視界は闇の中で全身が怠く、吐き気がする。
縫い付けられたかのように重い瞼をこじ開けて、目を動かして周囲の様子を見ると、そこは見覚えのある部屋――真依が入院していた病室の椅子の上で、ベッドの上で眠っている真依に突っ伏したまま、手を握り締めていた。
どうなってんだ? 今までの二十年近い出来事は夢だったのか?
体を起こそうとすると全身に激痛が走り、椅子から崩れ落ちそうになるのをベッドに縋り付いて堪えようとしたが、耐え切れずに床に転がった。
顔がズキズキと痛み、腹と胸から血が流れだし、喉の奥からもごぼごぼと音を立てて血が溢れだした。
ああくそ、夢なのはこっちか。
死ぬ寸前に往生際悪く、思い出にでも浸ろうとしてるんだろうか。
「死ぬ前に見てる夢じゃないし、間違いなく一回死んだよ。でも、じきに傷も治って目が覚めるから安心して」
言葉を発していないのに考えを読んだのか、真依はベッドの上から身を乗り出し、アタシの疑問に答えた。
色々と問い質したいが、全身を襲う苦痛に阻まれて、口を動かすことが出来ない。
アタシは葵のためにも死ぬべきなんだ、このまま死なせてくれよ。
「葵、葵って、他の子の事が随分と気になるのね。もう死んじゃった私のことは、興味失くしちゃった? 葬式の時も、集まった親戚を殺して仇を討ってくれなかったしさ」
――真依も本当は復讐を望んでいたんじゃないか。
これまでに何度も頭に浮かんでは、ただのエゴだと打ち消していたことが、呆れた様な笑みを浮かべた真依の口から飛び出した。
いや違う、こいつは真依じゃない。あの御人好しがこんなことを言う筈が無い。
大方、集落の連中に殺された奴らの怨念が手を変えて、アタシが人間を殺すように仕向けているんだろう。
「どうしてそう思うの? ほんの十日足らずを一緒に過ごしただけで、何が分かるの? 私をいじめてた子達も、お見合いの相手の人のことも、本当はずっと恨み続けてて、探し出して殺して欲しかったのかもしれないのに」
真依の姿をした"それ"は嘲る様な笑みを崩すことなく、好き放題言い続ける。
真依のことを貶められているようで怒りが湧くが、未だに指一本すら動かすことが出来ない。
そもそも、どうやって探し出せってんだ。
「そんなの簡単じゃない。手当たり次第に殺していけば、いつかは当たりを引くでしょ。それに、沢山殺して力を付ければ、直接手を触れずに人間をバラバラにしたり、半日ぐらいで町一つを血の海に沈めたり出来るようになるのに、どうして我慢してるの? 勿体無いと思わない?」
街中の人間を片っ端から殺して回ることが頭に過ぎり、こいつの申し出が途轍もなく魅力的に思えて、一瞬だけ心が躍った。
葵たちと過ごすことで何年も気を紛らわせて誤魔化してきたが、やはり本能には逆らえないのか。
――クソが、ふざけんなよ。
アタシを作り出した生みの親なのか知らないが、こんな奴らの言いなりになって堪るかよ。
「生みの親? そんなのじゃないよ、貴女の体に付いた、小さい傷跡みたいなものかな」
アタシが疑問に思うより早く、そいつは面白そうに語り始めた。
曰く、アタシはかなりの昔からあの山に棲み付いた物の怪の類で、山の中で道に迷ったり怪我をした者を助けていたことから、集落の連中から土地神として祀られていたそうだ。
ちょっとした傷を治せるのも、その時の名残らしいが……アタシが人助けとか、質の悪い冗談にしか思えない。
だが、集落の連中が殺人を始め、怒りと恨みに染まった血で土地を穢されたせいで、今の状態に変質してしまったのだと言う。
こいつが言っていることが仮に事実だとしても、何でそんな事を知ってんだ。
「私達が取り込まれた時に、記憶を少し覗き見たのよ。貴女の記憶が消える前にね。あの人殺し達の親玉も、子供の頃に山の中で怪我して泣いてるのを、貴女が助けてあげたんだよ。覚えてないだろうけど、余計なことしちゃったね」
暫し間を空けて、おかげで大勢の人が殺されちゃったし、と続けた。
アタシのせいだとでも言いたいのか。
「何十年も離れたから土地との繋がりも断たれてて、もう元には戻れないんだし、思う存分殺しちゃおうよ。私が成仏できないのも恨みが晴れないからだし、人助けとでも思ってさ。ねえ、いいでしょ? どうせ、それしか能が無いんだし」
自覚はしていた積もりだったが、真依の顔と声から発された最後の一言で、奈落の底に突き落とされたような気分になった。
こいつは真依じゃないと分かっている筈なのに、全身を苛む痛みも相まって、段々と意思が揺らいでくる。
「そもそも、一人も殺したことが無いのに、自分は死神だって粋がるのも馬鹿みたいじゃない? いつまでそんな半端者でいる気なの? ほら、最初に殺すのに丁度いいのがいるよ」
その言葉を合図にしたように、床に広がった血溜まりから多数の赤い手が伸びてきた。
無数に湧き出る赤い手が幾重にも重なり、繭の様に全身を包まれて視界は赤黒く染まり、それに合わせて痛みが引き始め、吐き気が段々と増してきた。
時間にしてほんの数秒ぐらいだろうか、痛みが完全に消えて、体も自由を取り戻してきた。
だが、頭の中は黒い感情が渦巻いている。
吐き気が収まらないまま目を開くと、距離にして10メートル程度だろうか、ぼやける視界の向こうの地面に、黒い靄の立ち昇る誰かが転がっているのが見えた。
まさか葵だろうかと確かめに行こうとしたところで、聞き覚えのある声の啜り泣きが耳に届き、背後から葵に抱きしめられていることに気付いた。
「ねえ、起きて、起きてってば……お願いだから……」
少しずつ周囲の様子が鮮明になり、地面を引きずった跡と幾つかの血痕、その先に倒れ伏すホストが見て取れた。
アタシをしっかりと抱きしめる葵の手は、血に塗れている。
「うぷっ。……うぇっ……ゲボッ!」
