桜の季節が終わりを迎え始め、花弁が舞い散る四月の昼下がり。
平日なのもあって人影もまばらな公園をのんびり歩き、隣にある病院を目指す。
「平和なもんだね……」
見慣れた退屈な風景に一言漏らして目当ての病院に目を向けると、ずらりと並ぶ病室の窓の一角から滲み出る黒い靄が見えた。
お楽しみの時間を予期して心が躍り、僅かに口角が上がる。
足早に公園を通り抜け病院に入り、エレベーターに乗り込んだ。
この病院は地元の有力な議員だかの働きかけで腕の良い医者が集められ、高級な設備も整っていて高度な医療が受けられると評判だ。
靄の見えた階に上がり、廊下に漏れ出す黒い靄を目印に病室を目指していると、病室の扉が開き一人の男が出て来た。
高そうなスーツに強面の顔からしてヤクザだろうか。
室内に向かって二言三言やり取りをし、一礼して立ち去ろうとした男に息を止めて近づき、そのまま隣をすり抜け病室に入り込んだ。
視界の外で息を止めないといけないという条件はあるが、こうして息を止めている間はアタシのことを廊下に落ちた糸屑程も気に留めないので、特に咎められることもない。
「こんにちは!」
個室だからかイヤホンも着けず、ベッドに寝転んでテレビを見ているおっさんに明るい笑顔で声をかける。
大きな外傷は見当たらないし、入院の理由は病気で間違いなさそうだ。
「ァン……? なんだ嬢ちゃん、いつの間に入ってきた? 部屋ぁ間違えたか?」
さっき部屋から出て行った男に劣らず、このおっさんも結構な強面だけど、意外に優しい声でアタシに問いかける。
「ううん、私ね、おじさんに大事な用があって来たの。あのね、おじさん……あなたもうすぐ死ぬよ、長く持って十日ぐらい」
「……あぁ、そう言うのは間に合ってるぞ。ガラクタなんざ買う気はねえし、俺は真っ当な医者の方を信じるんでな」
トンデモ治療法やインチキ御利益アイテムを売り付けに来たと思ったのか、おっさんは露骨に面倒臭そうに返事をした。
大病を患った人間の弱みに付け込んで、懐を潤わせようとする連中の相手にうんざりしているんだろう。
「んーん、そんなんじゃないよ、私は人間で言うとこの死神とか悪魔みたいなものかな。名前は無いから好きに呼んでね」
「ハァ……嬢ちゃん、あんまり大人をからかっちゃいかんぞ。俺が怒る前にそろそろ帰りな、こう見えて大っぴらに言える仕事やってる人間じゃないからな、父さん母さんに迷惑がかかるぞ」
大きくため息をついたおっさんの声に段々と怒りがこもってくる。
自分が死ぬのを予告されたことじゃなく、鬱陶しいガキにイライラしてるだけだろうということは見て取れる。
アタシの見た目は十代半ばぐらいで、腰の辺りまで伸びた髪に服装は黒いワンピースと、パッと見はどこにでもいる中高生だ。
真っ平な胸と低い背のせいか、たまに小学生呼ばわりされることもあるけど。
大多数の人間が想像する死神や悪魔とは程遠い姿をした小娘がこんなことを言えば、ただの痛い奴か頭が可哀想な奴のどちらかと思われるのが関の山だ。
もっとも髪や眉毛が真っ白だから、そこだけは普通の子供とは少しだけ違うけど。
「冗談言ってるわけじゃないよ、さっき出て行った人とすれ違ってこの部屋に入ったけど二人とも気付かなかったでしょ?」
ベッドの隣の見舞い用の果物が置かれたテーブルに近付き、果物ナイフを手に取った。
「すぐには信じられないだろうし、私が人間じゃない証拠見せてあげる」
ナイフで左手の小指を切り落とし、薬指、中指、人差指と順に切り落としていく。
切断した指が転がり、断面から滴り落ちた血が小さな赤い水溜まりを作る。
