クルミが入ってたトランクケースの中は絶対いい匂いがすると思った。
「ち、さと?」
今日までずっと一緒に生きてきて、初めて見る顔。まるで迷子になった小さい子供のような…不安げな表情をした百合が、文字通り目と鼻の先にいる。
本当、いつまで見ていても飽きない顔だな、なんて場違いにもそんなことを思う。私よりもさらに色素の薄い綺麗な白い髪に、少し潤んだ瞳。髪型に無頓着な彼女は、私がずっと昔に好きだと言ったこの髪型を今日まで続けている。これは私の、醜い独占欲だ。
ここからどうすればいいのか、よくは知らないけれど。
そんなのは、きっとどうだっていい。自分の中にある、ドロドロとしたモノに従って全部を百合にぶつけようとした、その時だった。
「──千束、もしかして具合が悪いのかい?」
えっ、という言葉が出る前に、百合の顔が私に近づいてきて額と額が優しく当たる。
んー、と百合は悩むような声を上げたあと、すぐに私と百合の位置が逆転した。
「熱がある…と思う。体温計じゃないからはっきりとしたことは言えないけど」
「え、えっと…?」
そのまま小さな子供にするように私に布団をかける百合。これはよく見たことがある…百合のお姉さんモードだ。
有無を言わさぬ手厚い介護に、いつの間にか私の中にあったモノは自然と静まっていった。次に来るのは羞恥心と、あんなことをしてしまったという罪悪感…かけられた布団にぎゅっと包まり、唸る。
すると百合が布団から出ていた頭を撫で始めた。
「…どこにも行かないで」
あんなことをしておいてよくも、と自分で自分を責めつつも、そんな言葉が出ていた。百合は傍にいるよ、と言った。
その後私が眠ってしまうまで、このやり取りは何度でも続いた。
翌朝、薄っすらと聞こえてくる百合の可愛らしい鼻歌と、朝ごはんのいい匂いで目が覚めた。
急いで部屋から出てキッチンへ向かう。
──百合が、いる。
「おはよう、千束。今日は早いね。いつもならもっとお寝坊さんなのに──っと、どうしたの?」
いきなり抱き着いた私に火を使っているから危ないよ、なんて言いながらも百合は決して引き剝がそうとしたりはしない。
具合はどう? と聞かれたのでまだ体調が良くないからもう少しだけいてほしいと百合に伝えた。その「お願い」も受け入れられて、百合は今日もこの家に帰って来てくれるようになった。
「となると着替えとかも取ってこなきゃかな」
百合は百合のままだった。私がどれだけ寄りかかっても、なんてことないように、優しく微笑んで支えてくれる。
本当は風邪なんて引いてないけれど、もう少しだけ。もう少しだけ、私は仮病を続けることにしたのだった。
その後何日かそんな日々が続いたあと、先生から「そろそろ戻ってこい」と電話で叱られてしまった。やっぱり先生にはバレバレか。ミズキも気が付いてそうだし、確かにそろそろ潮時かもしれない。お店に来てくれるみんなも心配してくれてるだろうな。たきなもコンビを組んで早々に放置する形になってしまったから謝らないと。
次の日の朝、私は百合にもう大丈夫だから、と伝えた。百合との生活が終わってしまうのは名残惜しかったけれど、それについてはもう良いアイデアが浮かんでいた。
「そうか。元気になってよかったよ」
「うん! ごめんね~迷惑かけちゃって」
「迷惑じゃないよ。でもたきなや先生、それに常連の人達…特に伊藤さんが心配してたよ。見てもらわないと漫画が進まないーって」
「私の心配じゃなくないそれ!? でも…うん! 今日からは元気な姿を見せちゃうよー!」
「──百合さんと一緒に行動する方が学べることは多いと思います」
復帰して早々、たきなとは言い争いになってしまった。仕方ないけどね、全面的に私のせいだし。
一つ困ったのは、たきなが百合とコンビを組みたいと言い始めてしまったこと。どうやら私が百合に仮病で甘えていた間、たきなは百合と二人で仕事をしていたらしい。
「ええ~。そんなこと言わないでよ、たきな~」
「言います。そもそも千束さん、リコリスが自分で自分の体調管理もできないようでは困ります」
「それは悪かったって~」
「百合さんはどう思われますか?」
たきなは結局私を無視して百合に直接聞こうとしていた。けど結果は見えてる。私が三人で、って言ったとき、百合はいつもと違う雰囲気で「ダメだ」と言っていた。
だから今回もそう言うのだろう。
そう、思っていたのに。