吐き気を堪え切れず、喉の奥から肺と胃の底まで溜まった血を吐き出した。
それでもまだ吐き気が治まらず、えずき続けていると、頭の天辺から爪先まで、全身の内側にブチブチと引き千切るような感触と痛みが走った。
耳元で葵から何やら声を掛けられているが、何を言っているのか聞き取ることも出来ず、暫しの間を置いてタールのように黒い塊が、口から勢いよく吐き出された。
塊はよく見ると手の形をしており、踠くように地面を蠢いて、そのままドロリと溶けて地面に黒い染みを作った。
「だっ、大丈夫、なの? 凄い、血が出てて、しっ、死んじゃったかと、思ったよ……」
しゃくり上げながら途切れ途切れに話す葵に向き直ると、既に靄は消えていた。
どうやらアタシが一度死んだからか、呪いは解けたようだ。
――ああ、良かった。これで、こいつを……この手で殺せる。
あれ? 何でこんな事を考えてんだアタシは。
葵の無事に安堵する心と、全く真逆の考えが湧き上がった。
血反吐を吐き尽くして吐き気は治まったが、意識はまだ不明瞭なまま、涙で頬を濡らした葵に向かって手が伸び、首を鷲掴みにした。
葵は息を詰まらせ、驚きに目を見開いた。
はは、嘘みたいに弱いな。
契約を交わしている間は全く敵わなかったが、今じゃ片手で軽々と押さえつける事が出来る。
このままゆっくりと絞め殺すか、気道を潰して踠き苦しむ様を眺めるか、それとも頭と胴体をお別れさせてやるか。
葵を地面に押し倒して馬乗りになり、空いていた左手を首に向かって伸ばしながら、どうやって息の根を止めてやろうかと算段をつけていると、葵の頬にポタポタと紅い雫が落ち、白く変色して消えて行った。
――血だ。
アタシの目から、涙の様に血が流れている。
何だこりゃ、鬱陶しい。
煩わしく思いながら目元を拭うが、血は止めどなく流れ続ける。
もういいや、面倒くせえ。
何度拭いても溢れ続ける血に見切りを付け、再び葵の首に手を伸ばした。
憐れむでもない、ただただ辛く悲しそうな表情の葵が、覚悟を決めた様に目を閉じた。
あっさりと諦めんじゃねえよ。
少しぐらいは抵抗しないと、面白くないだろうがよ。
――いや、違う。そうじゃないだろ。
他の誰を殺すことになっても、葵にだけはこんな事をしたくない。
なのに、意思に反して葵の首に食い込む指の感触に、悦びを感じてしまっている。
――殺したい、いや殺したくない。
骨の砕ける音を聞きたい、飛び散る血飛沫のむせ返る様な香りを嗅ぎたい、苦しみながら息絶える顔が見たい。
頭の中で真逆の考えがぶつかり合い、葵の首に掛かった指が痙攣するように震える。
「わたしはいいから、他の人は殺したりしないで……」
目を閉じたまま、消え入りそうな声の葵の呟きに、消えかけた理性が一瞬だけ引き戻された。
「うぅぅぅ……ぐぅう……ふざけんな! くそが!」
邪念を吹き飛ばす様に声を上げ、左手が葵の首に掛かる寸前で右手首を掴んで圧し折り、指が弛んだところで引き剝がして千切り捨てた。
地面に転がった右手は塵と消え、血の滴る断面を見せる右腕はすぐに復元され、葵から慌てて体を離した。
くそ、くそ、くそ、腹が立つ。
集落の連中に殺された間抜け共が真依の姿をとったことも、奴らの唆しにまんまと乗せられたことも、葵を殺そうとしてしまった自分自身にも心底腹が立つ。
頭を抱えた両手に力を込めて頭蓋や頬骨を砕き、両目を潰したが、やはり死ぬことは出来ないし、元より大した痛みも感じないから何の自罰にもならず、ただただ自責の念だけが積み上がっていく。
「やめて! やめてよ! わたしは平気だから、馬鹿なことしないで!」
震える声の葵が背後から抱き着き、両腕を押さえられた。
葵の腕に包まれた瞬間に僅かに心が鎮まり、平静を取り戻すために食いしばった歯が割れて、口内に血の味が広がり、下手に暴れて葵を傷付けないように両手を組んで握り締め、何度も手の骨を砕いて皮膚を引き千切りながら必死に耐えた。
ほんの数分だろうか、アタシを宥める葵の声を聴き、破裂しそうな程に激しく脈打つ心臓と、脳の芯がじりじりと焼け焦げる様な感覚が、漸く治まりを見せてきた。
「……もう大丈夫だ。それよりごめんな、苦しかっただろ? 頭は変なぶつけ方してないか?」
首に出来た痣を治すべく手を伸ばすと、葵の目に一瞬恐怖の色が見えて体を強張らせた。
今までに一度もアタシに見せた事の無い表情を目の当たりにして、胸が締め付けられて自分の愚行を激しく悔いた。
自業自得とは言え、結構堪えるものがあるな。
「……わたしは大丈夫。それより、何があったの? 戻ってきたら、包丁持ってる人と一緒に血塗れで倒れてるし、生きた心地がしなかったよ」
「ああ、あいつに刺されて一回死んだ」
簡潔な説明に目を丸くして言葉を失った葵に、暫し待つように言ってホストの元に向かった。
倒れ伏したまま全く動かないが、立ち昇る黒い靄から、まだ生きている事が分かる。
よく見ると、右腕と両脚があらぬ方向に曲がっており、左腕だけが無事なようで包丁を握り締めている。
こいつがヤクザだった頃に、左腕以外の四肢を折ったせいだろうか。
なんだよ、それならあんな痛い思いをして、足首を折ってやる必要無かったな。
「残念だったな、どうやらアタシはどうやっても死ねないみてえだ。なあ、殺したはずの奴がピンピンしてて、碌に身動き取れないのは、どんな気分だ? おまけにアンタはもうすぐ死ぬと来たもんだ」
ホストは痛みで喋ることが出来ないのか、震えながら無言で怒りと憎しみの篭った眼差しを向けて来るが、その目には涙が浮かんでいる。
昔のヤクザだった頃に比べて随分と情けないな。
もっとも、人間ではないとは言え、人の形をしたアタシを躊躇無く刺し殺せるあたり、腐った性根は同じなようだ。