少し間を置いて、床に落ちた指と血溜まりは石膏のように白く変色し、砂のようにサラサラと崩れてから煙のように空気に溶けて消えた。
「どお? これで信じてもらえる?」
「面白い手品だな、タケに呼ばれたのか?しょうもねえことしやがる」
「さっき出て行った人? あの人は関係ないよ。それよりまだ信じてくれないの? 痛くないわけじゃないんだけどなー」
断面をしっかりと見せ付けたが、おっさんは顔色一つ変えることなく鼻で笑った。
おっさんの薄い反応を不満に思いながら左手を軽く一振りすると、切り落とした指は全て元に戻った。
「それじゃ……これならどうかな」
ナイフを振り下ろし、おっさんの太腿に軽く突き刺した。
呻き声の一つでも上げると思ったけど平然としてるな、つまんねーの。
「わーすごーい、全然痛がらないのね。やっぱり映画みたいに刀で斬られたり銃で撃たれたりしてるの? これぐらい平気なのも納得ね」
「嬢ちゃん、ちぃとイタズラが過ぎたな」
不満は表に出さず明るく感心して見せると、おっさんは点滴の管を引き抜きナイフが刺さったまま立ち上がった。
「仕置きだ、歯ぁ食いしばりな」
おっさんは踏み込みながらアタシの顔を目掛け拳を一気に振り抜く。
しかし、バチンと音を立てておっさんの拳はアタシの掌に収まった。
「ぬぅっ……!」
おっさんは目を見開き小さく呻いた。
自分の半分ほども無い細い腕の小娘に片手で拳を止められて、流石に少しは驚いたようだ。
おっさんが腕を引こうとしたところで拳を掴むと、すかさず左の拳が飛んできたが、そちらも受け止め握り込んで動きを封じた。
「落ち着いてよおじさん、ちゃんと治してあげるから」
次に蹴りが来る事を予測して両足を踏み付け、おっさんを無理矢理ベッドに座らせ、腿に刺したナイフを引き抜き傷に手を触れた。
数秒ほどして手を離すとおっさんの傷は消え、代わりにアタシの掌から手の甲まで貫通する刺し傷が出来た。
「はい、もう痛くないでしょ? これで信じてくれるかな?」
おっさんの目の前に手を差し出し、アタシの手の傷が消える様を見せつけた。
「……どうなってやがる。嬢ちゃんナニモンだ」
互いの傷があった位置を何度か見比べ、おっさんは呻くように言った。
「だから言ったじゃない、死神とか悪魔みたいなものだって」
「……ハッ、じゃあその死神が何をしに来た? 俺の魂でも取りに来たのか? そんなに価値が有るとも思えんがな」
「ううん、魂なんて取らないよ。私ね、おじさんの願いを一つだけ叶えてあげに来たの」
「そいつぁ有難いこった。で? 魂を取らないなら何が欲しい? 悪魔がタダで願いを聞いてくれるなんて旨い話は無いだろう」
アタシが死神や悪魔の類ってのは大分信じてきてるみたいだけど、願い事に関してはまだ懐疑的なようだ。
「残りの寿命から一日だけ対価に貰うよ。余命が十日だったら九日になるし、残り一日だったら願いが叶ったらすぐ死んじゃうけど」
「そりゃ安いもんだな、倍を払ってやってもいいぐらいだ」
「そうだ、折角だしあと十日以内に死ぬってどんな気持ちかだけ教えてくれない?」
「別に死ぬのは怖くねえな。今までに死ぬような目に遭ってきのは一度や二度じゃねえ」
おっさんは鼻で笑い余裕をかましてるが内心はどうだろうな。
これまでに見てきた靄の出る人間も、大抵はこんな風に事も無げに構えていた。
死ぬ寸前でも少しでも見栄を張って大物ぶりたいんだろうか。
それとも願いを叶えてやると言ったから、もう病気を治した気になってるのか。
