという摸擬戦の理由。フキさんは、あの馬鹿が連れて行ってしまった、なんて言っていましたっけ。
店長はそこで、堪えるようにして話を止めました。
「…少し、出てきます」
いくらクルミのドローンと監視カメラがあると言っても、今の千束には自分で自分を守る力も、武器もありません。誰かが、彼女を守らなくてはならない。これもわたしの日課の一つでした。彼女の部屋が見える位置から、襲撃者が現れないよう見張ること。
誰かの返事を待つことなく、わたしは再びリコリコを後にしました。…これ以上、誰かが苦しむ姿を見たくない。そんな感情だけが、わたしの足を動かしていました。
「本当に…どうかしてますね」
気が付いたのは、店を出てそれなりに歩いてからでした。背中にあるはずの重みがない。
そこでようやく、わたしは自分が武器を入れたバックパックをまたリコリコに置いてきてしまったのだと理解しました。千束を守りに行くのに、そのための武器を忘れるだなんて。
そんな、普段ならまずしないような忘れ物をして店に戻ると、クルミが普段いる押し入れの方から話し声が聞こえてきました。
「もう言うべきじゃないか? これ以上は千束が持たないだろ」
千束の名前…わたしはとっさに息を潜めました。
「…分かってる。だが、これでもし違ったとすれば…今度こそ千束は自分で自分を殺してしまいかねん」
「それはそうだが…」
「なんにせよ、百合が生きているという確たる証拠を見つけてからだ」
ガタッ
「…たきなか?」
あるいは、始めから気づかれていたのでしょうか。店長がそう言うと、私が声を出すよりも先に押し入れの反対側から声が聞こえてきました。
「い、いや~み、ミズキで~す…な、なんちゃって…」
…どうやらミズキさんも盗み聞きしていたようでした。ならそっちがたきなか、と言われ、私も今度こそ顔を出しました。
「話、聞かせてもらえますか?」
店長は観念したようにため息をつき、クルミ、と呼びかけました。
「…説明はボクがするが、怒られる役までは引き受けないぞ」
「分かってる」
「百合さんが…生きてる…」
クルミが見せてくれたのは、DA本部からハッキングして手に入れたであろう、百合さんが行った最後の現場の情報でした。
「正確にはかもしれない、だけどな。少なくともデータベースを漁った限りじゃあの現場から百合の焼死体…というか、女の死体や…骨なんかは見つかっていないらしい。もしかしたら外部のクリーナーを使ったのかもと思ってそっちの線も洗ってみたが、その様子もない」
続けて画面に出てきたのは現場から提出されたであろうレポート…フォーマットからして、リコリスの現場指揮官が書いている物だと分かりました。
「不可解なのは、この傷でどうやって脱出したのかだ。この前喫茶に来てた千束と同じ赤服のやつも言ってたが、どう見たって致命傷だったそうじゃないか」
「それが千束に…私達にこの話をしなかった理由ですか?」
そうだ、と答えたのはクルミではなく店長でした。
「千束が今どんな状態か、たきなも分かってるだろう」
「…はい」
千束の取り乱し方は普通ではありませんでした。クルミを死んだことにするために、その死を偽装したとき、千束は泣きじゃくっていましたが…今回は、少なくともわたしが知っている限りでは一度として涙を流してはいません。代わりに、まるで電池が切れてしまったように無気力な状態と、自分で自分を傷つけようとする状態を繰り返しています。…実際のところ、わたしがこうしてわたしのままでいられているのは、千束がわたしよりもずっと深く傷ついて…壊れてしまっていくのを見てしまったからだと…そう思います。
それでも…
「それでも、私は…これ以上千束のあんな姿を見たく、ありません…」
「…たきな」
例えか細い希望だとしても、千束は、私は。
「――それでも十分です。百合さんが生きている可能性が少しでもあるなら、千束はきっと立ち直ってくれる。私は千束と約束したんです! …資料をください。今から千束と話してきます」
もう一度、百合さんに会いたいから。