『――本当に行くのかい?』
喫茶リコリコへ向かう途中。車椅子に乗った百合が、またそんなことを言う。病室を出る時、病院を出る時、そしてこうして歩いている時…百合は今日、何度も同じことを言っている。
『行くに決まってるじゃん! ようやく外出できるようになったんだよ!』
伊藤さんも北村さんも、常連のみんなが百合を待ってるよ、と私も今日何度言ったか分からない内容を口にする。
『こんな状態で喫茶リコリコに行ったら、何を言われるか分からないだろう?』
…なんて百合は言うけれど…それ以上に私は、「百合がいる喫茶リコリコ」をもう一度見たかった。それで初めて、百合が本当に帰ってきたと思えるだろうから。
『大丈夫だよ、先生が事前に事情を話しておいてくれてるから』
先生も同じ気持ちだったのか、事前に
私のそんな顔を見て、百合も困ったように笑った。
百合が囚われていたあの研究施設のような場所は、間違いなくアラン機関と関係がある場所だった。彼に繋がる、最も大きな手掛かりだ。
後日、私は一人でもう一度その施設を訪れた。けど――
『嘘…』
たった一夜にして、そこは本当に
クルミが、アラン機関はどれだけ調べてもまるで尻尾を掴ませないと言っていた理由が、私にもよく分かった気がした。元々、この施設を知ったのだって真島が私の家へ現れた際に置いていったUSBメモリのおかげで、私達だけでは、もしかすると百合を見つけることはできなかったかもしれない。
アラン機関に繋がる最も大きな手掛かりを失った私は、積極的にDA本部の任務を手伝うようになった。百合とフキ達が交戦したという部隊のように、アラン機関に雇われた連中が他にもいるかもしれない。
たきなは『私も一緒に行きます』と言ってくれたけれど、私は一人で任務に行くことを選んだ。…私は銃弾を避けることができるけれど、他の人にはできない。あんなに強い百合だって、ああなってしまった。私はこれ以上、私の近くの人達が、傷つくのを見たくなかった。
『たきなは百合と一緒にいてあげて』
任務に行くとき、私は決まってたきなにそう言っていた。卑怯だって、そう思う。私は百合を理由に使って、たきなを踏み止まらせてたんだから。
そんな自分が嫌で、けれどそれ以外のやり方もよく分からなくって。私達はどこか、ギクシャクしていたけど、私は誰にも心配をかけたくなかったから、表面上はいつも通りに振る舞っていた。
たきなもたぶん、そう。百合と私のために、言いたいことを我慢してくれていた。
だけど結局、百合には全部お見通しだったみたいで、ある日百合がたきなと一緒にデートに行こうって言ってきた。遊びのしおり、と書かれた冊子は、私に内緒で二人で作ったものらしかった。
始めは『千束とたきなの二人で行っておいで』なんて百合は言っていて、経験上、こういう時の百合は言葉で言ってもなかなか聞かないから、たきなと顔を見合わせて頷いて、二人で強引に連れ出した。ごめんね、って私がたきなに言うと、たきなは「心当たりがありすぎて、どれに謝られてるのか分かりません」ってジト目で睨んだ後、笑った。百合はそんな私達を見て、優しく微笑んでいて、変わってしまっても変わらないものがあるんだって、そう思った。
『まだ時間はあります。百合さんは生きていて、クルミや店長、ミズキさんが人工心臓のことを調べてくれている』
だから大丈夫、一人で抱え込まないで、と優しく降る雪の中で、たきなは私を真っ直ぐ見つめて言う。
またごめんね、と言いかけて、今度はありがとうって返した。
そうだ、時間ならまだある。一人じゃない。だからたきなの言うように、きっと大丈夫だ。
――そう、思っていたのに。
開店前、朝の優しい静寂が満ちていた喫茶リコリコの店内に、ビービーというブザー音が響き渡った。
同時に、店の奥で朝の仕込みをしていた先生が、いつもの優しい声とは違う、切羽詰まった声を出していた。
『おい、どういうことだ!? シンジ!!』
『先生――』
私が言い切る前に、次は喫茶リコリコの電話が鳴った。取ろうとして、躓きかけ、たきなに支えられる。
『はい、喫茶リコリコです。…楠木司令』
『たきなか』
たきなが電話を取る。手持ち無沙汰になった私は、さっきから鳴り響いているブザー音の元を探そうとして…それが、百合の車椅子から鳴っていることに気付いた。
『百合…?』
私の言葉に答えたのは百合ではなく、私の前にブザー音がどこから鳴っていたかに気付いていたらしい、クルミとミズキだった。
『充電用バッテリーは満タンのはずだが…おかしいな』
『クルミ? それってどういうこと?』
『ああ。そもそもこの音は――』
次に言葉をかき消されるのはクルミの番だった。
『千束』
『千束!』
先生とたきなに、同時に名前を呼ばれる。
百合がいなくなった時と同じような、嫌な予感がした。
「話しておかなくては…ならないことがある」
延空木へと向かう、たきなが運転する車の中。
そう言って先生が聞かせてくれたのは、先生と吉さんの過去と…私が抱いていた救世主という夢のために、百合がどれだけ尽くしてくれていたかということだった。
私はずっと、私を救ってくれた人に恥じない人間になりたかった。
貰った時間で沢山の人を救いたくて、けれど誰かの時間を奪いたくなくて。
