東の空に太陽が顔を出し、車道を車が行き交い、歩道にも人通りが増えてきた。
ベンチに腰掛けたままボンヤリとしている内に、すっかり朝になってしまった。
公園の中央に設置された大時計を見ると、午前8時を回っていた。
そのまま公園をぶらつき、今日は何をして過ごすかと思案する。
病院に目をやると、昨日と同じ位置に黒い靄が見えた。あのおっさんまだ生きてやがるのか、しぶとい野郎だな。
――麻倉はまだ生きてるかな。
昔住んでた集落の連中も靄が出始めてからは長く生きて十日だったが、その日の内に死んだ者も居たし、どういう法則なのかは分からずじまいだった。
この病院も毎日見に来ている訳じゃないから、麻倉の靄がいつから出始めたのかは分からない。
もしかしたら、昨日アタシが引き上げた後に容体が急変して死んだのかもしれない。
そう思うと胸のあたりがザワザワしてきた。
……ちょっと見に行くか。
病院に歩を進め、外周を回り麻倉の病室の窓が見える位置まで行くと、窓の外に滲み出る靄が見えた。
思わず安堵の溜息が出てしまった自分に驚いた。
何であいつが生きてて安心してんだ? 契約で意識が汚染され始めてるのか。
どうすっかな、顔を出すか?
けど険悪な雰囲気で別れちまったしな……。
麻倉の身の上話や、会ってから別れるまでの事を思い返すと変な気分になる。
契約の時の傷や食事のことを心配するやつなんて、あいつが初めてだったな。
あいつは自分が周囲から疎まれ続けた上にもうすぐ死ぬのに、何であんなにニコニコ笑ってられるんだろう。
人間ってのは、自分が死ぬ時はみっともなく取り乱したり、恨みつらみを吐き続けるもんじゃないのか。
それとも麻倉みたいな考え方をする人間の方が多いのか?
便宜上で死神や悪魔と名乗ってはいるが、所詮アタシは殺された人間の恨みを晴らすために作られた道具のような物だ。
本来なら自分の意思を持つこと自体が不具合のようなものだろうし、姿形が人間と同じでも欠けている部分が多々あるんだろうけど……。
やっぱり人間なんかが、そんな上等な物とは思えない。
あれこれと考えるうちに胸のザワつきが一層増してくる。
――止めだ止めだ、考え事をするのは苦手だ。
幾ら考えても答えなんて出ないことなら尚更だ。
今日の内に死ぬかもしれないし、あいつがくたばる時のツラでも拝んでやるか。
どんなに良い子ちゃんぶっても、死ぬ時には化けの皮も剥がれるだろ。
思案するのを止め、そう言うことにして麻倉の病室に向かった。
「我ながら結構チョロいな」
思わず自虐の言葉が口を衝いて出た。
―――――
「うーっす」
「……あっ、おはよう! また来てくれたのね、ありがとう」
病室の扉を開けると、物憂げに窓の外を眺めていた麻倉が驚いた顔をこちらに向け、満面の笑顔で礼を述べた。
死神が訪れたことに礼を言うとは、やっぱり変な奴だよな。
「まあ暇だしな、契約もあるし約束は守る性格なんでね。今日は少し顔色良くなってるな」
とても健康的とは言えないが、昨日の青ざめた顔に比べると幾らか血色が良くなっている。
「うん、シアちゃんと会ってから凄い元気が出てきたから。あっ、でも部屋に入る前にノックぐらいしてよ。着替え中だったら恥ずかしいし。もしかしてそう言うラッキースケベでも狙ってた? 言ってくれれば幾らでも見せてあげるのにぃ。お触りもオッケーだよ?」
「気色悪いこと言ってんじゃねえよ」
揶揄う様な笑みを浮かべながら、セクハラ親父のような冗談を飛ばす麻倉の額を人差し指で軽く弾く。
とりあえず次からはノックするか……。毎回こんなノリに付き合わされるのは精神的にキツイ。
「あはは、でも来てくれて本当にありがと。昨日は変なこと言ってごめんね、もしかしたら嫌われちゃったかと思ってた」
「ああ、アタシの寛大さに感謝すんだな」
「えー、そこは気にしてないって言うもんじゃないの」
嘘をつけない性格なんでな、と返すと麻倉はブー垂れているが表情は楽しそうだ。
「んで? 何するよ?」
「点滴がお昼ぐらいには終わると思うから、それまでゆっくりしましょ」