「ほれ、復讐を失敗したままってのも哀れだし、チャンスやるよ」
包丁を取り上げて手首を切り、少し離れた位置に血の手形を付けた。
ホストは震えながら手を伸ばし、あと少しで手形に触れるという所で、包丁を手の甲に突き立ててやると、ビクリと体を震わせた。
「おっと、手が滑った。ん? どうした? ほら、さっさと包丁抜いたらどうだ? もう少しなんだし頑張れよ、早くしないと手形が消えちまうぞ」
包丁から手を離すと、ホストは驚愕と絶望が入り交じった、慈悲を求める様な情けない顔をこちらに向けた。
アタシを殺した後に葵を風俗にでも売ろうとしたのか、それとも強姦した後で殺そうとでもしたのか、何を企んでいたのかは知りたくもないが、あいつに手を出そうとした事は、千回殺しても気が収まりそうにない。
だが、こいつを殺しても、ただ苦しみから楽にしてやるだけだと自分に言い聞かせ、止めを刺すべきかと傾く意思に歯止めをかけた。
せめて、こいつが死ぬまでいたぶり続けてやろうかと思案していると、背後から肩を掴まれ強く引かれた。
振り返ると、葵が真っ青な顔で震えていた。
何か言おうとしているが言葉が出ないのか、口を開こうとしては、空気を飲み込む様に噤んでを繰り返している。
少々頭に血が上り過ぎたか、葵の目の前で刃傷沙汰なんざ見せるべきじゃなかったかな。
「気にすんな、つっても無理な話か。もうすぐこいつは死ぬから、見ない方がいいぞ」
葵に忠告してホストの方に視線を戻すと、生木を燃やした煙の様に靄の勢いが増し、全身が靄と化したかの様に空気に溶け込んで、手に刺さった包丁諸共、死体が残ることなく消え去った。
やや離れた位置に、口の開いたスポーツバッグが残されており、昼間に着ていたスーツらしき生地が見えた。
あいつ、態々着替えとか一式を買い揃えたのかよ、ご苦労なこった。
死体が消えたのを見届けて葵に顔を向けると、よろめきながらその場にへたり込んだ。
「ねえ、さっきの人どこに行っちゃったの……? それに、シアちゃんが、しっ……死んだって、どういう事?」
目の焦点が合わないまま言葉を絞り出す葵に、さっきのホストが何者なのか、なぜ死んで死体も消えたのか等々、推測も交えて順を追って説明してやると、ちゃんと理解できているのか疑わしい表情で無言のまま聞き続けた。
「あいつの前世のヤクザは多分、元々生まれ変わる筈の無い人間だったんだよ。契約を果たしたから消えちまったんだろうな。ロスタイムみたいなもんだったんだろ」
死んだ筈のアタシが蘇ったのは、あいつの指から剥がれ落ちた爪と、アタシが吐き出した黒い手から推察するに、恐らくはあいつの残りの寿命を奪い取ったのだろう。
あのクソ野郎の命を食らって生き長らえるなんて、汚物から生まれた穢らわしい生物に寄生されているように思えて、今すぐ腹を裂いて引きずり出したい程に不愉快だ。
「どんなに酷い人でも……あんなことしちゃ、ダメ……だよ……」
「あー、あいつはアンタに手を出そうとしてやがったから、つい頭に来ちまってな。悪かったよ」
まだ何か言いたそうな葵に上辺だけの反省の意を示すと、これ以上は責める気にもなれないようだが……流石に幻滅されたかな。
「それより、アタシの事なんざほっといて逃げろよ、アンタまで刺されたらどうすんだ。それに、アタシが首絞めちまった時も、大人しく殺されようとすんなっつうの。命は大事にしろよ」
「だって、もうすぐ死んじゃうって言うから……。シアちゃん凄く辛そうだったし、それなら少しでも気晴らしになるかなって……」
「馬鹿なこと言うなよ、靄も消えたしアンタは死なないよ」
真依も自分が死ぬことを簡単に受け入れていたが、葵もそれを引き継いでしまったんだろうか。
葵の右手を取り小指の爪を見ると、赤い色は消えていた。
葵が言うには爪と指の間から血が僅かに滴り落ちて、他の指と同じ状態になったそうだ。
予想通りアタシが一度死んだ事で、契約も消えたようだ。
……いや、待てよ。
あのホストの命を奪って生きていることを考えると、もし葵に殺されていたら……。
ほんの一部だけ目論見通りになったが、あと少しで取り返しのつかない事になってたんじゃないのか。
背筋を冷たい汗が一筋流れて、ゾクリと体が震えた。
危うく死なせそうになったり、殺しかけてしまったが、結果オーライという事にしておこう。
そうでも思わないと、やってられねえ。
嫌な考えを頭から打ち消して葵に目を向けると、俯いて地面にへたり込んだままだった。
「……よし、これでアタシも晴れて自由の身だし、お別れだな」
「何……? いきなりどうしちゃったの……? 何でそんなこと言うの……?」
暫し思案して声を掛けると、弾かれたように顔を上げて目を見開き、掠れた声を絞り出した。
「今までは契約に縛られてただけだからな、これ以上はアンタに付き合う義理も無いってことだ」
手をひらひらと振りながら踵を返すと、即座に葵に手首を掴まれた。
振り返って葵を見ると、表情は変わることなく、大粒の涙を目からボロボロと零していて、それを見た瞬間心臓が大きく跳ね上がった。
「っだよ、離せよ。そもそも契約を交わしたのは真依だったからな、アンタはおまけだよ、お・ま・け」
軽く振り払うつもりで手を引くと、葵は地面に倒れ込んだ。
やべっ、力加減間違えたか。膝とか手を擦り剥いてなけりゃいいんだが。
「じゃーな、暗くなる前にさっさと帰れよ」
震えそうになる声と助け起こそうかと逸る心を抑え、地面に蹲って号泣し始めた葵に背を向けて歩き出した。
こうするのが葵のためだと自分に言い聞かせるが、一歩踏み出す度に葵の泣き声が一際大きく聞こえ、前に出そうとする足は重力が何倍にもなっている様に重く感じ、段々と息苦しくなってくる。
本当にこれでいいのか?