「へぇー、じゃあさ、今までやってきたお仕事のことも教えて貰えない? おじさんヤクザなんでしょ? 何人殺したとか、どんな恐い取り立てしたかとか色々!」
「……何のためにそんなことを聞く」
おっさんの目に強い警戒の色が宿り、射抜くような視線をこちらに向けた。
「そういう話を聞くのが大好きなの。心配しなくてもお巡りさんに告げ口なんてしないよ」
「……まあいいだろう。死神や悪魔を名乗るだけあって良い性格してやがるな」
断ればアタシが心変わりして願いを聞いて貰えないと思ったのだろうか、おっさんは訥々と自らの悪事を語り始めた。
最初に殺した人間の事から始まり、抗争で殺した人間や借金のカタに売り飛ばした女子供や臓器売買等、どこかで聞いたような話だ。
はー、本当にそんなことやってんだな。話盛ってんじゃねえのか。
最初は特に面白くも無さそうに話していたが、大袈裟に相槌を打ったり喜んだ振りをしていると、少しずつ気分が乗ってきたのか饒舌に語るようになった。
「……昔は良かったなぁ」
楽し気な昔語りが途切れて、古き良き時代を懐かしむ様に、不意に寂しげな表情を見せた。
クソ犯罪者の分際で、何を感傷に浸ってんだか。
やっぱりこいつは筋金入りの悪党だな、欠片も同情できる人間じゃない。
「成程ねー、興味深い御話聞かせてくれてありがと。あんまり長居しても悪いし、そろそろ始めましょうか……ここでいいかな」
ナイフで手首を切り、ベッドのシーツに血の手形を付けた。
「これは契約書って言うか、手続きの書類みたいな物かな。この手形に手を重ねて願いを声に出して言ってみて」
「……願い事は何でもいいのか?」
「もちろん、死ぬことが決まってる人の願い事なら何でもいいよ。億万長者にだってなれるよ」
傷を治してみせたし、おっさんの中で考えも固まってるだろう。
傷跡だらけのごつい手を手形の上に置き、おっさんは意を決して呟いた。
「俺の癌を治してくれ」
よっしゃ狙い通り。
ま、病気で死にかけてる人間の願いなんて一つしかないだろうけどね。
「これでいいのか? 何も起きんが」
「焦らない焦らない」
疑いの視線を投げかけるおっさんの手を手形の上からどけると、シーツから赤い手が浮かび上がり這い出て来たが、どす黒く変色して粉々に砕けて消え失せた。
「あらら、ざぁんねん! 貴方の願いは叶いませんでした!」
「……どういう事だ」
おどけて言うと、おっさんはワナワナと震えながら唸った。
怒りの原因は癌が治らなかったことか、それともこんなガキの言う事を真に受けて間抜けを晒してしまったことか、あるいは両方か。
「んとね、さっきも言った通り、おじさんが死ぬのはもう決まってる事だから病気は治らないのよね。あくまでおじさんが死ぬのが前提の願いしか叶わないよ。私が刺した傷を治したから病気も治せるとでも思っちゃった? 誤解させちゃってゴメンねぇ。まあ、どんな願い事も絶対叶うなんて言ってないしぃ」
「何でそれを先に言わねえ、ハナっから俺をコケにするつもりで来たのか」
「人聞きの悪いこと言わないでよ、他の願い事だったら叶ってたよ。まあいいじゃない、願いが叶わなかったから対価は取らないからさ。寿命が一日減るところをフルに生きられると思えば得した気分になるでしょ? 発想の転換ってやつね。そもそもさ、死神に命を助けてくれって言うのが間違ってると思わない?」
アタシが言い終わったところで、おっさんがベッドから立ち上がった。
叩き潰した蚊を見るような冷酷な眼差しを向け、感情を面に出さないようにしているが、その眼の奥には確かな怒りの炎が見える。