椅子に腰かけながら尋ねると、多量の薬液の入った点滴バッグに目を向けながら答えた。
点滴が終わるまでの間、以前アタシが訪れた街のことを聞かれたので思い出せる範囲で答えていく。
観光地になっている所も幾つか行ったことがあったが、麻倉はそれを特に興味深そうに耳を傾けていた。
隙あらば弟自慢を始める麻倉に辟易しつつも、会話を続けている内に昼食の時間が近付いて来た。
昨日の夕食の時と同じく、看護師が多量の飲み薬を持って現れた。
昨日とは別の看護師だったが、こちらもアタシが見舞いに来ていることに少々驚いていた。
「ご飯までに点滴終わると思ってたんだけどなあ。ちょっと動きにくいし、シアちゃんの分は自分で買いに行って貰っていい? お金は出すよ」
アタシには食事は必要無いと昨日言ったはずだが、麻倉はやはり昨日と同じく一人で食べるのは寂しいからと譲らない。
ほんと言い出したら聞かない奴だな。結局アタシが折れて、仕方なく金を受け取った。
麻倉は遠慮無く食堂で一番高いものを注文してもいいと言っていたが、コンビニで握り飯を二つ買って病室に戻ると麻倉が落胆の表情を浮かべた。
「えぇー、お握り二個だけ!? もっと良い物食べようよ、栄養偏っちゃうよ!」
「食う必要が無いんだから一個でも多いぐらいだよ。大体飲まず食わずでも死なないんだから栄養もクソもないだろ」
「むぅ、点滴が終わってたら一緒に行って、もっと良いの選んでたのに! 晩御飯はもっと美味しい物食べようね?」
こいつの中では、面会終了の時間までアタシが居座るのは確定事項らしい。まあどうせ暇だし構わないけど。
釣銭を渡し、麻倉の食事が配膳されるのを待ってから互いに昼食を取り始めた。
点滴が邪魔なのか、昨晩より食事に苦戦している麻倉を横目に握り飯を平らげた。
「もう食べちゃったの!? ちょっと待っててね、急いで食べるから」
「ゆっくり食えよ。別に逃げたりしねえよ」
昼食を終えた頃、やはり看護士が大量の薬を持って現れ麻倉の食事量を確認して去って行った。
点滴が終わると看護師が片付けに訪れ、麻倉が公園に散歩に行きたい旨を伝えると、やや渋っていたが無理はしないようにと釘を刺していた。
昨日よりは体調は良さそうだが、やはり外出は好ましくないのだろう。
「やった! それじゃ行こうか、シアちゃん」
はあ、やっぱり付き添いしなきゃならんのな。
麻倉に手を引かれ向かった平日昼間の公園は、やはり昨日と同じく人影は少ない。
「桜も結構散っちゃったね。どうせなら満開の時にシアちゃんと来たかったなあ」
花弁がまばらに残り、青々とした葉が多々顔を見せる桜の木に目を向けながら、麻倉が決して叶うことのない希望を漏らした。
口調の明るさからして、不平や恨み言の類ではないのだろう。
軽口を叩く気も起きず、かといって気の利いた事も言えず無言で歩を進める。
遊具が設置されている区画の近くに来たところで、小走りに駆けていた低学年の小学生らしきガキが転ぶのが見えた。
蹲ったまま泣き出したガキに、麻倉が慌てて歩み寄って助け起こした。
「あらら、大変。ぼく、大丈夫?」
膝を擦りむいたらしく、膝頭から血を滲ませながら泣きじゃくっている。
うるせー。転んだぐらいでぴーぴー泣くなら走り回るんじゃねえよ。
「シアちゃん絆創膏とか持ってないよね? ちょっと買ってくるから、この子見ててもらっていい?」
「あー、待て待て。任せな」
病院に向かって踵を返そうとする麻倉を制して、ガキの前にしゃがみ込み手を傷に当てる。
「イタイノイタイノトンデケー」
感情の篭ってない棒読みのまじない文句を唱え、手を離すとガキの膝の傷は消え、代わりにアタシの掌に擦り傷が出来て数秒で消え去った。
ガキは何が起こったのか理解できない様子で、目を白黒させている。
「ん? なんだあれ?」
明後日の方向を指差し疑問の声を上げると、麻倉とガキは釣られてそちらに顔を向けた。
二人の視線がアタシから外れた隙に息を止める。
ガキは麻倉に向き直り、何もないよ? と声をかけて麻倉に礼を言って去ろうとした。
麻倉は大丈夫かと心配していたが、ガキは怪我もしてないから平気と言い残し小走りで去って行った。