「あーーーーー、クソッ!」
頭に生じた迷いを振り払うことが出来ず、立ち止まって頭を掻きむしり、葵のいる場所に引き返した。
「いい年してデカい図体したやつが、ピーピー泣いてんじゃねえよ!」
葵の肩を掴んで起こすと、嘗て見たことがない程に絶望に染まった顔が見て取れ、腹と胸を刺された時を遥かに超える苦しみが湧き起こった。
我ながら何やってんだろな。
もっとやり様があっただろうに、事を焦り過ぎて葵にこんな思いをさせてしまった事に、激しい悔恨の念に包まれた。
「ごめん……ごめんな……」
無言でしゃくり上げる葵が泣き止むまで、ただただ謝ることしか出来なかった。
―――――
泣き止んだ葵を家まで送って行くと申し出て帰路についたが、互いに無言で重苦しい雰囲気が続き、歩く速度も杖を突く老人の様に遅い。
普段ならとっくに家に着いてる筈が、倍以上の時間がかかって日も傾き、真夏なのに薄暗くなり始めている。
息の詰まる様な沈黙をどうにかしたいが、葵に声を掛けるどころか顔すらもまともに見れない。
時折すれ違う通行人が、アタシの血で汚れた葵の服を見てはぎょっとして一瞬立ち止まるが、関わり合いならぬが得策と判断したのか、すぐにそっぽを向いてそそくさと立ち去って行く。
日本人の事なかれ主義のお陰で面倒事にならずに済むが、今の状況を打破する切欠すらも訪れない。
「……ねえ、さっきは何でわざと嫌われるような嘘吐いたの」
取っ掛かりも掴めぬままに葵の家が近付いて来ると、遂に葵が詰問するように口を開いた。
「シアちゃんはさ、演技が下手なのよ……。何年付き合ってると思ってるのよ」
「演技が下手だって言う割には、本気で泣いてたじゃんか」
「嘘でも、好きな人からあんなこと言われたら、ショックに決まってるじゃない。それで、何であんな事言ったの?」
つい口を衝いて出た憎まれ口に葵は怒りもせずに、感情の篭ってない声で尚も問い質してきた。
「っと……その、なんつうか……アタシと一緒にいるよりも、普通の恋愛して、普通に結婚して子供産む人生送った方が良いだろうと思ってさ……。アンタなら良い男捕まえられるだろうし」
正直に本音を話すと、葵の顔は見る見るうちに怒りに染まった。
「はああ!? そんな下らない理由でわたしのこと捨てようとしたの!? て言うか古っ! 古すぎ! いくら昭和生まれのお婆ちゃんって言っても、今の時代にそれは無いでしょ! 信じらんない!」
今までたったの一度も喧嘩をしたことが無かったからか、葵の怒声に気圧されて何も言えなくなってしまった。
こりゃ完全に嫌われちまったかな。
さっきはそれを望んでいたし、その方が好都合なはずなんだが……勢いで押し切れなかったせいで、意思が揺らいでしまったか。
妙に気落ちしながら、急に歩みを早めた葵の後ろを追って、家の前まで辿り着いた。
「……じゃあな」
「ちょっと、今日はうちに泊まる約束でしょ。桃ちゃんだって晩御飯作るって張り切ってたのに」
気まずい空気のまま別れを告げて立ち去ろうとすると、肩を掴まれ引き留められた。
てっきり愛想を尽かされたと思ったが、そうでもないんだろうか。
けど葵は相も変わらず怒り顔のままだ。
グダグダのまま別れるよりも、きっちりと話を付けた方が良いかと思い、渋々ながら承諾すると、葵はやはり怒りの表情のままで当然だとばかりに鼻を鳴らした。
この判断が間違いじゃないことを祈ろう。
しかし紅桃が晩飯作るって言っても、あいつカレーやシチューに、チャーハンだと言い張るベタベタの焼き飯ぐらいしか作れないんだよな。
まだ小学生だし仕方ないのかもしれないが、凡そ失敗しそうにないカレーですら、たまに変なものを入れて残念な出来になったりもする。
「ただいまー」
「おかえりー。遅いよお姉ちゃ……って、どしたのその格好!?」
一抹の不安を抱きながら玄関をくぐり、葵が帰宅を知らせると紅桃が顔を出し、葵の泣き腫らした顔と、血で汚れた服を見て血相を変えた。
「それがさあ、シアちゃんてば転んで鼻血出しちゃってね。死んじゃうんじゃないかって思って、わたしも大慌てしちゃった」
「えぇ……大袈裟過ぎない? それにシアちゃんも、どんな凄い転び方したの? 髪にまで血が付いてるじゃん。痛み止め飲む?」
「いや、血は止まったし痛みも治まったから平気」
言われるまで気付かなかったが、刺された傷が背中まで貫通してたせいだろうか。
こんな有様じゃ、通りすがりが悉く避けていくのも納得だ。
「お風呂湧かしてるから入っちゃえば? その間に晩御飯作っとくからさ。もう少しで完成だし」
「さっすが桃ちゃん、仕事が出来る! 良いお嫁さんになれるよ! それじゃシアちゃん、一緒に入ろ」
「二人とも昔っから仲良いよねー。もしかして付き合ってるの?」
紅桃に頼まれていた材料を渡し、普段通りに振る舞う葵と浴室に向かおうとすると、揶揄いの言葉が掛かった。
「えっ、そうだよ? 知らなかったの?」
不思議そうに言う葵に、紅桃は一瞬呆気にとられた後、呆れ顔でわざとらしく大きな溜息を吐いた。
「そんなこと言ってるから、未だに彼氏の一人も出来ないんだよ。黙ってりゃ美人な方なのに。ただでさえ背が高過ぎて、モテなさそうなのにさ。シアちゃんも、お姉ちゃんが変なこと言ったら、ガツンとやっちゃっていいからね? お姉ちゃんてば、すーぐ調子に乗るんだから」
「ひゃー、怖い怖い」
握り拳を作って脅す紅桃に、怯えるふりをする葵に手を引かれ、逃げるように浴室へ向かった。
何かしら抗議をしようかとも思うが、葵の機嫌が直ったのかも分からないので、相変わらず何も言えないままだ。
悶々としながら服を脱ぐと、葵が露骨に顔色を変えて固まった。
何がそんなに気になるのかと自分の体を見ると、胸から太腿にかけて血がべっとりと付いていた。
「ああ、傷は塞がってるし何ともないよ。刺された時の血が残ったままなだけだな」
そう言えば、服も刺された所に穴が開いたままで、黒い生地で分かりにくいが血も染み付いたままだ。
今までは多少破れたり汚れたりしても、傷と同じく元通りになっていたんだが。
「アタシの服は洗濯しなくてもいいよ」
「汚れちゃってるんだから、ちゃんと洗わないとダメだよ。新しい服も買いに行かなきゃだね」