「もういい、お前ぐらいのガキを高値で買う奴は幾らでもいる。極道を甘く見たツケは高くつくぞ」
「そんなに大人しく捕まると思う? それに腕力で勝てないのはさっきので分かってるでしょ?」
「今度は加減せん」
「へぇー手加減してくれてたんだ、やっさし~い」
アタシの小馬鹿にした物言いに眉をピクリと動かし、おっさんは再び踏み込みながら拳を放ってきた。
さっきよりキレが増しているあたり、手加減してたってのはハッタリじゃなかったみたいだ。
しかし、殴りかかってきたおっさんの手首を掴み、捻り上げて床に引きずり倒す。
胸を打ち付けて肺の空気を圧し出されたおっさんが、カエルが潰れるような声を漏らした。
「本気出してもこんなもんなんだね、ダッサ。ねえ、一回りも二回りもちっさい小娘に腕っぷしで負けた上に床に這いつくばらされるのはどんな気持ち? さっき出てった人が見たらどう思うかな~?」
おっさんがギリギリと歯軋りする音が聞こえる。いい気味だ。
「ねえおっさん、アンタの周りに黒い靄が見えるんだけどね、これが出るのって死期が近くて他人から恨みを買ってる人間だけなんだよ」
下手に暴れりゃ腕が折れるのに、おっさんは尚も抵抗しようとする。根性あるなー。
「さっき聞いた話の通り、滅茶苦茶やってるだけあって結構な人数から恨まれてるね。今でもアンタを殺したいと思ってるのが大勢いそう」
「それがどうした……そんなもんが怖くて極道やってられっか」
「ヤクザのプライドってやつ? それで今まで何人も殺したり、何人も売り飛ばしたんでしょ? そんな悪党が都合よく病気を治して生き延びられると思う?」
腕が折れる寸前まで捻り上げて話を続ける。
「癌って苦しいんでしょ? もうすぐ死ぬことを考えたら末期癌だよね? 医者も匙を投げる病気が治るかもって少しでも希望持っちゃった?」
「テメエ……」
「さっきは死ぬのは怖くないなんて言ってたけど、改めて癌で死ぬって思い知った今はどう? 苦しい病気から解放されるかと一瞬でも思ったのに、ハシゴを外されたのはどんな気分? 悲しい? 悔しい? でもアンタのせいでもっと辛い思いをした人は大勢いるよ?」
余命十日の気分を聞いたのはこのためだ。
余裕をかましてた悪党が、やっぱり助からないと知った時の絶望した表情を見るのが何より楽しい。
「誰に雇われたか知らんが、いたぶったところで命乞いなんかせんぞ。殺すつもりならさっさとやれ」
「誰からも頼まれてないし、アタシが殺さなくてもほっときゃ死ぬじゃん」
「……なら何が狙いだ」
「別に何も。病気で苦しむって言っても、アンタが地獄に落とした人の苦しみを半分も味わわずに死ぬのが何か気に入らないからさ。ほんの少しだけ嫌―な気分になって貰おうと思って……ねっ」
おっさんの腕を思い切り捻って圧し折って立ち上がり、脇腹に蹴りを入れて窓に向かう。
振り返るとおっさんは立ち上がり、怒りに燃えた目でこちらを睨みながら追い縋ろうとしていた。
「ここは五階だぞ、逃げられると思ってんのか」
「はあ? 逃げる? 用が済んだから帰るだけだよ? てか、まだやるつもり? もう片っぽの腕と両脚も折ってあげようか?」
「やってみろ!」
おっさんが吼えて左腕で掴みかかってきたが、軽く避けて顎を蹴り上げてやると無様に倒れ込んだ。
「それじゃ御望み通りに」
おっさんに近付き右、左と順に脛の骨を踏み折った。
しかし腕も脚も折ったのに全く痛がらないな、このおっさん本当に人間か。
「あとは左腕だけだね」
「……さっさとやれ」
おっさんの顔を覗き込みながら声をかけると、覚悟を決めたのか険しい顔で吐き捨てるように言った。