それはきっと、本当なら…ただの子供の我儘で終わるはずだった。
でも私には…百合がいた。
百合は、DAから来るどうしても
そして私は…結局百合を、あんな目に遭わせてしまった。
全部吉さんが悪いんだ。
――違う。
吉さんが、百合を傷つけたんだ。
―――違う。
『なら、人を助ける銃だね。…ねぇ、百合姉。私も私を助けてくれた救世主さんみたいに、みんなを助けられるかな』
『千束なら絶対にできるよ。これから君はたくさんの人を救うんだ。私のことだってこうして救ってくれただろう?』
救えてなんて、ない。ずっと、ずぅっと、逆だった。
私は、私の夢で、きっとどんなことだってできる素敵な人を、縛っていたんだ。
吉さんのことも、先生のことも、私には酷いだなんて言える資格は初めからなかったのだということを…私はようやく理解できたのだった。
◆
「吉松氏が…百合さんの心臓を?」
車を延空木へと走らせながら、私達は車内で今の状況を整理していました。
「…うん。百合を助けたければ延空木へ来いって」
「タイミングからしても間違いない。百合の人工心臓には元からそういう細工がしてあったんだろう。…まさかここまでして、千束にアランチルドレンとしての使命を果たさせようとするとはな」
店長は、先程まで吉松氏のことを…そして、百合さんが千束の夢を守っていたのだということを、千束に話していました。店長と吉松氏の間には強い信頼関係があった。そんな彼から見ても、やはり吉松氏の行動は常軌を逸するものなのでしょう。…千束の最も大切な人を利用してまで、彼女に人を殺させようとしているのですから。
「満充電だとしても、百合さんの心臓が止まるまで12時間もない…」
百合さんに埋め込まれている人工心臓は、千束が使っているものより古い、プロトタイプのようなもの。しかしそれでも、現代の医療技術の先を行く代物であり…充電できなくなったバッテリーをどうにかすることは、私達では不可能でした。
「手術にかかる時間を考えれば、タイムリミットはさらに短い。幸い、既に腕の良い医者は捕まえてあるが…」
「すぐに、心臓を手に入れなきゃいけない」
千束のその言葉が全てでした。私達には、もはや時間も選択肢もない。真島や、その部下を越えて、吉松氏を捕らえなくてはならない。そして、彼が持っているであろう、百合さんを助けるための人工心臓を手に入れる。さもなくば…。
「…急ぎましょう」
頭をよぎった最悪の想像を打ち消すように…私は無心で車の速度を上げたのでした。
「フキさん!」
「たきな! 千束に先生も」
延空木に着くと、既に周辺にはリコリスによる包囲網が敷かれており、そして同時に人払いが行われていました。
「ああ。状況はどうだ」
「既に即応部隊が延空木へ入ってますが…トラップが張り巡らされていて少し苦戦しています。私の班もこれから内部へ突入予定です」
現場指揮官として現地へ来ていたフキさんへと店長が状況を確認している間にも、千束は延空木の遥か上を見据えていました。
「フキ、そっちは任せた」
そして武器を取り出し、臨戦態勢へと入り終えると…ようやく千束はフキさんの方へと向き直りました。
「任せたって…千束、お前はどうする気だよ?」
「詳しく説明してる時間はないけど、急がないと百合が危ない。私とたきなは真っ直ぐ上を目指すから」
「っ、おい千束!? 百合姉が危ないってどういうことだよ!?」
店長に「手術のことはお願い」とだけ言うと、千束は走り出していました。
(千束…)
――今の千束を、絶対に一人にしてはいけない。
百合さんがいなくなったあの日の千束と同じ何かを感じた私は、フキさんと店長へ会釈をし、すぐに千束の後を追いました。
内部へ入るとエレベーターは止まっていて、使えるのは非常用の階段のみでした。先程フキさんがトラップに苦戦していると言っていましたが…確かにここならば、いくらでもトラップを仕掛けられるでしょう。
しかし千束は経験によるものか、あるいは弾丸すら躱して見せるあの観察力によるものか…トラップを避け、あるいは誘発させて速度を落とすことなく前へ進んでいきます。
百合さんと任務を共にしたときも痛感しましたが、これがファーストリコリスというものなのでしょう。…私は、ただ千束の後ろからついて行っていただけでした。
少しずつ敵と交戦するようになり、トラップは減ってきましたが…次は千束の戦いぶりに驚くことになりました。
(いつもの千束とは…まるで違う)
遊びのない、最適化された動き。
最低限の動作によって相手を戦闘不能にする動きでした。それなのに、どこか陰鬱な、何かに迷っているような顔をしていて…
「行こう、たきな」
「っ、はい!」
交戦と移動を繰り返し…やがて、私達は開けた部屋へと出ました。
「ここは…」
『よぉ、早かったじゃねぇか』
「ッ、真島!」
『ハハハッ、そう怒るなよ。俺はそもそもここにはいねぇよ。お前らにゃ興味ないんでな。だが、お前らのお目当てならこの上にいるはずだぜ』
それじゃあな、と言い残して、スピーカーは静かになりました。真島も、その部下も、そしてトラップすらもここにはないようでした。
「行きましょう、千束」
「……うん」
さらに階段を上がるとそこには…一人の男が立っていました。
「吉松…シンジ」
待っていたよ。そう言って、彼は笑ったのでした。