百合は無言で困ったように微笑みつつも、どこか考えているようだった。どうして? 私のときは即答だったのに。
結局、百合が何か言う前に私はたきなを強引に連れ出して仕事に向かった。
「どういうつもりですか、千束さん」
そんなこと私が聞きたい。そう思いつつも、たきなに当たるのは筋違いなのは分かっていたから、それっぽいことを言って誤魔化した。
「ねぇ百合、今日もそっちでご飯食べてってもいい?」
「ああ、構わないよ。昨日作りすぎてしまったのがいくつかあるから、それを手伝ってもらえると助かるかな」
百合が二人で暮らしていたセーフハウスを完全に出て行ってから数日。私は百合が今暮らしているセーフハウスによく遊びに行くようになった。百合が離れていくのなら、私の方から寄ってしまえばいい。なんともシンプルで今まで考えもしなかったことだ。
百合も百合で一人分の食事を作るのが久しぶりすぎて毎度作りすぎてしまうらしく、特に迷惑そうな顔をすることもない。まぁ、百合なら例え他のリコリスの子がいきなり泊めてと言ってきても嫌な顔一つせず泊めてしまうだろうけど。そこが百合の良い所であり悪い所だとも思う。
「そういえば気になる映画見つけたんだよね~。後で見よ?」
「いいけど夜ふかしはしないよ? あとちゃんと自分の家には帰ること。いいね?」
「はーい。分かってる分かってる!」
そんな話をしているうちに百合のセーフハウスに到着した。私のセーフハウスと同様に何もないフェイクの部屋から入る仕組みだが、百合の場合、生活スペースの方もかなり物が少ない。というか、百合の私物って服とか手帳とかそんなくらいな気がする。一応本を読むためのタブレットなんかは持っているみたいだけど、それ以外は私が百合にプレゼントした雑貨くらいなものだ。服にしたって私が買ってきたものがほとんどだし。
物欲というか、百合は欲らしい欲がない気がする。いつも与える側。映画は私が観るから百合も観るだけで趣味ではないだろうし…読書くらい?
そんなことを考えていると、キッチンの方からいい匂いが漂ってきた。百合はかなり料理上手だ。私が小さいときから…と言っても百合と私は1歳しか違わないけど、一緒に住み始めてからはいつも百合がご飯を作ってくれていた。私は大抵後片付けだけ。そういえば片付けにしたって初めは危ないからってやらせてくれなかったんだよね。
「何か良いことあった?」
「ん? んーん、なーんにも!」
楽しい気持ちが顔に出ていたのか、エプロン姿の百合がそんなことを言ってきた。何か良いこと、なんて毎日起きてるんだよ? 百合といるだけでその日は良い日なんだから。
私のそんな気持ちが伝わっているのかいないのか、百合も穏やかに微笑み返してきたのだった。
「お二人はいつも一緒にどこへ行っているんですか?」
喫茶リコリコの営業も終わり、戸締まりやガスの共栓の確認なんかも終わっていざ帰ろう! というとき、たきながふとそんなことを聞いてきた。
「えーっと、一緒にって?」
いつかはこうなるだろうな、という気はしていた。たきなは百合のことをすごく気にしていて、よく百合のことを見ている。
分かっているくせに、とっさにそんな質問を私が返したのはどうするか時間を稼ぐためだったのだが、それは百合の言葉で一瞬で台無しになってしまった。
「私のセーフハウスだよ」
「百合さんのセーフハウス…」
考え込むたきなの瞳に、行ってみたい、という興味の色が見えた私はとっさにたきなの手を摑んで声を上げていた。
「よしたきな、私の家に行こう! 映画見よう!」
「えっ? ええと…」
話が見えないと言わんばかりに困惑するたきなの手を怪我はしない程度に、されど強めに引いて走り出した。
「はい、上がって上がって!」
「は、はぁ」
すっからかんなフェイクの部屋を見て、たきなは「プロの部屋だ…」なんて呟いていた。そんなたきなを階下の本当の部屋に案内すると、感動していたらしい表情は一瞬にして消えて、呆れた、みたいな目を向けられてしまった。
「ちょおーっと座って待っててね。あ、その辺空いてるとこ座っていいよー」
コーヒーを用意しながら我ながらここ数日で随分散らかってしまったな、と思う。これまでは百合が少しでも散らかすとすぐ掃除してくれていた。それも千束らしいね、なんて喜びながら。…百合って駄目人間が好きなのかな? いや、別に私は駄目人間のつもりはないけどね!