アタシの服を洗濯機に放り込みながら、葵が穏やかな笑顔で呟いた。
「別にいいよ。っつうか、新しい服買うなら、それ洗濯する必要無くねえか」
「これは、わたしのオカ――お宝コレクションに貰っとくよ。もう着れないし、いいでしょ?」
また碌でもない事を言い出したが、呆れるよりも葵の機嫌が直ったことに少し安堵した。
てっきり妹に険悪な雰囲気を見せないための、空元気かと思ってたが。
葵も着ていた物を全て洗濯機に放り込み、浴室へと入って体の汚れを落として葵が浴槽に体を沈め、アタシもそれに続いた。
いつもの様に葵に寄り掛かると、背中を弾力のある塊に受け止められ、体が押し返されそうになった。
身長もさることながら、こっちもやたらとデカくなりやがったなあ……。
真依にホテルに連れ込まれた時は、思い出すのも嫌な程に無様を晒したが、今ではこうして一緒に風呂に入るのも当たり前になってしまった。
つくづく、慣れと言うものは怖いと実感する。
「ね、さっきは怒鳴っちゃって、ごめんね……」
「ああ、いや、アタシも一人で勝手に決めようとしちまって、悪かったよ」
「シアちゃんがさ、わたしの事を色々考えてくれるのは嬉しいけど……わたしの気持ちも分かって欲しいな……」
アタシの髪を指先で弄びながら、寂しげに呟いた。
「アタシを刺した奴にやった事を見ただろ? それに、もう少しでアンタを殺すとこだったのに、何でそんなにアタシに拘るんだよ」
「うーん……わたしが真依って人だった頃の事は殆ど覚えてないけど、死んだ時の事は結構覚えてるんだよ」
思わず葵の方に顔を向けると、優しく微笑んだ。
「全身が痛くて、息も出来ないぐらい苦しくてさ。シアちゃんが優しく手を握ってくれたら、凄く体が楽になってね。わたしの事を助けようとして、必死になってくれたのはハッキリ覚えてるよ。だから、シアちゃんがとんでもない殺人鬼でも、世界中から追われてる凶悪な犯罪者だとしても、わたしはあなたの事が世界で一番好き」
言い終えると、髪を弄っていた手を離し、背後から抱き締められた。
答えに窮していると、葵の唇が首筋に触れ、抱き締める手が胸と下腹の方へと伸びてきた。
「んっ……やめろよ、今はそんな気分じゃない」
「ちぇ、いつも気分が乗らないって言うじゃん。今日の嫌なこと、忘れさせてくれてもいいじゃん」
葵の手を掴んで引き剥がすと、心底不満そうに口尖らせた。
「そんな雰囲気でもないだろ。それに、あんま長湯してっと紅桃も怪しむぞ。いい加減に上がろうぜ」
返事を待たずに浴槽から出ると、葵は不満を言い続けながらも後に続いた。
体を拭き終わり、葵が棚から出した着替えのTシャツとショートパンツを受け取ったが、体格差が有り過ぎるせいでどちらもブカブカだ。
シャツは裾が膝の上の辺りに来て、袖も肘が収まる上に、ショートパンツは何もしなくてもずり落ちそうになる。
動きにくいと不満を訴えても、彼シャツだと訳の分からんこと言って、全く取り合わない。
紅桃の服を借りようかと言っても、自分の服を着てて欲しいから、それは絶対に駄目だと言って聞かない。
「そだ、この前のメイド服でも着る?」
「まだ持ってたのかよ。捨てちまえ、あんなもん」
以前、葵たちが学校の文化祭でメイド喫茶をやろうとしたが、流石に許可が下りず、制服のままでインスタントコーヒーやスーパーで買った焼き菓子を出す程度の、喫茶店の真似事に留まっていた。
そこに顔を出したアタシなら外部の人間だから問題ないと言い張り、半ば無理矢理着させられた上に客引きパンダまでやらされて、更に普段着がメイド服の変人と言う誤解まで招く羽目になった、苦い苦い思い出だ。
アタシに着せるために態々用意していたらしいが、こいつの悪趣味と無駄な行動力は、真依と変わらないな。
葵の提案を却下して、洗面台の前に立った葵の髪にドライヤーを当て、髪に絡まらないように丁寧にブラシを掛ける。
アタシはほんの数秒で髪が乾くが、人間は不便なもんだ。
鏡に映る葵は、うっとりと目を閉じている。
髪を乾かし終わり居間に向かうと、紅桃の数少ないレパートリーの、カレーの匂いが漂ってきた。
テーブルに着くと、紅桃は待ってましたとばかりに人数分のカレーを皿によそい、千切ったレタスとトマトだけのサラダを並べ、今日の出来事や明日の予定なんかを話しながら、三人揃って食べ始めた。
今回は変な物は入っていないようで、葵も褒めながら食べ続けている。
見え透いた世辞だが、紅桃はどことなく満足気だ。
カレーを食べ終えると、紅桃が冷凍庫から出した大容量のアイスを、器に盛りつけて運んできた。
少々生意気なところもあるが、子供の割に中々に気が利く。
「ふう、ごちそうさま。それじゃお風呂入るから、皿洗いお願いね」
アイスを平らげた紅桃は、そう言い残して浴室へと向かい、アタシと葵は食器を流しに運んで洗い始めた。
アタシが食器を洗って葵に渡し、布巾で拭いてラックへと並べていく。
今までも何度かやった事だが、何故か葵は毎回嬉しそうだ。
「ね、真依って人さ、そんなに酷い扱いされてたの?」
「ん? いや、何だよ急に」
食器を洗い終えて、葵がコップに注いだ麦茶を飲んでいると、突拍子もない質問が飛んできた。
「わたしが家族と仲良くしてて、友達もいるのが凄く恵まれてるみたいな言い方してたから、ちょっと気になっちゃってね」
ああ、商店街の神社で言ったことか。
少し焦り過ぎて、余計なことを口走ってしまったな。
「病気のせいで家族と出掛けたり、友達と遊べなかったってだけだよ。いじめとか虐待とか深刻な問題があったわけじゃないから、安心しな」
ふぅん、と葵は一言漏らし、暫くの沈黙が訪れた。
真依だった頃の記憶が残ってないのは心底安心するが、だからこそアタシが本当のことを言っているのか、疑念が残るんだろうか。
けど、あの頃のことを思い出さずに済むなら、それに越したことはない。
葵は感情を読み取れない表情でテレビを眺めながら、チビチビと麦茶を飲んでいる。
目当ての番組を見るでもなく、ただ何となく点けているテレビからは、どこぞの企業の経営者一族の脱税が発覚したなんてニュースが流れているが、互いに話を振る事もなく無言が続いた。
「はーサッパリした。アイス食べよーっと」