命乞いでもすれば左腕も圧し折って、もっと楽しめたんだけどな。
「うーん、そうねえ……」
このまま腕を折っても楽しい反応は無さそうだし、しばし思案して一つの案が浮かんだ。
先程の果物ナイフを手に取り、再び手首を切って血の手形を床に付けた。
「おっさんのガッツに免じて、もう一回チャンスあげるよ。手形に手を乗せて願えば折れた骨は治るよ」
「今更怖気づいたか? 命だけは助けてやろうと思ってたが、御機嫌取りしたところでテメエは殺す」
おっさんは床に転がったまま凄むが、碌に身動きの取れない状態では情けない虚勢でしかない。
これだけ実力差を見せつけてやって腕と脚も折れてるのに、まだ勝ち目が有ると思ってるのかね。
「そんなザマで出来るもんならお好きにどうぞ。それより骨折治さないの? もうすぐ死ぬって言っても手足が使えないと不便でしょ? それとも死ぬまで骨が折れたまま過ごす? さっきのタケって人や看護婦に、どんな言い訳するの?」
「この……クソガキが……! テメエなんぞに頭を下げるような真似が出来るか!」
アタシの挑発におっさんは更に怒りを募らせ睨み付ける。
骨折を治したとしても、自分を叩きのめしたガキにむざむざと従うことになるし、治さなかったとしても痛みと屈辱に苛まれることだろう。
どちらに転んでもおっさんのプライドはボロボロだ。
「嫌なら別にいいよ、アタシは何も困らないし。あんまり時間が経つと手形は消えちゃうから、考え直すなら早めにね。それじゃお大事にぃ~」
言い終えて病室の窓を開け、下に通行人がいないことを確認し外に身を躍らせた。
風を切る心地良い音を聞きながら、落下に伴う浮遊感を楽しむ。
足が地面に触れると肉が裂け骨が飛び出し、腰の辺りまでが爆ぜて血が飛び散る音が周囲に響いた。
おお、グロいグロい。やっぱり綺麗に着地は出来ねーな。
首を落としても心臓を潰しても死ぬことはないが、身体の脆さは並の人間と大差無いのが良し悪しだ。
グズグズに潰れた下半身は数秒で元に戻り、周囲に散らばった血や肉片は白く変色し崩れて消えた。
これだけ酷い損傷も動画をシークバーでスキップするかのように、治癒の過程を挟まず瞬時に元通りだ。
地面から立ち上がり上を見上げると、おっさんが窓から顔を出しこちらを見下ろしていた。
あれだけ強がってたのに、腕と脚は治したのか。アタシが見てないところで願い事をすればセーフってことなのかね。
大物ぶったところで、人間なんざ所詮その程度のセコイやつばかりなんだろうな。
「ばいばーい」
聞こえやしないだろうが、おっさんに別れを告げ笑顔で手を振った。
アタシがグチャグチャになるグロシーンなんざ大したダメージにはならないだろうけど、精々残り僅かな人生を嫌な気分で過ごすといいさ。
もうおっさんに用は無いので、上機嫌で立ち去った。
いやー、やっぱ悪党をおちょくるのは楽しいわ。
犠牲者に代わって恨みを晴らすだとか、誰も裁けぬ悪党に正義の鉄槌を下すなんて御大層なことを言うつもりは欠片も無い。
ただ人を食い物にしたり命を軽んじてた連中が、いざ自分が死ぬ番が来た時に生にしがみ付こうとする惨めな姿を見るのが好きなだけだ。
散々悪事を働いておいて、色々あったけど良い人生だったみたいに気分良く死なれるのも何となく気に入らない。
実際苦しめて殺す訳でもなく、死ぬまでの極短い間にほんのちょっと嫌がらせする程度だしね。
「さて次は何すっかな」
病院の外周をのんびり歩き他の病棟を眺めて回ると、さっきのヤクザのおっさんとは別の部屋に黒い靄が見つかった。