また転ぶんじゃないのかあいつ。
息を止めたままのアタシに麻倉は向き直り、不可思議そうに何が起きたのかと尋ねてきた。
間違いなく視界の外で息を止めたはずだが、これも麻倉には通用しなくなっているらしい。
「さっきぐらいの擦り傷とか切り傷みたいな小さい傷なら治せる。治すっつーより肩代わりする感じかね。筋肉あたりまでなら治せるけど、骨折や内臓に届くような傷は治せない。もちろん病気もな」
簡単に説明すると麻倉は感心した声を上げた。
「さっきの子、膝を擦りむいたの忘れちゃってたみたいだけど、あれはどうして?」
更に質問が来たので、視界の外で息を止めると誰もがアタシを気にしなくなることを説明してやる。
さっきのガキも、その影響で記憶に蓋がされた状態になっている筈だ。
記憶を消すわけじゃないから何かの拍子で思い出すかもしれないが、その時には夢の中の出来事か記憶違いとでも思うだろう。
以前、今みたいに転んだガキの怪我を治してやったら、変に懐かれて物凄く鬱陶しかったんだよな。
「自分が怪我してでも治してあげるなんて、やっぱり優しいね」
「ガキの泣き声は煩いから嫌いなんだよ。別に全然痛くねえし、すぐ治るしな。つか見ず知らずのガキのために金を使おうとするアンタも大概だろ」
吐き捨てたアタシに、麻倉はニコニコとした顔を向ける。
照れ隠しとでも勘違いしてそうだな。訂正するのも面倒だし好きに思わせとこう。
「そろそろ戻ろうか」
「ん? もういいのか?」
「うん、ちょっと疲れちゃった」
外に出てまだ30分程度しか経ってないのに、額に汗を浮かべ息が少し荒くなっている。
そのまま病院に戻り、帰りの僅かな道のりだけで息切れを起こした麻倉をロビーの長椅子に座らせた。
「ごめんね、思ってたより、体力、落ちてたみたい」
「別に構わないけどさ、そんなんでよく襲われた時に逃げ切れたな」
「火事場の馬鹿力ってやつだね。けど病院に着くのがもう少し遅かったら、死んでたかもしれなかったんだって。三日ぐらい意識が戻らなかったらしいし」
麻倉は息を整えて、何故か残念そうに笑っている。
「さ、シアちゃんの晩御飯の注文して部屋に戻ろっか」
額の汗を拭って立ち上がり、食堂に向かった。
何を注文したか聞いても、昨日と変わらず届いてからのお楽しみと言うだけだ。
「楽しかったぁ。シアちゃんのお陰で久しぶりに外に出られたよ。ありがとね」
「そいつは何よりで」
病室に戻りベッドに入った麻倉の礼を適当に流す。
時計を見ると、まだ午後2時を回ったぐらいだ。
「ねね、絵のモデルになってもらえない?」
何をして時間を潰すかと考えていると、麻倉が突拍子もない事を言い出した。
そういや昨日この部屋に来た時も絵を描いてたっぽかったな。
「んー、まあモデルぐらい別にいいけど」
「やった! じゃ、服脱いで」
「……はっ? 何言ってんだアンタ」
「可愛い子の絵を描くって言ったら裸婦画に決まってるじゃない! さ、早く早く」
麻倉は妙にギラついた眼差しで急かしてくる。
ダラダラと駄弁って、また弟自慢を聞かされるよりはマシかと承諾したのは大失敗だった。
やべえ、今の状態じゃ力尽くで来られたら勝ち目が無い。
強引に衣服を剥ぎ取られることを思い浮かべると、全身に不快な寒気が走る。
「もしかしてヌードモデルは嫌?」
「いやに決まってんだろ! ふざけんな馬鹿野郎!」
「うーん、残念。じゃあ服着たままでいいよ」
「だから嫌だっつってん……あぇ?」
椅子から立ち上がり、すぐに逃げれる態勢で警戒しているとあっさりと引き下がった。
絶対に食い下がると思ってたが、何を企んでやがるんだ。
「ふふ、冗談よ冗談。真に受けて本当に脱いでくれたらラッキーとは思ったけど」
悪戯っぽい笑みを浮かべてクスクスと笑っている。
揶揄われただけかよ。焦って損したわ。
「んだよまったく……。んで、どんなポーズとりゃいいんだ」
「そのまま椅子に座っててくれればいいよ。昨日の窓枠に腰掛けてたのがすっごく綺麗で絵にしたかったけど、危ないし我慢するよ」
さいですか、と返して椅子に座り直し背筋を伸ばすが早速麻倉から注文が入った。