重苦しい空気になりかけたところを、紅桃が打ち破って居間に入ってきた。
「さっき食べたばっかじゃない。太っちゃうよ?」
「いいじゃん、アイスは風呂上がりに食べるのが一番美味しいんだから」
葵の制止も聞かずに、紅桃は美味そうにアイスを食べ始めた。
それを見た葵は、明らかに自分も食べようかと悩んでいる顔だ。
「昼にパフェ食ったんだし、アンタこそ止めとけよ」
「いーなー。あたしもパフェ食べたかったなあ」
紅桃は羨みながらもアイスを美味そうに食べ、釘を刺された葵は無念そうに呻いて、残りの麦茶を飲み干して立ち上がり、諦めが付くように歯を磨いて寝ると言い出した。
まだ9時少し回ったぐらいの、寝るには早い時間なのに、いい年してたかがアイスで何を拗ねてんだか。
「お姉ちゃん、寝るならコップ洗ってよ」
「明日の朝洗うから置いといて」
紅桃の制止に不服そうな声で返す葵に呆れながら、洗面台の前で肩を並べて歯磨きを済ませ、葵の部屋へと向かった。
ドアを開けると、毎度のことだが本棚に飾られたガラスケースに目が行く。
ケースの中身は嘗て晃樹から譲られたぬいぐるみだ。
年月の経過で色は褪せ、解れた箇所を補修した跡があるが、大事に保管されている。
あいつは今頃どうしているかな。
葵と会う様になってからは、真依の墓参りに行かなくなり、晃樹と会うことも無くなった。
10年以上経っているし、結婚して所帯を持っているんだろうか。
葵もそんな普通の人生を送った方が、幸せな筈なんだが……。
ベッドに腰掛け、扇風機の風を心地良さそうに浴びる葵の隣に腰を下ろし、どう別れ話を切り出すか――いや、そもそもそんな話をするべきなのかと思案を巡らせる。
葵の方に顔を向けると、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべているのが見え、更に意思が揺らぎ、葵と離れたくない気持ちが強まって行く。
「ねえ、もしかしてシアちゃんって、あのぬいぐるみをくれた人のことが好きだったの?」
「んぁ? いや、そんな訳ないだろ。あいつはただの知り合いだよ。なんでそう思うんだ」
「よかった、いつもあのぬいぐるみの事を気にしてるから、もしかしたらそうなのかなって思って。じゃあ、わたしのことは? ……やっぱり、真依って人との約束があったから、仕方なく付き合ってくれてたの?」
「馬鹿なこと言うなよ、義務感で付き合う程お人好しじゃないよ」
笑顔を曇らせた、思い詰めた様な葵の問を慌てて否定すると、ふっと安堵に弛んだ。
「ただまあ……年がら年中盛ってるし、所構わずイチャつこうとするし、下品な冗談は多いし、エロ親父みたいなセクハラするし、友達は変人ばっかだし……」
普段から感じていることをつらつらと並べ立てると、その表情は段々と陰りを見せ、終いには完全に落ち込んでしまった。
……少し言い過ぎたかな。
「でも、さっきは良い男捕まえた方が幸せになるだろって言ったけどさ、やっぱり他の人間に取られるのは我慢出来そうにねえや。多分アタシもアンタの事が好き……なんだと思う」
煮え切らない返事にも関わらず、好きという単語に反応したのか、しょげ返った顔が一変して満面の笑みになった。
こういう所も真依と同じだな。
「けどさ、正直言って、それがアタシの本心かが分からないんだ。契約で塗り替えられた意識を引き摺ってるだけで、時間が経つとアンタの事を興味無くしちまうかもしれない。今まではアンタのお陰で一線を越えずに済んだけど、次も抑えられる自信は無いし、もしアンタを手に掛けちまうかもって思うと不安で仕方ないんだ」
伏せていた本心を吐き出すにつれ、葵を殺しかけてしまった自己嫌悪と、あと一歩間違えば葵がこの世にいなかったことの恐怖に、段々と声が震えてきた。
この感情すらも自分の物なのか、それとも作り物なのか、そんなことも判別がつかない自分の不甲斐無さに消えてしまいたくなる。
言い終えてから、やや間を置いて両肩を掴まれ、胸元へと引き寄せられながらベッドに倒れ込んだ。
葵の両腕が頭の後ろに回り、優しく抱きしめられて胸に顔を埋めると、なんだか妙に安心する。
「もし暴れそうになっても、ちゃんと止めてあげるし、わたしに興味が無くなっても、もう一回惚れさせるから大丈夫だよ。むしろそっちの方が、真依って人との続きじゃなくて、わたしの事を本当に好きなってるってことだしね」
「……どこからそんな自信が出てくるんだよ。腕力でもアタシに勝てなくなってるのにさ」
「そりゃ勿論、愛の力よ。真依って人が死んだ時の事、覚えてるって言ったでしょ? 病気は治せないって言ってたけど、病気の苦しみを抑えてくれたし、あの時は昔に戻りかけてたんじゃないかな。だから、いつかは元の優しい山の神様に戻れるんだと思うよ」
相も変わらず、恥ずかしい事を平気で言うやつだ。
記憶を失くす前に戻りたいとは思わないが、アタシに取り憑いた怨念を始末できれば、葵を傷つける恐れも無くなるんだけどな。
「けど、分かってんのか? アタシは年を取らないし死ぬこともない。いずれアンタだけ年取って婆さんになって、先に死ぬんだぞ?」
「なら、老後の介護問題は安心だね。それにわたしが死んだら、生まれ変わったのを探して見付けてくれればいいよ。わたしもシアちゃんの事、絶対に忘れないからさ」
何を言っても引き下がらない所も真依と同じだな。
いや、アタシが毎回流されてるせいもあるのか。
「……本当にアタシでいいのか?」
何を馬鹿なことを聞いてるんだろうか。聞くまでもなく、葵の答えは分かり切っているのに。
何かあった時の責任逃れの、予防線を張っているだけじゃねえか。
葵は無言で体を起こすと、アタシの両肩を掴んで体を離し、首を横に振った。
「シアちゃんでいいんじゃなくて……貴女じゃないと駄目なの」
優しい笑顔を浮かべ、嘗て見たことの無い程に、真剣な眼差しで言い放った。
普段のふざけた調子は微塵も感じさせず、照れ隠しに茶化すこともなく、アタシをじっと見据えたまま目を逸らすこともない。
――ズルイやつだよ、まったく。
「はぁ、分かったよ、アタシの負けだ。ったく、アタシなんかと関わり続けて、地獄に落ちても知らねえぞ」
「それじゃ、これからも末永くよろしくね」