たきなに向けようとしていた…いや、向けてしまっていた気持ちをなんとか取り去るために、関係のないことを雑多に考えながら手を動かしていれば、すぐに準備もできてしまっていた。
「お待たせー。先生が挽いてくれてるのと同じやつだから美味しいよ? お店のにはちょっと劣るかもしれないけどそこは私の気持ちが入ってるから。愛情たっぷりだから」
「…ありがとうございます」
たきなは何か言いたそうだったけど、はぁ、と一度ため息をつくと大人しくコーヒーを飲み始めた。
そんな彼女を横目に私がよく観ている名作映画の中からテキトーにチョイスして映画を流す。
「この映画見たことある? 未来から送られてきた人間そっくりの機械が追い回してくるってやつなんだけど」
「いえ、ないです。映画自体あまり…というかほとんど見ませんので」
「そうなんだ? じゃあ今度厳選した千束セレクション貸しちゃうよ! あ、それとも今日みたく
「……本当に映画を見るために連れてきたんですか」
「ん~? そうだよ? あとはたきなと仲良くなりたいからかな? …お、始まった」
デデンデンデデン、という有名なBGMが流れて本編が始まる。
映画を見ながらも考えていることはまったく別のことだった。たきなをできるだけ百合に近づけさせないようにしなければならない、ということだ。それが今の私の頭を占めている一番のこと。元々私とたきなは任務のときはペアを組むし、プライベートはこうしてたきなと定期的に映画を見るなり理由をつければ百合と引き離すことは十分できる。その分百合と過ごす時間が減ってしまうけど、仕方ない。なぜなら…。なぜなら、百合は、たきなを相当気に入っているみたいだから。
今思えば、初対面の時から百合らしくない反応だったと思う。百合は優しいけど、それは平等な優しさだ。百合はみんなに等しく優しい。例外は私だけ。
…だったんだけど。
画面を真剣に見つめている、飾り気のない長い黒髪を真っ直ぐに下ろした少女に目を向ける。
たきなは綺麗で、可愛い。そして任務にも常に全力だ。少しそれが行き過ぎてしまう部分はあるけれど。ざっと見ても、百合がたきなを気に入っている理由がなんとなく分かった気がする。
「ハンドガン程度ではびくともしませんね」
「でしょ? これに追いかけられるとかホラーだよホラー」
気に入っている。けれど、今はそれだけだ。百合がたきなと接する時間が少なければ、それ以上芽が大きくなることはない。笑顔で会話しながらこんなこと考えている自分が心底嫌になるけれど、これ以上百合がたきなを好きになるのを防ぐため。延いては、残り少ない百合との時間を邪魔されないため…。
こうして私は、たきなと仲良くなることを決めた。
カンッカカンッ!!
「あっ!? お、おい!? 盾に使うのはなしだ~!!!」
「たきな! なんかそれダメらしいよ!」
「無理言わないでください!」
今、私達は依頼人である…犬の着ぐるみ…じゃなくてリスの着ぐるみを着た妙なハッカーさんの護衛をしている。
「百合、来てる!?」
『もちろん』
ここは追手から紆余曲折を得て避難することになったスーパーの跡地だ。場所はすぐに割れて絶賛交戦中。私とたきながハッカーさんとスーパーの中にいて、百合はその援護と追手の
『見えたよ。千束、たきな、外から何発か援護する。いけるね?』
そんな状況でも、いつもの余裕を失わない落ち着いた声。百合だ。
「おっけーばっちこーい!」
「了解しました」
その通信の直後、入口側のガラスを貫通し二発の弾丸が飛来した。百合の援護射撃だ。一発は逸れたけどもう一発はお相手のアサルトライフルのハンドガードに命中した。衝撃とパーツの破片で傷を負うだろうけどマガジンと機関部は外しているから命に別状のある傷じゃない。
相変わらず良い腕してる!
「なっ…!」
「百合やるぅ!」
『場所が割れたから外のを何人か引き付けて下がる。あとは任せたよ、二人とも!』
その後はたきなが私が銃弾を躱すのを見てドン引き(たぶん)したりもあったけど、中にいた人達は無事制圧。
私はたきなが当てた弾で傷を負った相手の手当てをして、その間に二人には先に脱出するように言った。私もすぐ追いかけるから、なんてちょっと縁起でもなかったかな?
そして応急処置も終わったとき、その人が言ったのだ。
「そっちはやめろ! うちのハッカーのドローンが見てる…待ち伏せしているぞ」
「っ!」
すぐに向かったけれど、結果は──
『たきな!出ないで!』
カンッ
その音のあとに、フルオートの銃声が響いて…
──後に残ったのは、血を弾けさせた、リスの着ぐるみだけだった。
「失敗です…護衛対象は死亡です」
『すぐに緊急車両が到着する。遺体と荷物を回収して現場を離脱しろ。百合、念のため周囲の警戒を頼む』
『了解、先生』
この後、私はこれまで生きてきた人生の中でもたぶん一番のドッキリを経験することになった。
まぁ、でも任務は成功! …たきなとはまた少し言い合いになっちゃったけど。
「そっちの方がよく似合ってるよ~。よろしくクルミ~」
「よろしく千束」
実際には誰も死んでなくて、リコリコには新しい仲間が加わることになったのだった。