「もうちょっと表情柔らかく出来ない? シアちゃんって微妙にジト目気味って言うか、目に力入ってるよね。折角の可愛い顔なのに勿体ないなあ」
そんなもん意識したことないわ。
何度か瞼の力加減を意識しながら瞬きしたり、目の周りを手でほぐしたりしてるとOKが出た。
「うんうん、いい感じ。言葉遣いも丁寧だと最高に可愛いのになあ。けど、シアちゃんって結構なお婆ちゃんな割りに、話し方はお年寄りっぽくないよね」
「ああ、ナンパとかカツアゲしてる奴を殴った後、スマホを分捕って適当に遊んでたからな。それで喋り方が移っちまったみたいだ」
また不平を言いそうだったので、バッテリーが切れるまで使い倒してから返したと補足しておく。
しつこいナンパをしていた奴らにはSNSを覗いたり、ゲームのガチャ用に貯めてた石を全部使い切ったりする程度で済ませてやった。
カツアゲしてた奴からは金も奪って道端に全部ばら撒いてやったが、麻倉には黙っとこう。
また文句を言われるのも面倒だ。
「それより、さっさと描けよ。表情維持するの結構だるいんだぞ」
はぁい、と間延びした返事をしてタブレットに向かい始めた。
何度か表情が元に戻ってると指摘されながら、麻倉が絵を描くのを眺め続ける。
時折手を止めてうんうん唸って何事かを考え込み、何か閃いたように明るい表情になり再び手を動かし始めたりと、意外に見ていて退屈しない。
尤も身動きせずにじっとしているのは少々苦痛だが。
たまに何かに気付いたかのようにハッと顔を上げ、こちらを向いてニコリと微笑む。
何故か頬が僅かに緩むのを感じる。なんか変な気分だ。
どれぐらいの時間が経ったか、病室の扉がノックされ昨日の看護師が顔を出し、お決まりのやり取りを交わして退出していった。
「あっという間に時間経っちゃったね。ごめんね、疲れたでしょ?」
「何ともないよ。アンタこそ何時間も絵を描いてて平気なのか」
「うん、昔から絵を描くの好きだからね。シアちゃんみたいな可愛い子がモデルなら、朝から晩まで描き続けても飽きないよ」
そっちじゃなくて体調の方を訊いてるんだが、別状は無さそうだしまあいいか。
暫し他愛のない会話をしながら食前の薬が届くのを待ち、薬を飲み終えた頃に夕食が運ばれ、二人揃って卓につく。
「今日はオムライスにしたよ。これなら箸を使わないから少しは食べ易いよね?」
「ふん、余計なお世話だっての。箸ぐらい使えるっつうの。」
昨日の夕食でアタシが苦戦してたから気を使ったのだろう。
ついつい強がりを口にしてしまったが、それも見透かされているようだ。
「まあまあ、華麗な箸捌きは今度見せてくれればいいよ。それより冷めない内に食べましょ。いただきまーす」
「……イタダキマス」
手を合わせて食前の挨拶をして、二人揃って食事に取り掛かる。
匙で多めに掬って口に運ぶと、麻倉は慌てて食べるペースを上げ始めた。
アタシに合わせる必要なんざ無いが、このままだと無理な食い方しそうだな。
「んー。やっぱ少しずつの方が食べ易いな」
一口目を咀嚼して飲み下し、一言添えて少な目に掬って食べ続けると、麻倉は安心した顔で食べるペースを落とした。
我ながら何やってんだかな、と自嘲の気分が湧き上がるが、顔に出さないように注意を払いながら食事を続けた。
「ご馳走様でした」
「ごっそさん」
ほぼ同時に食べ終わり、食後の挨拶を済ませる。
この食前食後の挨拶は、上手く言い表せない気持ち悪さを感じてしまう。
「口の周りにケチャップ付いてるよ。動かないでね」
そう言ってアタシの顔に手を伸ばし、指先で唇をなぞり自らの口に運んで舐め取った。
「んなっ! ……アンタなあ! 止めろよ、そう言うことは!」
「そんなに照れなくてもいいじゃない、恋人同士なんだし」
声を荒げても、どこ吹く風と言った様子だ。
もう少し文句を言いたかったが病室の扉がノックされ、看護師が持って来た薬を飲み始めて有耶無耶にされてしまった。
薬を飲みえ終えてからは、面会時間が終わるまで他愛の無い会話をして引き上げた。
―――――
次の日は特に何事も起きず、一日が過ぎていった。