葵の表情がふっと緩み、両肩に置かれた手が背中に回り抱き締められた。
あーあ、こんな筈じゃ……いや、本当は心のどこかで、こうなることを望んでたんだろうな。
ただ、この感情が風化しないことを祈るのみか。
葵は腕を解いて体を離し、ニコリと微笑むと顔が近付いてきて、互いの唇が重なった。
啄む様な動きから、葵の舌が唇の表面を何度かなぞり、口内に侵入してきて舌が絡まった。
歯磨き粉の残り香に混じった甘い匂いが鼻腔に漂い、脳が痺れるような感覚に陥って心臓の鼓動が早さを増し、段々と頭がぼんやりとしてくる。
抵抗しようと思えばできる筈だが、いつもと同じくなすがままにされてしまう。
紅桃もまだ起きてんのにな。
ったく、何が親が居なくて好都合だよ。
互いの荒い息と舌の絡む湿った音が室内に響く中、部屋の外から紅桃の足音が聞こえた。
葵も気付いている筈なのに、少しも気にしていない様子に一瞬だけ不安が過ぎり、このまま紅桃が真っ直ぐ部屋に向かう事を祈るが、段々とそんな事すらも考えられなくなる。
一頻りアタシの口内を蹂躙した葵は、紅桃の部屋のドアが閉まる音が聞こえると同時に顔を離して、ベッドに横になった。
「さ、そろそろ寝よっか。明日は新しい服を買いに行くし、夜更かしは出来ないしね」
「……ふぇ? もう終わりか?」
すっかり出来上がった頭では思考が追い付かず、半ば茫然としながら間抜けな質問をしてしまった。
何でお預けを食らって、不満に思ってるような聞き方してんだ。
「今日は色々あって、ちょっと疲れちゃったし、わたしだって四六時中欲情してる訳じゃないからね。本当は慎み深いんですよーだ。それとも、最後までして欲しい?」
葵はニヤニヤと、意地悪な笑みを浮かべている。
さっき言ったことを、根に持ってやがんな。
「……そんな訳ないだろ。さっさと寝ちまえ、バカ」
体の芯の疼きを気取られぬよう、憮然としながら葵の隣に横になると、クスクスと笑いながら目覚まし時計とスマホのアラームをセットし、枕元に置いてあったリモコンで部屋の明かりを常夜灯に切り替えた。
「おやすみ。わたしが寝てる間に、居なくなったりしないでね」
「おやすみ。どこにも行かないから、心配すんな」
抱き枕の様に抱き締められ、さして間を置かずに寝息を立て始めた。
暫くは穏やかな呼吸が聞こえていたが、やはり暑苦しいのか、少しずつ息が乱れてきた。
葵の腕から抜け出し、扇風機の風が当たり易いように位置を調整すると、少しはマシになったようだ。
季節を考えろよ、まったく。
呆れながら床に腰を下ろし、ベッドに頬杖をついて葵の寝顔を眺める。
「なあ、真依……。アタシを……許してくれるか?」
眠り続ける葵に声を掛けるが、返事が来る筈もない。
……何を馬鹿なことを聞いてるんだろうな。
観念したつもりだったが、やっぱり迷いは晴れず、何年経っても成長しない意志の弱さに嫌気が差す。
葵は寝返りを打ち、しばしば寝苦しそうに呻いていたが、段々とうなされ始めた。
時計を見ると、あと数分で日付が変わるところで、ふと真依が死んだ夜の記憶が蘇った。
――いや、まさかな。
最悪の予感に慄きながら葵の手を握っていると、苦悶の表情はすぐになりを潜めて無事に0時を回った。
ほっと胸を撫で下ろして葵の頭を撫でてやると、眠っているにもかかわらず、僅かに顔が綻んだ。
幸せそうな寝顔を眺めている内に陽が昇り始めたらしく、カーテン越しに外の光が部屋の中に差し込んできた。
暫くすると紅桃が起きたのか、部屋の外から物音が聞こえ始め、葵がセットした目覚ましが鳴りだす前に、扉がノックされて紅桃から声が掛かった。
「二人とも起きてー。朝ご飯出来たよー」
今も眠りこける葵の体を揺すってやや強引に起こすと、ほぼ同時にスマホのアラームと目覚まし時計も鳴り始め、漸く目を覚ました。
「んー、おはよぉ……。はあ、良かった、またシアちゃんの顔を見れた」
「それぐらい、別に喜ぶようなことじゃないだろ」
「んー、色々と少しだけ不安だったからさ。ところで、何か言う事なーい?」
ぽやんとした笑顔の寝惚け眼でアタシを見つめているが、何か言う事なんてあっただろうか。
「もー、鈍いなあ。今日はわたしの18の誕生日だって、昨日も言ったじゃん」
「ああ、そっか。そういやそうだったな、誕生日おめでとう」
「へへ、わたしも大人の仲間入りだし、最初にシアちゃんに祝って欲しかったんだよね」
大人ねえ……図体の大きさに対して、中身の方が伴ってない気もするが。
突っ込みたい気持ちを抑え、紅桃が怒る前に朝食を取ろうと居間に向かった。
テーブルの上にはトーストにハムとチーズを乗せた物と、昨晩と同じサラダが人数分並べられていた。
「はいこれ、シアちゃんの服ね。この前買った、凄い可愛いの出しといたよ」
朝食を終えると、紅桃がしたり顔でジーンズとTシャツを持って来た。
新しい服を買いに行くための服を、紅桃に貸してくれと頼んだが……シャツの前面には三ツ星フレンチと大きく書かれ、警官の格好で'地鶏'と記入された名札を付けた牛が刺身を切り、横の吹き出しには「中華は火力!」という台詞が入っている。
……ナニコレ。
流石にこれを着て外を出歩くのは嫌だと伝えると、解せないといった顔で他の服を持って来たが、先程と同じく奇抜な絵がプリントされている物や、背面に答えも分からん謎のクイズが印刷されている物ばかりだ。
マジで何なんだよ、こいつら姉妹揃ってどういうセンスしてんの?
紅桃の持って来た物を尽く却下して、無地の物をくれと頼み、漸くまともな物を持って来た。
不可解そうな紅桃を尻目に、葵と身支度を整えて家を出た。
昨日と同じく電車に乗って、真依と初めて訪れ、葵と再会した例のショッピングモールへと向かった。
電車を下りて改札を抜けると、昨日は来ていなかった葵の友人が二人と、茶ソバが待ち受けていた。
「来た来た、おはよー。いつもと違う服だと新鮮だねえ。ハチももうすぐ着くと思うよ」
態々こいつらを呼んだのかと葵に尋ねると、どうやら服選びを手伝って貰うつもりらしい。
「葵だけだと趣味全開で、表を歩けないような服を選んじゃうだろうしね。シアはウチの一番の親友だし、友達のためならたとえ火の外水の外よ」
――友達? アタシが? こいつらの本名すら覚えてないのに?