公園からは見えなかった位置だ。
大きい病院だけあって患者数も多く、死期が近い者も多い。
人間生きていれば大なり小なり恨みは買うものだが、さっきのおっさんや今見つけた靄ほどの濃さは頻繁にあるものじゃない。
一日に二つも見つかることは今までに一度もなかったが、珍しいこともあるもんだ。
これはもう一度楽しめるな。
エレベーターに乗り込み靄の見えた階のボタンを押し、しばし待つ。
扉が閉じる直前、さっきのヤクザのおっさんが早足で病院の外に向かうのが見えた。
アタシを追いかけるつもりか。無駄足ご苦労さん。
おっさんの血相に思わず含み笑いをしていると、エレベーターが目当ての階に到着した。
病室の入り口の横のネームプレートには『
女か、一体どんな性悪クソババアなのやら。
しかしアタシの想像に反して、部屋の中に居たのは高校生ぐらいの女だった。
この部屋に遊びに来ている患者友達とかが靄の発生源なんじゃないかと見回すが、やっぱり他には誰もいない。
うわーマジかこいつ、この年でこれだけ恨み買うって一体何やらかしたんだ。
アタシの困惑など知る由もなく、麻倉はベッドの上でタブレットをいじるのに没頭してる。
タッチペンを持った手の動きからして絵でも描いているんだろうか。
まあ何でもいいや、いつも通りのことをやらせてもらうだけだ。
「こんにちは!」
さっきのヤクザの時と同じく明るい笑顔で声をかけた。
麻倉はビクッと体を震わせ顔を上げて驚いた表情で固まり、お互いに見つめ合う形になった。
髪はショートで結構整った顔立ちをしてるが、病気のせいか顔色は悪く髪は色艶が無くパサついてる。
「あれ? もしもーし」
反応が無いので麻倉の目の前で手を振るとハッとして返事した。
「あっ……ごめんなさい、ちょっとびっくりしちゃって。えっと……どちら様? いつの間に入って来たの?」
「私はね、死神とか悪魔とかそういった類のモノよ」
「死神……ってことは、わたし死ぬの?」
こいつから見れば、無断で部屋に忍び込んだ得体の知れない不審者でしかない筈だが、何故かほっとしたような顔で問いかけてくる。
大抵の人間は正気を疑う視線を向けてくるけど、こいつは今までにないパターンだな。
「うん、気の毒だけど……。けど今すぐじゃないよ、正確には分からないけど長く持って十日ぐらいかな」
「うーん、そっかあ……十日かあ」
麻倉はやや沈んだ声で呟いた。
そりゃ余命十日なんて言われたら良い気分ではないだろうね。
「教えてくれてありがとう。わざわざそれだけのために来てくれたの?」
こちらに笑顔を向ける麻倉を見て、思わず頭を抱えそうになった。
アンタ死ぬよって伝えて礼を言われたのなんて初めてだわ。
てか何で少しも疑わないんだ、なんか調子狂うなこいつ。
「ううん、貴方が死ぬ前に一つだけ願い事を叶えてあげようと思って」
ペースを乱されて言葉に詰まりそうになったが、気を取り直して当初の目的を伝えた。
「願い事……? あっ、引き換えに魂を貰うってやつ?」
「魂なんて取らないよ、残りの寿命から一日だけ貰うけどね。けど十日以内に死ぬって言ってもあんまり驚かないのね、どうして?」
「んー……わたし、生まれ付きの病気があって、長生きは出来ないって昔から言われてたから……」
麻倉は力なく笑いながら言った。
長生き出来ないと言われていたとしても、遊びたい盛りのこの年でそんなに簡単に割り切れるものなんだろうか。
「そっか……じゃあ悔いを残さないように遠慮なく言ってね」
「ありがと……優しいのね。じゃあ早速お願いしていい?」
いや、疑え……少しは疑え!