相も変わらずな弟自慢を交えられつつダラダラと駄弁り、タブレットで麻倉のお気に入りの投稿者の動画を見て、一緒に食事を取り、絵描きの続きに付き合ったりだ。
ある程度描けてるならモデルは必要ないんじゃないかと聞いたが、モデルが目の前にいた方が捗るそうだ。
ゲージュツなんて物は全く解らんが、そんなもんなのかね。
夕方の看護師の交代の時間が来ると中断し、どの程度進んだのか見ようとしたが、完成するまでは秘密と隠されてしまった。
こいつが死ぬまでに完成するんだろうか。
何よりも、遺作になりそうな作品が死神の絵ってのもどうなんだと突っ込んだが、好きな人をモデルに絵を描けるのは最高に楽しいんだそうだ。
ますます理解の埒外だ。
夕食の最中、麻倉がネット通販で注文したという段ボールを看護師がいくつか運んできた。
入院生活で必要な物らしいが、病院にまで届くとは便利な世の中なもんだ。
麻倉が地元の権力者の娘だから、特別待遇なのかもしれんが。
――翌日。
これまでと同じく、面会が可能になる時間まで公園で時間を潰して病院に向かう。
ヤクザのおっさんの病室の窓から漏れ出る靄を見て、僅かな忌々しさを覚えながら正面玄関を抜けてエレベーターに乗り込む。
今日もまた駄弁って飯食ってと、お決まりのパターンかな。
残された時間は少ないのに、こんな無為に日々を過ごすだけで満足なんだろうか。
全く必要は無いし完全に親切の押し売りだが、何度も飯を奢られているし、借りを作ってばかりなのは何か落ち着かない。
かと言って何かをしてやることも出来ないし、どうしたものか。
今までは、腕力で解決できないことに気を揉む事なんて無かったんだがな……。
アタシも意外に面倒な性格してんな。それともあいつの影響を受けちまったのか。
良い案が出ないままエレベーターが六階に到着し、麻倉の病室に向かった。
ノックして返事を待ち扉を開けると、麻倉は見慣れた入院着ではなく私服でベッドに腰掛けていた。
ブラウス、カーディガン、スカート、どれも新品のようだ。
顔もよく見ると、薄っすらとだが化粧もしている。
「どしたんだ、その格好? 今日で退院か?」
退院するなら、こいつの家に通わなきゃならんのかと頭を過ぎる。
いや、アタシがいなけりゃ弟とよろしくやるだろうし、これでお役御免か。
そう思うと、胸に妙な空虚感が一瞬起こった。
「ううん、まだ退院は出来ないよ。それより、この服どうかな?」
「あー、まあ似合ってるんじゃねえの? よく分からんけど」
キラキラとした期待の篭った眼差しの麻倉に、適当な返事をすると露骨に不満顔になった。
「えー、それだけぇ? 折角新しい服を買ってメイクも頑張ったのに! 絶対にシアちゃんも惚れ直してくれると思ったんだけどなぁ」
何を言っとるんだこいつは。そもそも惚れてすらねえよ。
昨日届いたのは、この服と化粧品だったのか。何のためにそんなもん用意したんだ。
「わりぃな、そういうのに頓着が無いもんでな。そんで? 退院じゃないなら、何でそんな格好してんだ?」
「そりゃあ勿論、デートしかないでしょ!」
麻倉は愚問とでも言わんばかりに、得意気な顔で答えた。
いや、何言ってんだこいつ。
「待て待て、アンタ入院中だろうが。大人しく寝とけよ」
「シアちゃんと会ってからすっごく体の調子が良いし、ちゃんと主治医の先生から外出許可も貰ってるよ。だから大丈夫!」
いつの間にそんな根回ししたんだ。
もうすぐ死ぬ人間が、何でそんなに無駄に行動力が有るんだよ。
何より本当に遊び歩いて平気なのか? 親父と爺の名前を出してゴリ押したんじゃないだろうな。
「ささ、もうタクシーも呼んであるし行こ行こ! デートコースもばっちり決めてるから、楽しみにしてね!」
強引に手を引かれ、病室から出て一階に向かった。
「つーか、何でそこまで計画立ててんだよ。アタシが来なかったら全部無駄になってただろ」
「シアちゃんなら、今日も来てくれるって信じてたから」
人を疑うことを知らないかのような屈託の無い笑顔を向けられ、アタシはただ頭を抱えて唸ることしかできなかった。