葵がいなければ顔を合わせることも無いし、金魚の糞扱いだと思っていたが。
虚を突かれた気分のアタシを他所に、他の友人たちが自分達の事を茶ソバに詰問し始めた。
「いやあ、みんなも大事な友達だけどさ、やっぱ拳を交えた仲の方が絆は深まるよね。だから、みんなも空手か柔道やんない?」
「じゃあいいや」
「そこまでするのは、流石にちょっと」
茶ソバはしたり顔で提案するが、僅かな逡巡すら無く、そっぽを向かれていた。
毎回断られてるのに、こいつも懲りないな。
「う゛え~ん、みんな酷いよぉ。ねえシアぁ、その腹との境目も分からん胸で、可哀想なウチを慰めておくれよぉ」
汚い声で泣き真似をしながら、両腕を広げてにじり寄ってきた。
葵ほどではないが、アタシよりは背の高い茶ソバの頭を撫でるべく、背伸びして手を伸ばすと、不穏そうに顔色を変えて後退った。
「っちょ、どしたの? あんたそんなキャラじゃないでしょ!? 気色悪っ!」
空を切った手をそのままに何度か瞬きをして、漸く思考が追い付いてくると、あんまりな言い分と、無意味にディスられたことに少し腹が立ってきた。
「……アンタが慰めてくれって言ったんだろが!」
茶ソバの頭を軽く叩こうと手を振るったが、満足気にニヤつきながら上体を反らし、再び手が空を切った。
「なはは、いつもの調子に戻ったみたいね。元気無いから少し心配したよ」
アタシの平手を避けながら、ニヤケ顔に僅かに安堵の色が見えた。
いつもの調子でふざけてるだけかと思ったが、こいつなりに気遣ってくれてるのか。
……いや、本当にそうか?
訝しみながらじゃれ合いを続けていると、ハチ公が到着して一人ずつ順番に抱き着いていき、いつも通りにアタシは抱き上げられた。
「あれ? シアさん昨日より重くなってない? 太った? 服がいつもと違うからかな?」
「けど胸の肉は増えてな……あいたっ」
ハチ公は不可思議そうに首を傾げ、更に揶揄しようと隣に来た茶ソバの腕を、軽く蹴飛ばした。
茶ソバは悔しそうに文句を言い、他の友人から胸いじりをし過ぎるからだと窘められていた……が、アタシみたいに胸の小さいやつをいじるのが、どれだけ酷い事か、そんな血も涙も無い真似をして、恥ずかしくないのかと並べ立てた。
何でフォローする振りをして、追い打ちを掛けに来るんだこいつらは。
本当に、葵の友人は真面なやつがいねえ。
ムカつくから、軽くローキックを食らわせておいた。
「まあまあ、ド突き漫才はそれぐらいにして、早くお買い物行こう。私もエッチな下着買いたいんだよねえ」
恥じらいという物を持ち合わせていないかの様に、ハチ公は能天気にほざきながら歩き始め、茶ソバたちは突飛な物言いにぎょっと目を見開いた。
露骨に目の色を変えた葵を肘で突くと、恍けた表情で明後日の方へと目線を向けた。
そんな代物を買う理由を尋ねると、どうやら昨日の茶ソバのアドバイスを真に受けているようだ。
間違いなく失敗しそうだし、止めておけと忠告しても、あくまで最終手段だと言い張るが……一体それでナニをするつもりなんだ。
いや、やろうとしてることは分かり切ってるが、そこまでしなきゃならん程だと、望み薄なんじゃないのか。
と言うか、中学生相手にそこまでするつもりなのか。
何でそんなに焦っているのかを聞くと、来年は大学に進学して地元を離れ、従兄弟も再来年は高校受験が控えており、次はいつ会えるか分からないと言う事だ。
「上手く行ったら、みんなにも報告するねえ」
すっかり気を取り直した茶ソバたちは、絶対に成功するとか、良い報せを期待してるなんて煽ってやがる。
そんなもん聞きたくも無いんだが、アタシ以外は全員が期待に目を輝かせている。
盆が開けたら、ハチ公のノロケ話を聞かされる羽目になるのか。
まあ、失恋して悲しむ姿を見るよりは、幾らかマシなのかな……なんてことを考えるあたり、アタシを友人と言ってくれるこいつらに、多少は情が移ってしまったか。
真依と出会った頃に比べて、我ながら本当に変わったな。
最初はあいつに僅かな希望を見せて、絶望させて遊ぶだけのつもりだったのに、真依からも葵からも様々な物を与えられっぱなしだ。
雑談しながら隣を歩く葵を一瞥して、手を掴んだ。
「どしたの? シアちゃんから手を繋いでくれるなんて、珍しいね」
「んー、いや、何となくな」
葵は少々目食らっているが、悪い気はしていないようだ。
「おやまあ、まだ昼前だってのに、お熱いこって。恋人繋ぎなんかしちゃってさあ、ただでさえクソ暑いのに、余計に暑くなるじゃん」
「へっ、羨ましかったら、アンタもさっさと良い男見付けるんだな」
茶ソバの揶揄いを軽く受け流すと、いつもと違う反応が面白くなかったのか、不服そうに唸っていたが、すぐに違う話題へと話が切り替わっていた。
葵はいつにも増して楽しそうに、話に花を咲かせている。
真依にも葵にも借りを作ったままだし、アタシにしてやれることは何もないが、いつか訪れる別れの時が来るまでは、出来るだけの事はやるとしよう。
これが正しい選択なのかは分からないし、永遠に答えなんて出ることも無く、悩み続ける事になるんだろうな。
スッキリしない気分のまま歩いていると、葵はアタシの心中を察した様にこちらを向いてニコリと微笑み、少しだけ気が楽になった。
昔から手玉に取られ続けているが、やっぱり葵はアタシに必要な存在なんだなと実感する。
「なあ、昔読んだ本に書いてたんだけどさ、山の神ってのは嫉妬深いらしいぜ? アンタも覚悟しなよ?」
「あっはい、肝に銘じておきます」
他の連中に聞こえないように葵に耳打ちしながら、ハチ公の方をチラリと見ると、アタシの言いたいことを察した様で、少し狼狽えながら気まずそうに頷いた。
その様子を可笑しく思いながら、繋いだ手に軽く力を入れると握り返され、顔を見合わせると互いに笑顔になり、心の中から迷いが完全に消えたように思えた。
これにて終わりです。
拙い文ですが、お付き合い頂き有難うございました。