自分で言うのもなんだが、なんでこんな胡散臭い話をあっさり信じてんだ。
話が早くていいけど調子狂うんだよ!
「えーっと、それじゃ……」
手首を噛み切り、掌に血を広げてシーツに手形を付けた。
「何してるの!? 大変、手当てしなきゃ!」
「大丈夫よ、すぐ治るから」
慌ててナースコールをしようとする麻倉を制止して、傷が塞がる様を見せた。
結構な人数から恨まれてる割に、随分と些細なことで慌てるんだな。
手形を付ける時の傷を気にする奴なんて今までに一人もいなかったが。
そう思うと、こんな御人好しが本当に大勢から恨みを買ってるのかと疑問が湧いてきた。
何よりも、この若さでそれだけのことをやらかすのも難しいんじゃないかとも思う。
けれど、今まで見てきた連中のことを思い起こせばこいつも恨まれてる筈だけど……何か思い違いをしているんだろうか?
――やめやめ。
どの道こいつが死ぬことに変わりはない。
アタシにはどうにも出来ないし、考えるだけ無駄だ。
こいつの靄の原因を探るのは願い事を聞いた後でもいいや。
「すごい……どうなってるの? 痛くないの?」
「死神とか悪魔の類って言ったじゃない、全然平気よ。多分人間とは痛みの感じ方が違うんでしょうね。それよりも、この手形の上に手を乗せて願い事を言ってみて」
「あ……うん、でも看護師さんがこれ見たらびっくりしそうね」
シーツに付けた手形をまじまじと見ながら、麻倉が不安そうに漏らした。
「事が済めば消えて無くなるから大丈夫よ。さ、早くやっちゃいましょ」
「なんだか本当に悪魔と契約するみたいね……。願い事は何でもいいの?」
「もちろん。もうすぐ死ぬ人の願いなら何でもいいよ」
「じゃあ……わたしの……」
言いかけて手形から手を離し、不安げな表情をこちらに向けた。
「ちょっと待って……変な願い事だからって怒ったりしない?」
「怒らないよ」
病気を治せとか健康な身体にしてくれとか、だろ? 勿体ぶることでもないだろうに。
自分の死を伝えに来た死神に頼んで延命するのはルール違反とでも思ったんだろうか。
こちらとしてはそれを期待してるんだけどな。
「すー、はー、すー、はー。……よし……じゃあ言うね」
麻倉は深呼吸して、まるで一大決心をしたかのような真剣な表情になった。
「どうぞ」
「……本当に怒らないでね?」
やばい、だんだん面倒臭くなってきた。
返事をするのも億劫になったので、無言の営業スマイルで頷いた。
「わたしの……」
言いかけたところで暫くの沈黙。
手形に手を乗せたまま、時折こちらを不安げにチラチラと見てくる。
ああもう面倒臭えな、と思っていると再び麻倉が口を開いた。
「わたしの……恋人になってください!!!」
うんうん、そう来ると思……うん?
あるぇ? 聞き間違いか?
「えっ? 今なんて言った?」
「えっと……その……わたしの恋人に……なってください……」
さっきまで青かった顔を僅かに赤らめ、麻倉は再び言葉を発した。
最後の方はボソボソと小さい声で聞き取り難かったが、聞き間違いじゃなかったようだ。
ははぁ、成程ね。
いやあ、そう来るとは欠片も予想してなかったわ。こいつは驚いたぜ、あっはっは。
「いや、待て待て、ふざけんな! 今のナシ!」
頭が理解するのを拒否して現実逃避しそうになったが、意識を強引に引き戻し慌てて麻倉の手を退けた。
だが時すでに遅く、シーツから飛び出した赤い手が麻倉の手を掴んだ。